樹里ちゃん、第二子を出産する
俺は杉下左京。五反田駅前にあるビルに事務所を構える私立探偵だ。
ふと思ったのだが、「公立探偵」というものは存在しないので、「私立探偵」と言う必要はないのではないかと。
調べてみたら、英語で「detective」は刑事の意味もあるらしい。
だから、刑事ではない「探偵」は「a private detective」と称し、訳すと「私立探偵」になるのだ。
知らないとは恐ろしいものだ。勉強になった。
などという事はどうでもいい。今日はゴールデンウィーク最終日。
妻の樹里は五月七日が出産予定日だ。
いつ生まれてもおかしくないのに、樹里は今日も五反田邸に出勤した。
御徒町家の家訓に「働かざる者、食うべからず」という、実に耳の痛くなるものがある。
この家訓に従えば、俺は幾度となく餓死しているはずだ。それくらい仕事をしていない。
先日、とは言え、すでに三か月も前だが、同じビルに事務所を構えている弁護士の紹介で受けた依頼は、またそこそこの実入りがあったのだが、それ以降は鳴かず飛ばずで、迷い猫と迷い犬の依頼が十数件あったのみだ。
完全に樹里の「ヒモ」となってしまわないように頑張るしかない。
「パパ、げんきだちて」
祝日にも関わらず、特別に開所している保育所に向かう途中、俺は暗い表情をしていたらしく、愛娘の瑠里に励まされてしまった。
「ありがとう、瑠里。パパは頑張るよ」
俺は泣きそうになるのを我慢して微笑んだ。
「ふよーかぞくがふえるんだから、もっとばんがらないと、め、だよ」
どこで覚えて来るのか、そんな事を言われてしまった。返す言葉もない。
「そうだな」
項垂れそうになるのを堪え、瑠里の手をしっかり握った。
そして、無事に瑠里を保育所に送り届け、アパートに戻ると、事務所に行く支度をした。
その時、携帯が鳴った。樹里からかと思い、慌てて出た。
「やっほー、左京ちゃん。由里だよー」
脱力しそうなくらい能天気な声の義理の母親である由里さんからだった。
「お義母さん、おはようございます。どうしたんですか?」
俺は苦笑いして尋ねた。すると由里さんは、
「もう、お義母さんなんてやめてよ。由里って呼んで」
そのジョークも、由里さんが再婚する前だったらまだ良かったが、今は西村夏彦氏の奥さんなんだから、あまり洒落にならないと思う。
「由里さん、どうしたんですか?」
応じてあげないと、いつまでも堂々巡りな展開になるので、仕方なく名前で呼ぶ。
「樹里はまだ仕事に行っているの?」
「ええ、今日も行きましたよ。明日が出産予定日だっていうのに」
俺が言うと、由里さんは、
「それが御徒町の名を継ぐ者の使命なのよ、左京ちゃん。働かざる者、食うべからず、なんだから」
「それ、耳が痛いです」
俺は皮肉ではなく言った。由里さんはゲラゲラ笑って、
「左京ちゃんは御徒町の名を継いでいないからいいのよ」
「じゃあ、樹里も杉下樹里ですから、もういいのではないですか?」
俺は試しに尋ねてみた。もう一人子供をとは思わないが、このままでは樹里が大変だからだ。
「そうなんだけどさ。樹里には御徒町の名を受け継いで欲しいのよねえ。そうしないと、御徒町の名が絶えちゃうの。今から、左京ちゃんが御徒町姓にならない?」
「え?」
冗談に聞こえないトーンで言われ、俺は全身から嫌な汗をしこたま噴き出してしまった。
一度はそれでもいいと思った事もあったのは確かだが……。
「嘘よ、左京ちゃん。樹里と結婚してくれてありがとね。ホント、感謝してるのよ」
由里さんの神妙な声にドキッとした。
「やめてください。ありがたいのは俺の方です。彼女と結婚できなかったら、俺は今頃どうなっていた事か……」
まずい、泣きそうになってしまった。
「左京ちゃん、そんなに自分をクズ扱いしたらダメだよ。左京ちゃんは立派だよ」
由里さんの優しい言葉が胸に沁みた。
「ありがとうございます」
その時、キャッチフォンが入った。樹里からだ。
「すみません、樹里からです」
「わかった。じゃあね」
俺は由里さんとの通話を切り、樹里との通話を開始した。
「左京さん、今病院に向かっています」
「そうか。俺もすぐに向かうよ。瑠里の時は間に合わなかったけど、今回は間に合いたいな」
「待ってます」
樹里のその言葉を聞き、通話を終えると、俺はすぐにアパートを飛び出し、車で病院に向かった。
樹里は五反田邸に向かう途中で産気づき、あのいつも現れる奇妙な連中が用意した車で病院に向かっているらしい。
あいつらには本当に何度も助けられているから、そのうちにきちんとお礼をしようと思う。
あれ? 考えてみたら、名前も住所も電話番号も知らないぞ。
まあ、毎日現れるから、その時話せるだろう。
そんな事を考えているうちに、俺は病院に到着した。
今回は絶対に間に合いたい。そう思い、玄関を駆け抜け、ロビーを通り、分娩室へと向かった。
「あら、樹里さんのご主人」
この人も名前を知らないが、瑠里の時にもお世話になった看護師さんだ。
樽井さんだっけ?
「垂井です」
何故かムッとした顔で言われてしまった。俺が思った事がわかったのだろうか?
見た目は樽みたいなので、「樽井」の方がしっくり来る気がする。
「早かったですね。樹里さんはさっき出産を終えたところですよ」
笑顔で教えてくれる樽、いや、垂井さん。また間に合わなかったのか……。項垂れそうだ。
それでも俺は気力を振り絞り、分娩室に入った。
そこには生まれたばかりの我が子と樹里がいた。
「左京さん」
樹里が笑顔で俺を見た。俺はすでに涙で彼女の顔がよく見えなくなっている。
「頑張ったな、樹里」
「ありがとうございます」
俺は樹里の頬を撫で、次いで二人目の娘を見た。生まれたてなのにすでに樹里にそっくりなのがわかる。恐るべし、御徒町一族の遺伝子。
「名前は考えたのか、樹里?」
俺はまだ見えていないと思われる目をジッとこちらに向けている我が子を見ながら尋ねた。
「はい。冴里、はどうですか?」
樹里は持っていたメモ用紙を見せてくれた。冴えるに里か。
瑠里の時は、ある人の名前から一文字いただいたが、今回はそれはやめておこう。
「いい名前だな。それでいいよ、樹里」
「ありがとうございます、左京さん」
そう言って、樹里が俺にキスをして来た。俺も照れる事なく応じた。
めでたし、めでたし、だ。