樹里ちゃん、吸血鬼に襲われる
御徒町樹里はメイドです。
本人にはその自覚はありませんが、間違いなくメイドです。
彼女は警視庁を混乱に陥れてから数日後、とある古びた洋館に住む一家のところで働く事になりました。
「行ってらっしゃいませ、旦那様」
一部のコアなマニア達が一番言ってもらいたい言葉で送り出されるのは、洋館の持ち主である傘井氏です。
年齢は不詳で、子供はなく、妻と2人暮らしです。見た目は50代といったところでしょうか。
珍しい苗字ですが、本名だそうです。
彼はある企業の経営責任者だとの事ですが、樹里は傘井氏が何をしているのか知りません。
彼はいつも夜になると出かけ、明け方前に戻ります。
樹里は傘井氏が帰宅するのを出迎えた事はありません。
それはもう1人のメイドの仕事なのです。
もう1人のメイドと樹里は、今のところ顔を合わせた事がありません。
彼女は樹里が起きる前に帰り、樹里が寝てからやって来るという不思議なシフトで勤務しています。
今日もまた、日が沈んでから出かける傘井氏を送り出す樹里。
彼女は傘井氏が見えなくなるまで深々と頭を下げていました。
「樹里さん、お夕食の支度はできまして?」
傘井氏の妻である絹子さんが声をかけました。樹里は絹子さんの方を向いて、
「はい、出来ております」
「そう。ありがとう」
樹里はずっと疑問に思っている事を尋ねてみました。
「旦那様はいつもお夕食を召し上がらずにお出かけですが……」
「ああ、会社で食事をしながら会議なのよ。貴女のお料理を食べられないのをいつも残念がっているわ」
絹子さんは微笑んで答えました。
「そうでございますか。ありがとうございます」
樹里はニッコリ笑ってお辞儀をしました。
普通のメイドなら、何故いつも旦那様は夜出かけて明け方前に戻るのか疑問に思うものですが、普通でない特殊なメイドの樹里は、そんな事は全然疑問ではないようです。
彼女は、傘井氏が自分の料理を食べたくないと思っているのではないかと心配していたのです。
ちょっとズレた感覚の樹里らしい反応です。
「樹里さん、主人の事、他所では話してはいけないわよ」
絹子さんは食堂に向かう途中で言いました。樹里はまたニッコリして、
「はい、奥様。誰にも話しません。ご安心下さい」
「いいお返事ね」
絹子さんは微笑み返しました。でも、何故か目が笑っていません。
そして、ある日の明け方前の事です。
「いつまで我慢させる気だ? 私はもう気が狂いそうだ」
傘井氏は血走った眼で絹子さんに怒鳴りました。
「そんな大声を出さないで。あの子が目を覚ましてしまうわよ」
絹子さんは冷静です。しかし傘井氏は、
「もういいだろう。あの子の身体には、十分我が一族の秘伝の薬が巡っている。その血が一段と美味になる薬がな」
と舌なめずりして言いました。
「はいはい。好きになさって。私は後3日は我慢した方がいいと思いますけど」
「もう十分さ!」
絹子さんの呆れ顔をものともせずに、傘井氏は樹里の眠る部屋へと駆け出しました。
「まさしく生娘の生き血よ。あの娘、間違いなく男を知らん」
傘井氏はどうやら吸血鬼のようです。
危ない。樹里が危ないです。
樹里は熟睡していました。
多分出川○朗が来ても起きないでしょう。
彼女は生き血を吸われ、吸血鬼の眷属となってしまうのでしょうか?
「フフフ」
傘井氏は低い声で笑うと、ドアを開きました。
不用心な事に、樹里は鍵をかけていないようです。
「その首筋に……」
傘井氏が樹里のベッドに近づき、枕元に顔を近づけた時です。
「ぎゃああああああッッッッッ!」
叫び声。
「ひっ、ひっ、ひーっ!」
ベッドの脇に腰を抜かしている傘井氏の姿がありました。
どうやら叫んだのは傘井氏のようです。
「はむ?」
目をこすりながら樹里がムックリと起きました。
「おはようございます、旦那様。どうなさいましたか?」
まるで状況を把握していない樹里は、ホンワカした雰囲気で尋ねました。
傘井氏はヒクヒクと顔を引きつらせて、
「な、何で、枕元に、ニンニクが、置いて、あるんだ?」
「はい、よく眠れるようにです」
樹里は笑顔全開です。傘井氏は引きつったままで、
「そ、それはタマネギだろう!」
「そうなのですか? さすが旦那様は博学でいらっしゃいますね」
樹里はまだこの状況の異常さに気づいていないようです。
「ええい、そんなもの、気合いではね除けてやる!」
傘井氏はニンニクを枕で払い落とし、樹里に襲いかかりました。
「うごわぁぁぁぁぁッッッッッ!」
傘井氏が樹里の首筋に噛みつこうとした時です。
「どうなさいました、旦那様?」
傘井氏は思わず樹里から離れました。
「な、な、な……」
言葉になりません。
樹里は首に十字架を下げていたのです。
傘井氏は危うく十字架に触れてしまうところでした。
「お、お前、クリスチャンなのか?」
傘井氏が驚愕して尋ねると、もっと凄い驚愕の答えが返って来ました。
樹里はポッと頬を赤くして、
「いいえ。私は樹里ちゃんです、旦那様」
「……」
傘井氏は戦意を喪失し、しゃがみ込んでしまいました。
「あっ!」
樹里がベッドから出て、窓に駆け寄ります。
「旦那様、今日もいいお天気ですよ」
「や、やめ、やめ……」
しかし遅かったのです。
樹里はカーテンを開け放ちました。
途端に降り注ぐ朝日。部屋の中が見る見るうちに明るくなります。
「ひーっ!」
傘井氏は太陽の光をこれでもかというくらい浴びて、断末魔をあげ、灰になってしまいました。
そして、樹里は職を失いました。
でも命は助かったのでした。