樹里ちゃん、左京と静養にゆく(中編)
御徒町樹里は日本有数の大富豪である五反田六郎氏の邸の専属メイドです。
樹里は、五反田氏に休暇をもらい、不甲斐なくてもうすぐ離婚予定の杉下左京と休養のためにG県の耶馬神村に来ました。
「離婚予定とか言うな!」
左京は推定無罪の地の文に切れました。
耶馬神村は村長が狸というとんでもない村です。
「先週から狸ネタを引っ張るな!」
村長の村長団兵衛がしつこい地の文に切れました。
「そうなんですか」
「しょうなんですか」
樹里と愛娘の瑠里は笑顔全開です。
(怪しいぞ、絶対に怪しい)
離婚確定の左京は村長を疑っています。
「やめろ!」
左京は涙ぐんで地の文に抗議しました。
「では、お泊まりいただく宿にご案内致します」
村長は自分の車に乗り、樹里達を先導しました。
(こんな辺鄙な村だから、崩れそうな旅館なんだろうな」
左京は先読みをして思いました。
やがて、道は広くなって舗装された道路になり、通りの両側にはたくさんの商店が建ち並び始めました。
まるで東京の繁華街のような光景です。すれ違う車も高級車ばかりです。
(どういう事だ?)
まるで狸に化かされていると思う左京です。
(やっぱり怪しい)
左京は眉をひそめました。
村長の車は一軒の高層ビルの車寄せに入りました。左京の車もそれに続き、停車しました。
「すごい……」
左京はそこが宿泊するホテルだと知り、仰天しました。
(てっきり、ポットン便所のボロ旅館だと思っていたが……)
考えてみれば、五反田氏が手配してくれたのですから、そんな事があるはずはないのです。
「いらっしゃいませ、御徒町樹里様、瑠里様、その他一名様」
車を降りると、ホテルの従業員が整列して挨拶しました。
(ここでも俺は他一名様かよ)
左京は不貞腐れました。それでも気を取り直し、
「凄いですね、村長さん。これは五反田さんの資本で建てられたものですか?」
すると村長はニヤリとして、
「いえ、麓にできるランバダムに絡む補助金で潤ったお陰で建てたものです」
あからさまに汚いお金がたくさん動いていると思う地の文です。
「なるほど……」
左京はあまりにも率直に賄賂めいた金の話をする村長に苦笑いしました。
「いらっしゃいませ、御徒町様。こちらのホテルの支配人を務めております、村長長男です」
そこへ二匹目の狸が現れました。さっきの狸より若いようです。
「違う!」
親狸と子狸が声を揃えて切れました。
「私の長男の長男です」
村長が子狸を紹介しました。
「子狸じゃねえよ!」
長男は完全に面白がっている地の文に切れました。
「遅くなりました。私が御徒町様担当の客室係の村長長女です」
今度は牝狐が現れました。
「違うわよ! 村長家の長女です!」
長女は地の文の言葉遊びが理解できずに切れました。
それにしても、ややこしい名前の一家だと思う地の文です。
(村長の村長さんに、長男の長男さん、長女の長女さんて、訳がわからなくなりそうだ)
只でさえ頭が悪いせいで人の名前を覚えられないのに、こんなに意味不明な家族だと完全に理解不能だと思う左京です。
「頭が悪いは余計だ!」
左京は的確にプロフィールを紹介した地の文に切れました。
「こちらへどうぞ」
長女が樹里達の手荷物を持ち、先導します。樹里は瑠里を抱いてそれに続きました。
左京がそれに続こうとすると、
「貴方はこちらですよ」
長男が言いました。
「え?」
途端に嫌な予感がする左京です。
樹里達はホテルのロビーに入っていったのに、左京はホテルの脇にある細い路地を歩かされました。
「こちらです」
長男が案内したのは、まさに予想通りのボロ旅館でした。
(何だと!?)
自分の推理が当たり、喜びが隠し切れない左京です。
「違うよ!」
左京は理不尽に地の文に切れました。
「ホテルのお部屋が満室なので、こちらにお泊まりください」
妙に嬉しそうに告げる長男です。左京は苦笑いして応じました。
「貸し切りですので、ごゆっくり」
長男は左京を一番奥の部屋に案内すると、ニッと笑って出て行きました。
ボロですが、無駄に広い旅館なので、怖くなって来る左京です。
(誰もいないのかよ……)
部屋が暗いので明かりを点けようとしましたが、点きません。
ライターの火で辺りを見回すと、テーブルの上に、
『この旅館の電気は昨日の落雷で使えなくなりました』
そう書かれたA4コピー用紙が置かれていました。
「何だと!?」
左京は仰天して、カーテンを開けて窓を開きました。すると、雑草が生い茂っている庭の向こうに離れのような一軒家が見えました。
その一軒家はボロではなく、真新しいものです。
有名人がお忍びで来そうだと思う地の文です。
(何だ、あれは?)
すると、その離れに見た事がある顔の人物が若い女性と入って行くのが見えました。
(誰だっけ?)
人の顔を覚えられない選手権で三連覇をし、見事殿堂入りした左京はその人の名前を思い出せません。
「うるせえ!」
左京は真実をありのままに述べただけの地の文に切れました。
「あ」
左京は携帯が鳴っているのに気づきました。樹里からです。
「左京さん、お昼の用意ができたそうですよ」
「わかった、すぐ行くよ」
左京は離れの人物が気になりましたが、部屋を出て樹里達がいるホテルに向かいました。
「あ、雪だ」
左京はいつの間にか天候が悪くなっているのを見て、ゾッとしました。
(帰れるかな?)
不安になりながら、路地を急ぎ、ホテルに行きました。
昼食を摂った後、樹里の部屋に備えつけられた露天風呂に瑠里と入った左京は、
「樹里も入らないか?」
邪な思い全開で言いました。
「私は妊娠しているので、温泉は遠慮しておきます」
残念な返事をされ、項垂れる左京です。
「瑠里も長湯をさせないでくださいね。成分が強いらしくて、お肌が荒れるようです」
左京が湯船から出た時、樹里が入って来て告げました。
(見られた)
左京は丸出し状態だったので、真っ赤になりました。
「そうなんですか」
でも樹里は笑顔全開でそのまま部屋に戻りました。
(以前、下の世話をされた時、さんざん見られたからな……)
左京は樹里の無反応に項垂れました。
「パパ、きれいにしゅるよ」
瑠里が石鹸を泡立ててはしゃいでいます。
もう瑠里とはこれで一緒に風呂に入るのは最後だと思うと、胸に熱いものがこみ上げて来る左京です。
「やめろー!」
左京は血の涙を流して地の文に切れました。
夕食の後、しばらく部屋で寛いでいると、
「お布団を敷かせていただきます」
長女が入って来ました。その後ろから長男が入って来て、
「貴方はもうお部屋にお戻りください」
「え?」
このままここにいようと思っていた左京でしたが、世の中はそれ程甘くないようです。
「樹里、朝食の時、またな」
「はい、左京さん」
「パパ、おやちゅみ」
樹里と瑠里は笑顔全開です。でも、二人共引き止めてはくれませんでした。
ちょっと凹む左京です。
すっかり雪で白くなった路地を傘を差して歩いていると、言い争うような声が離れの方から聞こえました。
「何だ?」
雑草の間から見えたのは、さっき見かけた男と若い女性でした。
二人共興奮した様子で、怒鳴り合っていますが、離れているので、何を言っているのかはわかりません。
「あの人は……」
左京が呟くと、
「国会議員の新渡戸麦造先生ですよ。一緒にいらっしゃるのは、その……」
長男はニヤリとして言葉を濁しました。要するに愛人という事らしいです。
「そうなんですか」
樹里の口癖で応じる左京です。
(新渡戸と言えば、ランバダムの推進派の急先鋒だったな。そいつが何故?)
ランバダムはすでに建設が進み、あと数ヶ月で完成する予定です。
(考えても仕方がないな)
左京は部屋に入りました。
「これをお使いください」
長男が渡したのは、蝋燭とマッチと寝袋でした。
「え?」
左京は、その部屋には電気が来ていないのを思い出しました。
(俺、死なないかな?)
急に怖くなる左京です。それでも真っ暗のままにはできないので、蝋燭を燭台に立て、マッチで火を点けました。
「全くよお」
ブツブツ言いながら、開けられたままのカーテンを引こうと窓に近づいた時でした。
「耶馬神様がお怒りじゃあ!」
いきなり白装束の老婆が目の前に現れました。白髪を腰の辺りまで伸ばし、顔には歌舞伎の隈取りのような化粧をしています。
「うへえ!」
左京は腰を抜かしてしまいました。
「耶馬神様がお怒りじゃあ! この村は呪われている! 皆、死ぬのじゃあ!」
老婆は大声で言うと、雪の降りしきる闇の中に消えてしまいました。
「何だったんだ、あの婆さんは?」
左京はまだガクガクしている膝で何とか立ち上がり、カーテンを閉めました。
(まだ早いけど、寝よう)
左京はトイレを探しましたが、部屋にはありません。
「嘘だろ……」
仕方なく、燭台を持って、部屋を出ました。
「どっちだ?」
廊下を彷徨い歩き、ようやくトイレを発見しました。
「やっぱり……」
想像通り、そこはポットン便所でした。
「くせえ……」
鼻が曲がりそうな臭気に堪え、左京は用を足すと、部屋に戻りました。
「寒!」
左京は床の間に置かれていた浴衣に着替え、褞袍をその上に羽織ると、寝袋の中に入りました。
「ううう……」
それでもまだ寒いのですが、急激に襲って来た眠気に勝てず、そのまま寝入ってしまいました。
それからどれほど時間が経ったのでしょうか?
左京は、ガガガガという騒音で目を覚ましました。
「何だ?」
しかし、寝袋の外は吐く息が白くなる程寒いので、出る事ができません。
「もう聞こえなくなったか」
ホッとしてまた眠りに就く左京です。
ところが、それからまたしばらくすると、
「助けてくれえ!」
男の叫び声が聞こえました。
「何!?」
さすがに元刑事の左京は、その声を聞きつけると寒さも忘れて寝袋から抜け出し、部屋を飛び出しました。
(結構近かったという事は、離れか?)
左京は部屋に戻る時に見かけた新渡戸議員と愛人の諍いを思い出しました。
(女が凶行に及んだのか?)
妄想しながら旅館を飛び出すと、外は真っ暗闇でまだ雪が降っていました。
部屋に戻った時より降り積もっていて、来た時にできた足跡がもうわからなくなっています。
隣のホテルから漏れて来る明かりで微かに離れが見えています。
「くそ!」
左京はその明かりを頼りにして路地を走り、雪に足を滑らせながら、ホテルに向かいました。
ホテルのロビーはどうやら二十四時間態勢らしく、フロントに人がいました。
「どうなさいましたか?」
長男がニヤリとした顔で現れ、左京に尋ねました。左京は呼吸を整え、肩や頭に降り積もった雪を払いのけながら、
「例の離れで男の叫び声が聞こえた。助けてくれと言ってたんだ。何かあったに違いない」
「叫び声ですか? あの時の声ではないのですか?」
長男は下卑た笑みを浮かべて言いました。
「違う! 俺はこう見えても警視庁の警部だった男だ! 切羽詰まった人間の声は嫌と言う程聞いている。間違いなく、あの声は助けを求める声だったよ!」
左京は信用してくれない長男に必死で説明しました。
「わかりました。では、駐在を呼びますよ」
長男は電話をかけました。しばらくして、G県警と書かれたミニパトが来ました。
「耶馬神村駐在所の村長次男巡査です」
その警官は敬礼して言いました。
(今度は村長家の次男かよ……)
左京は耶馬神村の実態が段々わかって来た気がしました。
「とにかく、一緒に来てください」
左京は駐在を伴って離れに向かいました。
長男は大きな懐中電灯を持ってついて来ます。
「何も聞こえませんが?」
離れの見えるところまで来ると、駐在が非難めいた顔で左京を見ました。
「もう手遅れかも知れないんだ。離れにはどう行くんだ?」
左京は長男に詰め寄って尋ねました。
「こちらからです」
長男は雪の積もった庭を照らし、歩き出しました。
左京と駐在はそれに続きます。
周囲を見渡しても、どこにも足跡はないので、誰も逃げ出してはいないようです。
「新渡戸先生、支配人です。何かございましたか?」
頑丈そうな木製の観音開きの大扉の前で長男が言いました。
しかし、一向に中から反応はありません。
「先生?」
長男が扉を引いて開こうとしましたが、扉はビクともしません。
「中から鍵がかかっていますね。これは開けられませんよ」
長男が言いました。左京はイラッとして、
「だったら、マスターキーを持って来てくださいよ!」
すると長男は、
「マスターキーも何も、鍵は閂ですよ。中から外さない限り、開きません」
左京は仰天しました。そして、辺りを見渡し、屋根の近くに明かり取りの窓を見つけました。
「どうしてこの離れは窓があんな上にあるんですか?」
左京が尋ねると、長男は、
「中を覗かれたくない方がお泊まりになるので、そうしました」
左京は舌打ちしました。後はどこにも窓がないのです。
「これで中が覗けませんか?」
駐在の次男がどこかから踏み台を持って来ました。
「貸してください」
左京は明かり取りの下に踏み台を置き、その上に乗って窓を覗きました。
「わ!」
中には明かりが点いたままで、真っ白な布団の上で新渡戸議員が血塗れで仰向けに倒れていました。
部屋には他に誰もいないようです。覗いている窓は小さくて、人が出る事はできません。
(密室殺人?)
離れも出入りできませんが、離れの外も誰も出入りした様子がありません。
(二重密室だと?)
左京は嫌な汗がたんまり出るのを感じました。
まだ続くと思う地の文です。