樹里ちゃん、板挟みに遭う
御徒町樹里は世界に躍進する大企業である五反田グループの創業者の五反田六郎氏の邸の専属メイドにして、日本では確実に五指に入るママ女優でもあります。
今日は親友の船越なぎさが原作者である映画「黒い救急車」の撮影初日です。
樹里はいつもと変わる事なく、笑顔全開で愛娘の瑠里を乗せたベビーカーを押して、最寄り駅であるJR水道橋駅に向かうためにアパートを出ました。
不甲斐ない夫の杉下左京の一周忌がまだすんでいませんが、樹里は今日も元気です。
「死んでねえって何度言ったらわかるんだ!」
どこにいるのかわからない左京がすぐ抹殺しようとする地の文に切れました。
元々存在感が皆無なので、死んだも同然だと思う地の文です。
「ううう……」
図星なので、反論できない哀れな左京です。お線香をあげましょうか。
「だから死んでねえんだよ!」
しつこい地の文に元気よく切れる左京です。
「そうなんですか」
樹里はそれでも笑顔全開です。
「樹里様にはご機嫌麗しく」
もう少しで出番をカットされそうだった昭和眼鏡男と愉快な仲間達が滑り込みで登場です。
出演回数も左京を上回ったので、もうすぐ樹里と結婚できるかも知れないと思う地の文です。
「いえ、我らにはそのような野望はありません。樹里様は神聖にして侵すべからずでありますから」
綺麗に揃った敬礼で告げる眼鏡男達です。
「そうなんですか」
それでも樹里は笑顔全開です。
そして、いつもどおり、何事もなく樹里達は撮影スタジオに到着しました。
「樹里様、ではまたお帰りの時に」
眼鏡男達はいつもより通勤時間が短かったので、若干名残惜しそうに立ち去りました。
「ありがとうございました」
樹里は笑顔全開で眼鏡男達を見送りました。
「ありがと、たいちょ」
瑠里も笑顔全開で言いました。遂に「ありがとう」が言えるようになった瑠里に密かに涙する眼鏡男達です。
樹里がロビーに入ると、
「やっほー、樹里」
なぎさが恋人の片平栄一郎と出迎えてくれました。
「おはようございます、樹里さん」
栄一郎はハンカチで額の汗を拭いながら言いました。
「おはようございます、なぎささん、栄一郎さん」
「おはよ」
樹里母子がそっくりな笑顔で挨拶を返しました。
「今日から、つっくんの怖い撮影が始まるんだよ。嫌だね」
なぎさは何故か憂鬱そうです。つっくんとは、筒井幸和監督の事です。
とても怖がっているとは思えない呼び方をするなぎさに苦笑いする栄一郎です。
「昔から言うよね。自信のない家事を雷オヤジがするって」
なぎさが言いましたが、魔法の呪文ではないようです。
「なぎささん、それを言うなら、『地震雷火事親父』ですよ」
栄一郎が訂正してくれたので、良い子はきっちり覚えましょう。
「へえ。東京と違うんだね。栄一郎って、出身は神奈川だよね?」
なぎさは感心したように言いますが、
「いえ、神奈川も東京も同じだと思います」
顔を引きつらせて言う栄一郎です。
「そうなんですか」
樹里は笑顔全開です。
そして、それぞれが別の控え室に入って、樹里は瑠里をベビーカーから降ろし、スタッフが用意してくれた託児室に預けました。
今回の映画には子供がいる出演者が多いので、筒井監督が用意させたようです。
顔が恐い割には細かい気配りができる人のようです。
「誰か俺の悪口言ってないか?」
廊下を歩きながら、筒井監督は助監督に尋ねました。助監督はビクッとして、
「そんなはずありませんよ」
貴方の悪口なんか怖くて言えませんと思う助監督です。
「樹里さん、中にいますの?」
その頃、樹里は何故か上から目線作家の大村美紗の訪問を受けていました。
「お久しぶりです、大村様」
樹里は深々とお辞儀をしました。美紗はスッと樹里に近づいて先にソファに座り、
「話は長くなるから、おかけなさい」
まるで自分の控え室のように振る舞う図々しいオバさんです。
「また悪口が聞こえるわ。樹里さんにも聞こえたでしょ?」
樹里ならわかってくれると思った美紗が言いました。
「いえ、何も聞こえませんが?」
樹里は笑顔全開であっさりと否定しました。顔が引きつる美紗です。でも何とか気を取り直して、
「実は、メイド探偵のオーディションをしているのだけれど、箸にも棒にもかからない人しか来なくて、どうしようもないのよ。樹里さん、もう一度出てくださらないかしら?」
高速揉み手のプロデューサーの裏切りにあった美紗原作の映画は出演者の不足に悩まされていたのです。
「監督が了解してくだされば、大丈夫だと思います」
断わるという選択肢を持っていない樹里は笑顔全開で言いました。
「そうなの。では、これから筒井監督に掛け合ってみましょう」
美紗は樹里の手を引き、監督がいる部屋へと向かいました。
筒井監督も、スタッフから美紗が来ている事を聞いていました。
「敵わないな、あの先生には。うまい事を言って、帰ってもらえよ」
筒井監督も美紗は苦手なようです。どこでも嫌われるおばさんのようです。
「この部屋でも悪口が聞こえるわね」
筒井監督の願いも虚しく、事情を知らないスタッフが美紗と樹里を部屋に通してしまいました。
「げ」
思わず顔を引きつらせる筒井監督です。嫌な汗がたんまり出ています。
(待てよ。御徒町樹里を大村先生の映画に押しつけてしまえば、竹林由子を代役として堂々と迎えられるじゃないか)
筒井監督が魔王のような顔になりました。
「監督、樹里さんがどうしても私の作品の主演をしたいそうなんですの。今回は別の方でお願いできないかしら?」
美紗はこれでもかという上から目線で言いました。筒井監督はしめたと思い、
「いいですよ。代役を探すのは大変でしょうけれど、大村先生のご希望とあれば、何とかしますよ」
営業スマイルを炸裂させて応じました。
「そうなんですか」
樹里も笑顔全開です。美紗はあっさり事がうまく運んだので上機嫌になりました。
「あら、申し訳ないですわね、監督。この埋め合わせは近いうちにさせていただきますわ」
美紗は妙に色っぽい顔で言いました。思わず全身総毛立つ筒井監督です。
「ええ、ダメだよ、樹里ィ、私の映画に出てくれないと、困るよお。あの看護師さんは、樹里をモデルにして書いたんだよ」
そこへいきなりなぎさが乱入して来ました。
「ひ!」
美紗は思わず至近距離でなぎさを見てしまい、呼吸が止まりそうです。
「もう、叔母様ったら、我が儘なんだから。無理だよ、そんな事。諦めてね」
なぎさはテヘッと笑って言いましたが、美紗には聞こえていません。
「ひいい! なぎさ、なぎさ、なぎさ!」
遂に美紗は倒れてしまいました。
「ああ、大村先生!」
「大村様!」
「叔母様、どうしたの?」
三人が美紗に駆け寄りました。
「もうしょうがないなあ、叔母様は。気絶したフリなんて、お笑い芸人みたいな事して」
なぎさは何故か呆れ顔です。
「わかったわよ。樹里が大丈夫なら、叔母様の映画に出て、こっちにも出てもらうから」
その言葉に仰天してしまったのは筒井監督です。
(そ、そんな! それでは由子が代役の作戦が……)
でも、原作者であり、スポンサーである五反田氏と親友でもあるなぎさの意見に反対する事はできません。
「わかりました。なぎささんと大村様のために頑張りますね」
樹里は笑顔全開で映画の掛け持ちを快諾しました。
(何だと……?)
あまりの事に固まってしまった筒井監督です。
めでたし、めでたし。