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樹里ちゃん、人生相談を受ける

 俺は杉下左京。五反田駅の前に事務所を構える私立探偵だ。


 とは言え、現在依頼を受けているのは、近所の猫探しと浮気調査が一件。


 これだけでは、とても事務所の家賃も払えない。


 そして、愛する妻の樹里のお姉さんである竹之内璃里さんにも給料を払えない。


「私はいいんですよ。専業主婦だとストレスが溜まってしまうので」


 優しい璃里さんはそう言って微笑む。


 不届きにも惚れてしまいそうになったのは、絶対に樹里には内緒だ。


「俺が不甲斐ないばっかりに、お義姉ねえさんにまでご迷惑をおかけしてしまって……」


 俺は心の底から申し訳なく思って詫びた。


「妹の樹里が左京さんにご迷惑をおかけしていますから、そのお詫びも兼ねているんです。お気になさらず」


 璃里さんは樹里と寸分違わない笑顔で言う。


「迷惑だなんて……。いつも彼女には助けられてばかりです」


 そう言いながら、つい泣きそうになった。


「そう言っていただけると、私もホッとします」


 璃里さんはどこまでも優しかった。だが、決して惚れてしまう事はない。


「でも、もうすぐここにも来られなくなりますので、ちょっと寂しいです」


 璃里さんが不意に悲しそうな顔で呟いた。


「え? どういう事ですか?」


 璃里さんの耳には、あのお騒がせ女の宮部ありさが、


「もう一度雇ってよ」


と言って来ている話は入っていないはずだ。ありさの奴、元同僚のバ加藤と結婚して落ち着いたから、パートで働きたいらしい。


 でも、当事務所にはそんな余裕は微塵もない。


 しかも、ありさは璃里さんと違って労働意欲がゾウリムシほどもないのだ。


 使う意味がない。当事務所はありさの生活を支えるために存在している訳ではないのだ。


 おっと、妄想で脱線してしまった。


「二人目ができたんです」


 璃里さんはポッと頬を赤らめて教えてくれた。


「おめでとうございます」


 久しぶりにいい話を聞けた。


 元同僚の蘭とありさの結婚式以来、嬉しい話題があまりなかったからだ。


「夫が、次はゆっくりして欲しいと泣いて頼むので、そうする事にしました。申し訳ありません」


 璃里さんは立ち上がって深々と頭を下げた。


「いやいや、とんでもないです。気にしないでください。ご自分と生まれてくる子の事を優先するのが当然ですよ」


「ありがとうございます、左京さん」


 樹里とほぼ同じ顔の璃里さんが涙ぐんで言うと、理性を失いそうな自分がいて怖い。


 俺達も二人目と以前は思ったが、まだそんな余裕はない。


 樹里の稼ぎが俺の十倍くらいあるのはわかっているが、全て樹里に頼るのは男として悲し過ぎるのだ。


 その時だった。ドアフォンがしばらくぶりに鳴った。


 錆びついているのかと思うくらい活躍の場がなかったのだ。


「お客様ですね」


 璃里さんがドアに近づいて開いた。


 するとそこにはどこかで見た事のある傲慢が服を着て歩いているようなオバさんが立っていた。


 誰だっけ?


「あら、樹里さん、今日は五反田さんのところはいいの?」


 そのオバさんは璃里さんを見て樹里と間違えたらしく、そう言った。


「いらっしゃいませ、大村先生。私は樹里の姉の璃里です。妹がいつもお世話になっております」


 璃里さんは頭を下げて言った。


 ああ、そうか。樹里が出ていたドラマや映画の原作者の大村美紗さんか。やっと思い出した。


「あら、そうなの。よく似ているわね、貴女達。見分けがつかないわ」


 大村さんはフッと笑って言い添えた。それも何だか傲慢に見えるのは俺の偏見だろうか?


「いらっしゃいませ、大村先生。どうぞ、おかけください」


 俺は愛想笑いをして大村さんをソファに案内した。


「失礼しますわ」


 大村さんは後ろに倒れそうなくらいのけ反った態勢で歩き、ソファに座った。


「本日はどういったご用向きで?」


 俺は向かいに座って尋ねた。璃里さんは給湯室に行った。大村さんは微笑んで、


「私の娘のもみじの事ですの」


「お嬢さんの事ですか? 何かお困りですか?」


 探るように大村さんを見ながら更に尋ねた。大村さんは声を低くして、


「もみじは今、大学に行っておりますの。私に似て頭が良くて、それほど勉強もしなかったのに東大に入れましたのよ」


 訊いてもいないのに大学名まで出して自慢だ。嫌なバアさんだ。


「どうぞ」


 璃里さんが紅茶を淹れて出してくれた。大村さんは紅茶が好きだと樹里が言っていたからだ。


「それはどうでもいいことなのですが」


 大村さんはオホホと笑って言う。どうでもいい事なら、言わないで欲しい。


「不届きな男性がいるのです」


 急に大村さんの顔が険しくなった。何だ?


「不届きな男性、ですか?」


 俺は苦笑いして応じた。すると大村さんは身を乗り出して、


「その男性は身の程知らずにも、もみじに近づき、あろう事か付き合い始めたのです」


 なるほど。一人娘に悪い虫が着いたので、ヤキモキしているって事か。


「もみじは財界の御曹司とか、政界のプリンスとかしか釣り合わないというのに、その男性は只のサラリーマンなのです」


 大村さんの怒りの矛先はそこだった。職業に貴賎などないのに。


 娘にはもっと良い縁談をと思っていたのに、どこの馬の骨とも知れない男に唾を付けられては今後の人生に悪い影響を及ぼす。


 きっとその男はロクでもない人間に決まっているから、それを暴いて、娘の目を覚まさせたい、というのが大村さんの依頼内容だった。


 何とも親バカだが、大村さんは今の地位を築くまでに想像を絶する苦労しているのだ。


 結婚まで約束した男が実は二股をかけており、大村さんを捨てた。


 その後、その男が大村さん名義であちこちに借金をしていた事がわかった。


 その肩代わりをしてくれたのが、夫となった人で、それが縁で交際に発展し、結婚に至った。

 

 ところがその男はとんでもないプレイボーイで、あちこちに愛人を作り、ようやく有名作家になった大村さんの名声に傷が付くような事ばかりした。


 やがて、もみじさんを産んだ年、夫に隠し子がいる事が発覚して別居をした。


 そして、もみじさんが高校二年の時、遂に離婚が成立。


 そんな人生だから、男に対して猜疑心が強いのだ。


 自分や娘に近づいてくる男は皆何か裏があると思っている。


「謝礼はこれで如何ですか?」


 大村さんはテーブルの上にあった電卓のキーを叩き、俺に見せた。


 思わず目を見開いてしまうくらいの謝礼だ。まさしく、洒落にならない。


 コホン。


 これだけもらえれば、もう今月は事務所を閉めても大丈夫だ。


「お引き受けします。綿密な調査をして、大村先生にご満足いただける報告を致します」


 俺はすっかり謝礼に目が眩み、ニヤついてしまいそうになるのを堪えて応えた。


「よろしくお願いしますわ、杉下先生」


 大村さんにそう呼ばれて、有頂天になりそうだった。


 「先生」なんて、生まれてこの方、一度も言われた事がない。


 大村さんが帰ると、


「凄い謝礼ですね。さすが大村美紗先生です」


 カップを片づけながら璃里さんが言った。


「これで、瑠里にクリスマスプレゼントを買ってあげられます」


 俺はウルッと来ながら言った。


 


 そして、その日は定時で事務所を閉め、瑠里を迎えに行ってアパートに帰った。


 夕食の支度がほとんどできた頃、樹里が帰って来た。


「ママ、お帰り」


 瑠里はそこまではっきり言えるようになっていた。さすが俺の子、と言いたいところだが、樹里のDNAの方が遥かに強いんだろうなあ。


「只今帰りました、左京さん、瑠里」


 樹里はいつものように笑顔全開で言った。


 俺は配膳をしながら、大村さんが来た事を話した。


「そうなんですか」


 樹里は着替えながら笑顔全開で応じた。瑠里はキャッキャと笑いながら樹里に纏わりついている。


 足もしっかりして来て、ちょっと目を離すとテーブルの上に上がっている事すらある。


 子供の成長は早いと思う今日この頃だ。


「左京さん、瑠里がテーブルに上がったら、ちゃんと叱ってくださいね」


 樹里にはそう言われているのだが、瑠里が可愛過ぎて何も言えないダメパパだ。


「お邸には、もみじさんが彼氏さんといらっしゃいましたよ」


 樹里が言った。


「へえ、そうなんだ。どんな男なんだ、その彼氏は?」


 俺は大村さんが来た事だけを話したので、樹里は事情を知らない。


「本当は大企業の御曹司なのですが、それを隠して、全く関係ない会社に入社して修業中の方だそうです」


 樹里は笑顔全開で話してくれたが、俺は目の前が真っ暗になりかけた。


 これでは、大村さんを満足させる調査結果は報告できない。


 あの凄まじい謝礼が夢と消えるのを感じ、涙が出そうになった。


「それで、これからの事とか、いろいろと相談されてしまいました」


 樹里は楽しそうに話すが、俺はどんどん悲しくなっていた。

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