樹里ちゃん、目黒弥生の分まで仕事をする
御徒町樹里は日本有数の大富豪である五反田六郎氏の邸の専属メイドです。
樹里が女優を辞めたため、一人のプロデューサーが路頭に迷ったのは内緒です。
「よし、今度は船越なぎさ先生の作品で倍返しだ」
まだそんな幻想を抱いている人ですから、多分心配する必要はないと思う地の文です。
「そうなんですか」
樹里は今日も笑顔全開で出勤です。
不甲斐ない夫をもうすぐ卒業する杉下左京は、愛娘の瑠里を保育所に連れて行く準備をしています。
(とうとう不甲斐ない夫を卒業できるのか……)
感慨も一入の左京ですが、樹里の夫を卒業するのを理解していないようです。
「やめろー!」
どうしても離婚させようとする地の文に左京は下半期最高の切れ方をしました。
「行って来ますね」
樹里が笑顔で言いました。
「いってらったい、ママ」
瑠里も笑顔で応じますが、
「行ってらっしゃい」
左京は浮かない顔をしていました。
樹里が心配して声をかけてくれると考えた実に嘆かわしい発想からの演技です。
「違う!」
左京は目を血走らせて全力否定しました。
でも、樹里が全く気づく事なく昭和眼鏡男達と駅に向かってしまったのを見て、左京は項垂れました。
(そういう性格なのを忘れてた……)
未だに妻の性格を把握できていないダメ夫です。離婚確定ですね。
「ううう……」
左京は何も言い返せずに瑠里を連れて保育所に行きました。
そして、いつも通り、何事もなく五反田邸に到着しました。
「では樹里様、お帰りの時に」
眼鏡男達は敬礼して去りました。いつもより出番は少ないですが、樹里が女優を辞めてくれたのでプラマイゼロだと思っている眼鏡男達です。
若干意味不明だと思う地の文です。
「樹里さん、おはようございます」
いつもよりテンションが低いエロメイドが挨拶しました。
「突っ込めないから、やめてよね……」
蚊の鳴くような声で言う目黒弥生です。どうしたのでしょう?
「弥生さん、おはようございます。悪阻が酷いみたいですね」
樹里が早速七百八ある資格の一つの看護師の顔になりました。
「はい。臭いが気になって、ほとんど食べられるものがないんです……」
弥生は青汁より悪い顔色をいます。八名信夫さんに謝った方がいいと思う地の文です。
「知らないわよ、その人!」
弥生は悪役商会に潰されると思う地の文です。
樹里は弥生を住み込み医師の黒川真理沙のところに連れて行きました。
「安静にしているしかないわ。悪阻は未だにその原因が不明で、個人差があるものだから」
真理沙は弥生を診察して言いました。
「はい……。でも、樹里さんも妊娠していますから、樹里さん一人に負担をかける訳には……」
幽霊のような顔色の弥生がか細い声で言うと、ホラー映画より怖いです。
「貴女がフラフラしている方が樹里さんには迷惑なのよ。現に樹里さんは瑠里ちゃんを妊娠した時にも一切悪阻の症状が出なかったのだから」
真理沙にスパッと却下され、弥生は休憩室のベッドに横になりました。
「すみません、樹里さん。悪阻が収まったら、仕事に戻りますから」
弥生が言うと、樹里は、
「大丈夫ですよ、弥生さん。初めての妊娠の方が何かと精神的にも不安ですから、無理しないでくださいね」
今度はメンタルヘルスマネジメントの資格の顔になりました。
「ありがとうございます、樹里さん」
弥生は樹里の暖かい眼差しと言葉に安心し、眠りました。
「ありがとう、樹里さん」
真理沙は医師としてではなく、弥生の先輩として、樹里にお礼を言いました。
「人は助け合ってこそ人ですから」
樹里は笑顔全開で言いました。
「悪阻には絶対的な処方がありませんから、弥生もこれからが大変でしょうけど、乗り切って欲しいですね」
真理沙は安らかな顔で眠っている弥生を見て言いました。
「そうですね」
樹里は笑顔全開で応じました。そして、周囲を見渡して、
「そう言えば、ドロントさんはどうしたのですか?」
忘れた頃にやって来る天災のようなボケに真理沙は苦笑いし、
「首領は弥生の悪阻を見ていて、自分まで気持ち悪くなってしまったみたいで、部屋で休んでいますよ」
「そうなんですか」
樹里はそれでも笑顔全開で応じました。
「悪阻の人でも食べられる食事を考えましょう」
樹里は今度は調理師の顔になりました。更に、
「悪阻になると、食事のバランスが悪くなりますから、その辺も考えないといけませんね」
今度は栄養士の顔になる樹里です。
(さすが樹里さん。すごいわね)
真理沙は感心しました。
そして、弥生と有栖川倫子のために悪阻対策万全のスープを作った樹里は、二人にそれを給仕した後、邸の隅々まで掃除し、庭の雑草を刈り取り、洗濯、炊事、電話の応対をこなしました。
弥生はいなくても大丈夫だと思う地の文です。
「そういう事言うの、やめてー!」
弥生がうなされながら叫びました。
お昼になり、再び弥生と倫子の食事を用意し、自分でも食事を摂り、午後の部を開始する樹里です。
まさに八面六臂の活躍です。
やっぱり、弥生はもうそのままお払い箱でいいと思う地の文です。
「やめてー!」
またうなされて叫ぶ弥生です。
「樹里さん、凄いわね」
ようやく復活した倫子が真理沙に言いました。
「ええ。弥生に心配かけないようにいつもより頑張っているみたいです」
真理沙はそんな樹里が心配のようです。
「でも、樹里さんも妊娠しているんでしょ? 大丈夫なの?」
倫子が言うと、真理沙は、
「瑠里ちゃんの時も全く問題なかったみたいですから。樹里さんの家系は、皆、出産直前まで働くみたいですよ」
「そうなんですか」
思わず樹里の口癖で応じてしまう倫子です。
「あれ?」
倫子がある事に気づきました。
「どうしたんですか?」
真理沙が尋ねると、倫子は樹里を指差して、
「樹里ちゃん、眠ったまま仕事しているわよ」
樹里は熟睡状態で食器を洗っていました。
「特異体質なんでしょうか?」
真理沙は腕組みして首を傾げました。
めでたし、めでたし。