樹里ちゃん、決断を迫られる
御徒町樹里は日本有数の大富豪である五反田六郎氏の邸の専属メイドです。
今日は、いつもと違い、不甲斐ない夫の杉下左京も古着屋で買い叩いたボロボロのスーツを着込んでいます。
「新品だよ!」
左京は、全国の古着専門店の皆さんを敵に回すような身の程知らずの言葉を吐きました。
「そんなつもりはないよ!」
圧力には滅法弱い左京は、すぐに白旗を掲げました。
「だから違うって言ってるだろ!」
何が何でも、自分は悪くないと主張する左京です。
「付き合い切れん!」
すぐに逆ギレする左京です。人としてどうかと思う地の文です。
「おめえに言われたくねえよ!」
地の文は人ではないので、そんな事を言われても困ります。
「そうなんですか」
「そうなんですか」
樹里と長女の瑠里は笑顔全開で応じました。次女の冴里は笑顔全開だけです。
「テレビ局のプロデューサーが用事があるって、何だろうな?」
嫌な予感しかしない左京は樹里に尋ねました。
きっと離婚の記者会見を開くのだと思う地の文です。
「やめろー!」
左京は血の涙を流して叫びました。
「自伝の事でお話があると言われましたよ」
樹里は笑顔全開で言いました。
「自伝?」
急に嬉しそうになる左京です。でも、左京の自伝はまだ全国で十冊しか売れていないのは内緒です。
「聞こえてるよ!」
また血の涙を流して叫ぶ左京です。
「何だろうな?」
思い込みの激しさだったら世界ランキング上位の左京は、早速いくら儲かるのか計算を始めました。
「ち、違う! そんな事はしていない!」
あからさまにわかり易い反応をする左京です。
するとそこへ、五反田邸の超大型リムジンが到着しました。
「樹里さん、迎えに来たよ」
五反田氏が窓を開けて言いました。
「いつもお世話になっております!」
左京はまさしく腰が地面スレスレくらいに姿勢を低くして、指紋がなくなるくらい揉み手をしながら五反田氏に近づきました。
以前は「金の亡者」とか言っていた事を告げ口しようと思う地の文です。
「それもやめてくれー!」
もう一度血の涙を流して叫ぶ左京です。すでに目が真っ赤です。
「杉下さんも一緒に乗ってください。貴方にもテレビ局から話があるそうです」
五反田氏が言うと、左京は顔を引きつらせました。
(まさか、本当に離婚の記者会見なのか?)
全身から嫌な汗がたっぷりと出て来る左京です。
それでも、今回はいつもより台詞も多くて出番も長いので大満足です。
「ううう……」
執拗な地の文の嫌がらせに精根尽き果てそうな左京です。
こうして、樹里達を乗せたリムジンは、指紋がなくなって完全犯罪ができそうなプロデューサーの待つテレビ局に向かいました。
「樹里様にはご機嫌うる……」
何も知らずにいつものように現れた昭和眼鏡男と愉快な仲間達は、樹里達が既に出かけた後なのを知り、呆然としました。
(もしや、保育所の連中が?)
あらぬ疑いをかけられた保育所の男性職員の皆さんですが、今回は出番はおろか、台詞すらありません。
そして、眼鏡男達もここで出番終了なのは内緒にしてフェードアウトする地の文です。
樹里達が乗ったリムジンは、テレビ夕焼の正面玄関に到着しました。
「お待ちしておりました」
指紋がない犯罪者のプロデューサーが揉み手をしながら出迎えました。
「犯罪者じゃねえよ!」
率直な地の文の言葉に切れるプロデューサーです。
「お久しぶりです」
樹里は車を降りて、深々とお辞儀をしました。
「ご丁寧にありがとうございます。さ、こちらへどうぞ」
プロデューサーは樹里と瑠里と冴里と五反田氏を先導して、ロビーに入っていきます。
「ま、待ってくれ!」
左京が慌てて追いかけましたが、玄関で警備員さんに止められてしまいました。
「樹里ー、瑠里ー、冴里ー!」
いつものように叫ぶ左京です。
樹里達が通されたのは、高級そうなソファが置かれた応接室でした。
「樹里さん、お久しぶりです」
そこには、嘘つき出版のうそをつくよさんがいました。
「鵜曽月出版の麻生津玖代です!」
津玖代は興奮気味に訂正しました。
恋人の「話を捏造」とは別れてしまったようです。
「恋人じゃありません!」
津玖代は全力で否定しました。でも、唐潮悦三の氏名は訂正されませんでした。
死者に鞭打つような事をする津玖代です。
「唐潮さんは死んでいません!」
津玖代は何だかんだ言いながらも、本当は唐潮の事を思っているようです。
「それは違う!」
力任せに切れる津玖代です。今日は忙しいと思う地の文です。
「実はですね、樹里さんの自伝を読んで感動した脚本家が、是非映画化して欲しいとシナリオを書いてくれたんですよ」
百パーセント嘘だとわかるヘタクソな作り話をするプロデューサーです。
「そうなんですか」
それでも樹里は笑顔全開で応じました。
苦笑いする五反田氏です。やっと追いつけた左京は呆然としています。
「どうでしょう? お子さんも生まれた事ですし、女優に復帰していただけませんか?」
プロデューサーが目を潤ませて樹里を見ました。
全然可愛くないので、やめて欲しいと思う地の文です。
「うるさい!」
別荘のローンが払えるかどうかの瀬戸際のプロデューサーは地の文に切れました。
「我が社としましても、映画化されれば、自伝の発行部数も伸びますし、よい宣伝にもなるので、何とか復帰していただきたいと思っているんです」
津玖代まで目を潤ませて言いました。
もうすぐ五十の大台のおばさんが目を潤ませても、それで喜ぶのは唐潮くらいだと思う地の文です。
「うるさいわね! 私はまだ三十代です!」
年齢の壁を突きつけた地の文に切れる津玖代です。
左京は、
(できれば受けないで欲しい。これ以上肩身が狭くなるのは嫌だ)
身勝手な事を考えていました。
プロデューサーと津玖代が見つめる中、樹里は、
「いいですよ」
かるーく承諾してしまいました。左京は真っ白に燃え尽きそうです。
めでたし、めでたし。