樹里ちゃん、キスシーンに挑む
御徒町樹里は日本有数の大富豪である五反田六郎氏の邸の専属メイドです。
そして、尚且つ、人気ドラマの主演女優でもあります。
「すまないな、樹里。依頼人を守るために家に帰れなくて」
不甲斐ない夫を返上しようと必死な杉下左京がいつになく頑張っているアピールを電話でしてきました。
「違うよ!」
真相を暴露した地の文に電話の向こうから切れる左京です。
「そうなんですか」
それでも樹里は笑顔全開です。
「それより、今日は映画の撮影なんだよな。まさか、あのろくでもない俳優とキスシーンじゃないだろうな?」
妙な勘だけはするどいダメ探偵です。
「うるせえ!」
地の文の鋭い指摘にまたしても切れる左京です。
「そうですよ」
樹里は笑顔全開で応じました。
「樹里、それ、キャンセルできないか? 夫としての頼みなんだが」
左京が死にそうな声で言いました。
「できませんよ」
樹里はあっさりと拒否しました。首がポッキリと折れそうなくらい項垂れている左京が目に浮かぶ地の文です。
「では、行って来ますね、左京さん」
樹里はすでに燃え尽きてしまって無反応な左京に言いました。
ベビーカーに乗った瑠里は大喜びしています。
「樹里様、おはようございます」
今日はいつにも増して警戒している昭和眼鏡男と愉快な仲間達です。
左京より登場シーンが多いと思う地の文です。
「樹里様の撮影を妨害しようとしている不届きな連中がいるとの情報を得ました。私達が命に代えてお守り致します」
眼鏡男は血の涙を流して言いました。彼らもまた、樹里と執事役の加古井理のキスシーンを阻止したいのですが、私情より任務と我慢しています。
「そうなんですか」
樹里はそれでも笑顔全開です。
樹里は何事もなく、撮影現場に到着しました。そこは何と、いつもの職場である五反田邸でした。
「樹里さん、他の場所にはならなかったんですか?」
住み込みメイドの赤城はるなが涙ぐんで言いました。彼女も加古井に心を奪われています。
恋人の目黒祐樹に言いつけましょうか?
「やめてよ!」
はるなは顔色を変えて地の文に訴えました。
一度デートをしてくれたら願いを聞いてあげてもいいと思う外道な地の文です。
「断わる」
はるなは即答しました。ちょっと傷ついた地の文です。
「なりませんよ」
樹里は笑顔全開で応じました。
「樹里さん、羨ましい」
主役である五反田氏の愛娘の麻耶は加古井にメロメロなので、代わって欲しいと思って泣いています。
「麻耶ちゃん、それはないよ」
そんな麻耶を木の陰から某明子姉ちゃんのように見ているボーイフレンドの市川はじめは号泣しています。
「みんな、何で泣いてるの?」
加古井に全く興味がない船越なぎさは首を傾げています。
「ああ、いやいや、皆さん、加古井さんがイケメンですから、樹里さんが羨ましいのですよ」
なぎさが全然加古井になびいていないのでホッとしている片平栄一郎です。
ところが、当の加古井はムスッとしていました。
(御徒町樹里だけでなく、船越なぎさも俺の流し目に見向きもしない。どういう事だ?)
その加古井の様子に気づいた共演者の高瀬莉維乃が、
「どうしたの、加古井君? 調子でも悪いの?」
声をかけて来ました。すると加古井は見事な営業スマイルで、
「いえ、何でもありません。キスシーンがあるので、ちょっと緊張しているだけです」
「あら、貴方ほどの役者が、キスシーンで緊張するなんて、ホント?」
莉維乃が目を見開いて驚きます。加古井は苦笑いして、
「僕も人間ですから」
言葉ではそう言いながら、
(ババア、うるせえよ。いちいちしゃしゃり出てくるな)
心ではそんな風に思っている裏と表の顔を持つ悪魔です。
「誰が○○だ!?」
加古井がとても活字にはできないような事を言ったので、慌てて伏せ字にした地の文です。
伏せ字にしないと、芸能界から抹殺されると思う作者です。
その人は二文字ではないと微妙なヒントを出す地の文です。
「はい、シーン十九、本番です。加古井さん、樹里さん、お願いします」
助監督が二人を呼びました。
「はい」
樹里は笑顔全開ですが、加古井はムスッとしています。二人の立ち位置が決まり照明が決まり、カメラアングルが決まります。
「本番。用意、スタート!」
監督が号令しました。現場の空気がピンと張りつめます。
「樹里さん、僕の気持ちに偽りはない。貴女を愛しています」
加古井はさっきまでの仏頂面をどこかに捨ててきたように爽やかな笑顔で言います。
「はい、理さん」
樹里も笑顔全開で応じます。二人の顔が近づき、唇が重なりました。
はるなと麻耶が泣きながら声をあげそうになりましたが、何とか堪えました。
「カット!」
監督が言いました。樹里と加古井は顔を放し、微笑み合いました。
「お疲れ様でした」
樹里は笑顔全開でお辞儀をし、なぎさ達の方へと歩いていきます。
「……」
加古井はその樹里の後ろ姿を呆然として見送っていました。
(御徒町樹里……。俺が落とされた……)
加古井は樹里に本気で惚れてしまったようです。
左京がピンチだと思う地の文です。
めでたし、めでたし。