樹里ちゃん、また映画の撮影にゆく
御徒町樹里は日本有数の大富豪である五反田六郎氏の邸の専属メイドで、日本屈指のママ女優でもあります。
今日は、樹里の自伝が原作の映画の撮影の日です。
撮影は長丁場なので、樹里は夜明け前からスタジオに入っています。
ですから、昭和眼鏡男達との件も、保育所の男性職員の皆さんとの絡みもありません。
全てカットした地の文です。そして、抗議の言葉すら許しませんでした。
朝が早かったので、長女の瑠里はまだ不甲斐ない夫の杉下左京とアパートで寝ています。
次女の冴里は、瑠里役で出演シーンがあるので、一緒に来ていますが、眠っています。
「おはようございます」
樹里は撮影スタッフに笑顔全開で挨拶しました。
「おはようございます!」
元気よく挨拶を返す男性スタッフと、
「おはようございます……」
事務的に挨拶を返す女性スタッフです。
今日は、樹里が瑠里を出産するシーンの撮影がメインです。
「授乳シーンがあるらしい」
噂が噂を呼び、関係ない人間までスタッフを装って潜り込んでいるのです。
「おはようございます、樹里さん」
そこへ左京役のスケベ俳優が入って来ました。
「スケベじゃない!」
加古井理は、正直が服を着て歩いているような地の文の表現に切れました。
「おはようございます、平井さん」
笑顔全開で違う名前で挨拶する樹里です。
「樹里さん、僕は加古井です。平井さんは警視庁の警部補ですよ」
苦笑いして訂正する加古ピーです。
「そんな風には呼ばれていない!」
勝手にニックネームをつけた地の文にまた切れる加古井です。
意外に短気みたいです。
「それも違う!」
更に突っ込みを入れる加古井です。出番がない左京の代わりに頑張っているようです。
「そんなつもりはない!」
突っ込み疲れて、フラフラしている加古井です。飽きたのでこの辺でやめる地の文です。
「そうなんですか」
それでも樹里は笑顔全開で応じました。
「樹里さん、出産シーンの撮影に入ります。衣装を着替えてください」
助監督が言いました。
「そうなんですか」
久しぶりにその場で着替えるボケをかます樹里です。
「おお!」
男性スタッフが色めき立ち、女性スタッフが舌打ちしました。
「樹里さん、着替えは更衣室でお願いします」
助監督は嫌な汗を流して告げました。
「そうなんですか」
樹里は笑顔全開で応じました。
そして、分娩室のセットを組んだスタジオにワンピースタイプの白い病院着に着替えた樹里が入って来ました。
「え?」
助監督が気づいてしまいました。
「あの、樹里さん、もしかして、その下、何も着ていませんか?」
顔を赤らめて確認する助監督です。それを聞きつけた男性スタッフがまた色めき立ちました。
「はい、何も着ていませんよ。出産するのですから」
樹里は笑顔全開で応じました。男性スタッフの多くが、鼻血を噴き出してしまいました。
「そ、そこまで脱がなくて大丈夫です、樹里さん。出産はあくまで演技ですから、下着は着けたままでお願います」
助監督も樹里が薄い病院着を着ているだけなのを知り、彼女を見る事ができません。
「そうなんですか?」
樹里は不思議そうに首を傾げました。
(か、可愛い!)
それを隅で見ていた加古井も鼻血を垂らしてしまいました。
(樹里さん、凄い女優魂だ……)
そして同時に、樹里の姿勢に感動する加古井です。
樹里は首を傾げたままでスタジオを出ました。
「ああ、樹里さん、着替えは更衣室でお願いします!」
スタジオの外で、悲鳴にも似た女性スタッフの声が聞こえました。
「そうなんですか」
樹里の冷静な声も聞こえ、助監督は項垂れました。
しばらくして、下着を着けた上に病院着を着た樹里が入って来ました。
「冴里ちゃん、スタンバイします」
女性スタッフが眠っている冴里を分娩台の横にある小さなベッドに寝かせました。
樹里は分娩台に上がり、横になりました。
医師役と看護師役の俳優達も配置に付きます。左京役の加古井もスタンバイしました。
樹里の母親の由里役の由里と、姉の璃里役の璃里も病院のロビーのセットに入ります。
「本番、用意、スタート!」
監督が号令をかけました。加古井が病院に入って来るシーンからです。
「今樹里は分娩室に入ったところよ、左京ちゃん」
事実通り、由里はウィンクをして言いました。加古井は苦笑いして頷き、分娩室へと三人で急ぎます。
「おぎゃあおぎゃあ!」
赤ちゃんの泣き声が聞こえます。決して、女性スタッフが冴里を虐めて泣かしたのではありません。
効果音です。
「当たり前です!」
誹謗中傷をする地の文に切れる女性スタッフです。
「おめでとうございます、女の子です」
中から出て来たのは、実際の看護師さん(通称:樽さん)とは似ても似つかない美人で若い女性です。
「もう生まれたんですか?」
加古井と由里と璃里は顔を見合わせました。
「はい。ウチの最短記録ですよ、お父さん」
樽さん役の女優は笑顔で言いました。加古井は微笑んで、
「樹里に会えますか?」
「ええ、会えますよ」
加古井達は分娩室のセットに入って行きます。カメラがそれを追うように続きます。
「樹里……」
加古井は目が点になってしまいました。樹里が冴里に授乳していたのです。
「カット! 樹里さん、授乳はまだしないでください!」
監督がメガフォンで言いました。
「そうなんですか」
樹里はそれでも笑顔全開です。
めでたし、めでたし。




