樹里ちゃん、ホラー映画の撮影にゆく(後編)
御徒町樹里は日本有数の大富豪である五反田六郎氏の邸の専属メイドで、ホラー映画の幽霊役もこなすママ女優でもあります。
樹里はその映画の撮影のために映画会社のスタジオに来ています。
前回に引き続き、たくさんの方々が登場を見送られ、涙を飲んでいる中、一番どうでもいい存在の不甲斐ない夫の杉下左京は、辛うじて登場していました。
「一番どうでもいい存在って何だよ!?」
正しい指摘をしたはずの地の文に理不尽に切れる左京です。
下衆の極みだと思う地の文です。
「うるせえ!」
更にヒートアップする左京ですが、実は登場シーンが多いので内心は喜んでいるのは内緒です。
「喜んでねえよ!」
顔を真っ赤にして照れる左京です。
「付き合いきれん!」
左京は図星を突かれて降参したようです。
おや? 何の反応もせずに長女の瑠里と次女の冴里をあやしています。
何とも表現のしようもない敗北感を初めて感じる地の文です。
「そうなんですか」
そんな中、樹里は笑顔全開で特殊メイクをしていました。
今回は幽霊の役なので、顔色も悪く、表情も暗くしなければならないのです。
「完成です」
見た目がまさに幽霊のようなメイクさんが告げました。
「そうなんですか」
樹里は笑顔全開で鏡に写った自分の顔を見ました。
「ひい!」
後ろで見ていた意地悪コンビが小さく悲鳴をあげるほど、樹里の顔は恐ろしくなっていました。
「誰が意地悪コンビだ!」
正しい状況説明をした地の文に切れる稲垣琉衣と貝力奈津芽です。
「樹里さん、凄いです! かなり怖く仕上がりましたよ」
怯えながら賞賛するという難しい事をやってのける琉衣です。
「そ、そうですね! 素晴らしい出来です!」
琉衣の背後に隠れて同じく褒め称える奈津芽です。
「そうなんですか」
それにも関わらず、樹里は笑顔全開で応じました。
「ひい!」
ある意味極限の恐怖を体験した琉衣と奈津芽です。
「いやあ、それ程でもないですう」
幽霊のメイクさんが 何故か照れながら言いました。
「幽霊ではないですう」
青白い顔をして地の文に弱々しく抗議するメイクさんです。
ちょっとチビりそうになった地の文です。
「樹里さん、そろそろ出番です」
助監督が呼びに来て、
「ひい!」
メイクさんの顔を見て腰を抜かしました。
「私じゃないですう。樹里さんを見て驚いてくださいィ」
メイクさんはか細い声で告げました。
「は、はい……」
メイクさんのリアルな怖さを体験した助監督は、樹里の特殊メイクにはそれ程驚きませんでした。
「樹里さん、お願いします」
「そうなんですか」
樹里は笑顔全開で応じ、メイクルームを出て行きました。
スタジオでは、もう一人の主演女優である楼年エリナが撮影を終了して、自分専用の椅子に腰掛けて休憩していました。
「樹里さん、入ります」
助監督が告げました。
(いちいちそんな事、言わなくてもいいでしょ)
エリナはムッとして脚を組み替えました。
「よろしくお願いします」
樹里が来て挨拶しました。エリナは持ち前の二重人格を如何なく発揮して笑顔になり、
「こちらこそよろしくお願いします」
一瞬樹里の特殊メイクにギクッとしましたが、
(別に大した事ないわ)
すぐに気を取り直して、台本に目を落としました。
「それでは、樹里さんの登場シーン、本番入ります」
助監督が告げると、照明がそれ用に変わり、薄暗くなりました。
「用意、スタート!」
監督の岩清水信男が大きな声で言いました。スタジオ全体に緊迫感が走ります。
セットは浴室です。第一犠牲者役の女優がスタンバイし、シャワーを浴び始めます。
その次の瞬間、脱衣所と浴室を隔てるすりガラスの扉にフワッと影が写ります。
それが実は樹里です。
「誰?」
犠牲者役の女優がビクッとして声をかけます。でも、何も反応がありません。
女優は生唾を飲み込み、ゆっくりと扉を押し開けます。しかし、脱衣所には誰もいません。
「気のせいか」
ホッとして浴室に戻った女優の視界に樹里が入りました。いつの間にか背後にいたのです。
「いやあああ!」
女優は演技ではなく、本当に恐怖に震えて絶叫しました。
特殊メイクをした樹里はまさしくこの世の者とは思えない顔をしていました。
いつもの笑顔を封印し、真顔で口を半開きにし、斜め右から見つめる樹里は、スタジオの全員を凍りつかせるほどでした。
「カット!」
岩清水監督ですら、一瞬身を竦ませた程です。
「そうなんですか」
撮影が終わった途端に笑顔全開になり、その場を和ます樹里です。
「いやあ、最高でしたよ、樹里さん。その調子でよろしくお願いしますね」
岩清水監督が言いました。
「ありがとうございます」
樹里は笑顔全開で深々と頭を下げました。
「しっかりして!」
助監督は気絶してしまった女優に呼びかけました。
「大丈夫です。脈拍も正常で、呼吸もしていますから」
七百八ある資格のうちの看護師の顔になった樹里が告げました。
「そうなんですか」
間近で樹里を見た助監督は顔を引きつらせて樹里の口癖で応じました。
腰が抜けてしまった女優はスタッフの肩を借りてスタジオを出て行きました。
(御徒町樹里、今のはメイクのお陰ではない……)
台本をギュッと握り潰して、嫉妬の目を向けるエリナです。
(それでも、この映画の真の主役は私よ、樹里!)
エリナは顔は笑顔ですが、心の中には闘志の炎が燃え盛っていました。
「そうなんですか」
それでも樹里は笑顔全開です。
めでたし、めでたし。