樹里ちゃん、左京ととうとう離婚する?
俺は杉下左京。
ちょっと前までは、JR五反田駅の前で事務所を構えていた私立探偵だ。
今は、愛妻の樹里の稼ぎで建てた新築の一軒家に申し訳なさそうに事務所を転居した。
探偵になる前には、天下の警視庁で警部まで務めたのが、今となっては懐かしい思い出だ。
ところが、だ!
その懐かしい思い出のある警視庁から、人生最大の衝撃的な事件がもたらされようとしていた。
今野敏子。
その名を元同僚の平井蘭から聞かされても、全く思い出せない程、俺は樹里との生活に満足し切っていた。
だが、その女が、俺と婚約していたと蘭に告げられた時、ようやく全てを思い出した。
まだ、俺があの腐れ縁の加藤(旧姓:宮部)ありさと出会う前。
中学生の時だ。
学校の行き帰り、よく行き会う幼稚園児がいた。
くれぐれも念を押しておくが、俺は決してロリコンではない。
その幼稚園児こそ、今野敏子だ。今思えば、とんでもなくませているガキだった。
「さきょうおにいちゃんとけっこんしたいです」
その当時、まだ五歳くらいだった敏子に小首を傾げてそう言われた俺は、冗談半分に、
「いいよ。敏子ちゃんは将来美人になりそうだもんな」
そんな返事をしてしまい、その三日後くらいに敏子に誓約書を書かされたのだ。
「私杉下左京は、今野敏子さんを将来妻とする事を誓います」
日付を書き込み、百円ショップで購入したハンコまで押す念の入れようだった。
敏子が全て理解した上でそこまでしていたのかは、本人に訊いてみなければわかないが、今現在は、警察庁のキャリア官僚で、すでに警視正にまで上り詰めている事を考えると、計算尽くだったのだろうと思えてくる。
その敏子が、樹里が働いている五反田邸に向かったと聞いた俺は、取るものも取り敢えず、愛車に乗り込むと、五反田邸がある世田谷の成城へと向かった。
(敏子が離婚を迫れば、樹里はどう対応するだろうか?)
俺は素直過ぎる樹里の言動を心配してしまった。
(もしかして、離婚届を突きつけられて、そのまま素直にサインしてしまったり……)
想像するだけで涙がこみ上げてくる。
だが、俺と樹里の間には、瑠里と冴里という愛の結晶が存在している。
いくら樹里でも、そんな軽はずみな事はしないだろう。
親友の松下なぎささんなら、意味不明な理由で離婚してしまうかも知れないが。
だが、事態は俺の想像を超えて展開しているとは、その時の俺は思いもしなかった。
樹里と出会って今日までの事が、まさしく走馬灯のように駆け抜けて行ったので、五反田邸には知らないうちに到着していた。
「左京さん!」
驚いた事に、樹里の同僚のメイドである目黒弥生さんが、門の前に立っており、俺の車に気づいて駆け寄ってきた。
「今、大変な事が起こっているんです! 早く来てください!」
彼女はパニック状態で、身振り手振りを交えて、俺に事情を説明してくれた。
どうやら、敏子が樹里に離婚届を突きつけ、樹里はそれにサインをしてしまったようだ。
何て事だ! 予想以上に最悪な事態だ……。
俺は車を邸の庭に無造作に止め、ムッとした顔でこちらを睨んでいる警備員さん達に愛想笑いで会釈をしながら、玄関へと走った。
「杉下さん、まずは落ち着いてね」
玄関の前には、五反田氏の愛娘の家庭教師である有栖川倫子さんと住み込み医師の黒川真理沙さんが立っていた。
「いや、俺は冷静ですよ」
そう言いながらも、顔が引きつっているのが自分でもわかる。
「全然冷静には見えませんよ、杉下さん」
真理沙さんが聴診器を取り出して、俺を診察し始めた。
「今、応接間では、貴方の想像を絶する事が起こっています。今の心拍数では、堪えられないかも知れません」
真理沙さんが悲しそうな顔で告げる。
「大丈夫です。心配要りませんよ」
俺は無理に笑顔を作り、真理沙さんの手を押しのけた。
心拍数が上がっているのは、貴女に聴診器を当てられたからですとは断じて言えなかったが。
「そうですか」
真理沙さんは倫子さんと顔を見合わせ、脇にどいてくれた。俺は二人に頭を下げて、玄関のドアを開け、ロビーに入った。
「あら、ちょうどよかったわ」
すると、応接間から、多少は昔の面影が残っている敏子と思われる女性が出てきた。
敏子の後ろから、いつも通りの笑顔の樹里が出てきたのを見て、俺は更に顔が引きつった。
何故、笑顔なんだ、樹里……? 悲しみがこみ上げてきた。
「久しぶりね、左京お兄ちゃん。敏子よ」
敏子は樹里に負けないくらいの笑顔で言った。
「久しぶりだな、敏子ちゃん。今日は何の用で来たんだ?」
俺は敢えて何も知らないふりをして尋ねた。すると敏子はクスッと笑って、
「相変わらず、嘘が下手ね、左京お兄ちゃん。全部知っているんでしょ?」
嫌な汗が全身から噴き出すのを感じた。
「小さい時、左京お兄ちゃんと交わした約束を果たしてもらうために来たの。そしてたった今、貴方の奥さんに離婚届にサインをしてもらったところなの」
事も無げに言ってのける敏子に、空恐ろしさを感じ、
「そうなんですか」
その横に立って笑顔全開の樹里に心が折れそうになった。
「後は左京お兄ちゃんがサインしてくれれば、完了よ。さ、お願いね」
敏子が離婚届と万年筆を差し出した。
「……」
離婚届には、紛れもなく樹里の字で必要事項が書かれていた。後は俺がサインをするだけの状態だ。
これは一体どういう事だ? 樹里は本当は俺と離婚したいのか?
頭が混乱した。
「後は左京さんに全てお任せしますね」
樹里は笑顔全開でそう言った。
「そうなんですか」
思わず樹里の口癖で応じてしまっていた。
ああ、俺と樹里は離婚するしかないのだろうか?
待て、次回、だ。