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樹里ちゃん、左京に家計を心配される

 俺は杉下左京。五反田駅のそばに探偵事務所を開業して二年あまりになる。


 警視庁を感情に任せて退職し、宛てがあった訳でもないのに探偵業に足を踏み入れた。


 今となってはそれは誤りだったのではないかと言うくらい、仕事はない。


 事務所の家賃と水道光熱費を支払って、車の維持費を割くと、もうほとんど残りはない。


 愛する妻の樹里と愛娘の瑠里と暮らすアパートの家賃は、不甲斐ないと思いながらも、樹里に負担してもらっている。


 本来なら、俺が樹里と瑠里を養っていけるだけの収入を得るべきなのに、全くそうなっていない。


 このままでは、瑠里を保育園や幼稚園に通わせる事ができなくなる。


 努力はしているのだが、依頼人がまるで増えないのは致命的だった。


 悩んだ揚げ句、俺は帰宅して樹里に相談した。


「俺の仕事の収入が思うようにならないために、瑠里を幼稚園や保育園に通わせる事ができないかも知れない」


 俺は眉間に皺を寄せ、深刻さをアピールして樹里に告げた。


「そうなんですか」


 しかし、樹里は相変わらずの笑顔全開である。悲しくなりそうだが、これが樹里なので何とか踏み止まった。


「どうしたらいいと思う?」


 俺は笑顔の樹里に更に深刻さを増した顔で尋ねた。


「大丈夫ですよ、左京さん。その分は私が頑張りますから」


「え?」


 また話がおかしな方向に行く予感がする。


「新聞配達と喫茶店の仕事をまたしますね」


 樹里は笑顔フルスロットルで不可能を可能にする某チームのような事を言ってのける。


「いや、それは無理だろう。そんなに働いたら、樹里が身体を壊してしまうよ」


 俺は樹里の健康を損ねてまで文化的な生活をしたいほどの憲法論者ではない。


「そうなんですか?」


 樹里はキョトンとした顔で俺を見た。


 そう言えば樹里は五反田氏から一体いくら給料をもらっているのだろう?


 考えてみたら、一度も訊いた事がなかった。


 このアパートの家賃が月七万円だから、それ以上はもらっていると思うのだが。


 訊きたいのに訊けない。俺よりたくさんもらっていたら立つ瀬がないからだ。


 朝八時から夕方六時まで働いているのだから、十五万円以上はもらっているだろう。


 それにあの太っ腹な五反田氏の事だ。もしかするとその倍は出してくれているかも知れない。


 メイドの仕事の給料の相場が俺にはわからないが、大体そんなところだろう。


 ドキドキしてしまったが、俺は意を決して樹里に尋ねる事にした。


「樹里は給料をどれくらいもらっているんだ?」


 俺は気まずさ全開で尋ねた。すると樹里はスッと立ち上がり、自分の箪笥の引き出しから紙を持ち出して来た。


「毎月違いますが、これが先月のお給料です」


 樹里は笑顔全開で給与明細らしき紙を俺に差し出した。


「そうか」


 俺は手取り金額を見て顎が外れそうになった。


 探偵事務所の一ヶ月の全収入の二倍くらいもらっていたのだ。


 やはり五反田グループはとんでもない組織だ。家計は大丈夫と思うと同時に、俺の立場がやばいと思った。


「え?」


 ふと氏名を見ると、何故か「御徒町樹里」のままだ。本当は「杉下樹里」なのに……。何だかそれも悲しい。


 そしてそれ以上に驚いたのは、樹里の役職だ。


「取締役部長」


 もう何も言えない。俺が御徒町左京でいいと思ってしまう。


「そうか、五反田さんはいい人だな。こんなにたくさん給料を払ってくれるんだから」


 俺は顔が引きつっているのを感じながら無理に笑おうとした。


「そうなんですか」


 樹里はそれでも笑顔全開だ。そして、


「瑠里のために貯金もしているんですよ」


 通帳を出して来て見せてくれた。


 あれだけもらっていれば、相当な額の貯金ができるだろう。


 俺の男としてのプライドはナノレベルにまで砕かれたが、瑠里の将来を憂えずにすんで良かったと思うしかない。


「げ……」


 ナノレベルに砕かれた俺のプライドは更にピコレベルまで細分化された気がした。


 その通帳には、樹里が出演したドラマと映画のギャラが振り込まれており、そこから派生したグッズのバックマージンも振り込まれていた。


 通帳の残高は俺が警視庁時代にもらった給与の全額を遥かに上回っている。


 もうどうでもよくなってしまうくらいだった。


「瑠里のために月々五万円ずつ積み立てているんですよ」


 樹里が笑顔全開でそう言った。通帳の後ろの方に定期積み立ての欄があり、そこに積み立て金の残高が記されていた。


 樹里は瑠里が生まれてから毎月欠かさず積み立てをしていたのだ。


「積み立てをしなくても、通帳にたくさん振り込みされてるじゃないか、樹里」


 俺は力なく微笑んで樹里に通帳を返した。


「そうなんですか?」


 樹里は不思議そうに通帳を受け取る。


「知らなかったのか?」


 俺は樹里の反応に仰天した。


「はい、知りませんでした」


 樹里はニコッとした。ああ、可愛い。こういうところが好きだ。あくせくせず、かと言って驕らない。


 本当にいい子だ。惚れ直してしまう。


「じゃあ、そのままにしておこう。俺もこれからもっと頑張るから」


「左京さんは頑張っていますよ」


 樹里は笑顔全開で言ってくれた。その優しさに目頭が熱くなる。


「樹里」


 俺達は見つめ合い、瑠里が眠っているのを確認してから口づけした。


 とてもへこんだのも事実だが、気力を振り絞る切っ掛けにもなった。


 ありがとう、樹里。

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