樹里ちゃん、スカウトされる?
御徒町樹里はメイドです。
現在は、世田谷の大富豪である五反田六郎氏の屋敷で働いています。
五反田氏は、樹里のおかげで幽霊騒動が収まり、家族が戻ってくれたので、ご褒美として彼女に有給休暇を一週間取らせました。
「ゆっくり休みなさい」
「ありがとうございます、旦那様」
樹里は五反田氏に礼を言い、屋敷を出ました。
彼女は母親の由里がいる新宿の実家に向かうため、小田急線に乗りました。
「やあ、君、可愛いね。モデルさん?」
いきなり怪しい中年男性が話しかけて来ました。
「違います」
樹里は笑顔で応じます。男性はニヤリとして、
「そうなの、それは驚いた。こんな可愛い人が、モデルさんじゃないのか」
「はい」
樹里は全く警戒する事なく、応対します。
この男性、どうやら怪しい仕事をしている人のようです。
(こいつは上玉だ。その上、全く俺を疑ってない)
男は、樹里を騙して一儲けしようと企んでいます。
「それじゃあ、私の事務所に遊びに来ない? お茶とケーキくらいなら出せるけど?」
「ありがとうございます。でも私、母のところに行く途中ですので」
樹里はニコニコしながら断りました。
「ああ、そうなんだ。お母さんはどこにいるの?」
「新宿です」
男はニヤッとしてから、
「なら大丈夫だよ。私の事務所も新宿だから。すぐにお母さんのところに行けるよ」
「そうなんですか」
樹里は少し遅くなると由里に連絡し、その男について行く事にしました。
男の事務所は、ビルの三階にあり、きれいなフロアです。
但し、従業員は一人もいない、ガランとしたところでした。
「さ、かけて」
男は樹里にソファを勧め、奥へ行きました。
「ムフフ、こいつはいい」
男は冷蔵庫からケーキを取り出し、紅茶を入れます。
「ヒヒヒ」
彼は狡猾な笑みを浮かべ、睡眠薬を紅茶に落としました。
「これで明日までおねんねで、明後日には東南アジアか香港さ」
男は人身売買のブローカーでした。
「お待たせ」
男はニッコリして、樹里に紅茶とケーキを出しました。
「さ、食べて食べて」
「いただきます」
樹里はケーキをパクッと一口で食べ、紅茶もググッと一息で飲みました。
「……」
その豪快さに、男は唖然としましたが、
「お、早いねえ。もう一杯飲む?」
「いえ、これでお暇します」
樹里は笑顔全開で答えました。男はニヤリとして、
「でも、眠くないかい?」
「いえ、全然。ご馳走様でした」
樹里はお辞儀をして、ソファから立ち上がりました。
「あ、ああ」
男は状況が把握できないのか、呆然として樹里が帰るのを見ていました。
「どうして眠らないんだよ! くそ!」
男はようやく我に返り、樹里を追いかけました。
「あんな上玉、逃がしてたまるか!」
男が樹里に追いついたのは、ビルの前の歩道でした。
「待って、お嬢さん」
彼は樹里に呼びかけました。
「誰だ、お前?」
樹里の向こうに、どこかで見た事がある男が立っていました。
「げ、杉下……」
そう、樹里のそばにいたのは、敏腕警部の杉下左京でした。
男は、以前左京に逮捕された事があり、顔を覚えていたのです。
「ハハハ、何でもありません」
彼は一目散にビルに逃げ込みました。
「誰だ、あいつ?」
左京は人の顔を忘れる名人です。逃げなくても大丈夫でした。
「私にケーキと紅茶をご馳走して下さった方です」
「ほお。そうか。礼を言えば良かったかな?」
左京は男が走り去った方を見て呟きました。
「とにかく、乗れ。由里さんのところまで乗せてくよ」
「ありがとうございます」
樹里は笑顔で応じました。左京も運転席に戻ると、助手席に相方の神戸蘭の髪の毛が落ちていないか確かめて、樹里を乗せました。
「どう行くんだっけ?」
「そこを右です」
「あ、そうだったな」
左京はアクセルをゆっくり踏み込み、車をスタートさせました。
「次はどっちだっけ?」
尋ねても樹里の返答がありません。
「え?」
左京は肩に何かが寄りかかるのを感じて左を見ました。
「は……」
樹里が居眠りをして、彼の方に倒れて来たのでした。
「こういうの、いいなあ……」
左京の鼻の下が伸びたのは言うまでもありません。