樹里ちゃん、稲垣琉衣と対決する?
御徒町樹里は日本有数の大富豪である五反田六郎氏の邸の専属メイドにして、「メイド探偵は見た ザ・ムービー」の主演女優でもあります。
それほどの存在でありながら、住んでいるのは四畳半の和室とバストイレ付きのアパートです。
それもこれも不甲斐ない夫選手権シード候補の呼び声高い杉下左京が開業した探偵事務所が、閑古鳥さえ鳴かないほど仕事がないためです。
でも、樹里は毎日笑顔全開で過ごしています。
「ううう、樹里……」
先日、殺し屋と戦っていつになくカッコいいところを見せた左京ですが、今日はいつも通りのダメ夫です。
「うるせえ!」
真実を語った地の文に理不尽に切れる左京です。
「行って参ります、左京さん」
樹里は笑顔全開で愛娘の瑠里をベビースリングで抱き、映画の撮影に出かけました。
今日はクライマックスシーンの撮影です。
でも、断崖絶壁ではありません。
犯人役の稲垣琉衣をダブル主演の船越なぎさと共に公園で問い詰めるシーンです。
「どうして公園なのよ? 意味がわからないわ」
琉衣は不満そうにマネージャーに言います。
「仕方ないよ、主演のなぎささんが高所恐怖症なんだから」
マネージャーは琉衣を宥めます。
「バカバカしい」
琉衣はツンとして用意された椅子に座りました。
「おはようございます、琉衣さん」
そこへ五反田氏の愛娘にして大抜擢のキャストでもある麻耶が挨拶に来ました。
「おはよう、麻耶ちゃん」
琉衣は表向きは優しいお姉さんを演じているので、麻耶は琉衣に懐いています。
(鬱陶しいわ、このガキ)
でも、琉衣は子供が大嫌いなのです。自分もまだ子供なのに。
「うるさいわね!」
空耳かも知れないのに地の文に切れる琉衣です。すっかりこのお話に馴染んでいます。
「どうしたんですか?」
麻耶が不思議そうな顔で尋ねたので、
「何でもないよ」
琉衣は愛想笑いをして応じました。
「失礼します」
麻耶は監督に呼ばれて撮影準備です。
彼女が演じる富豪の娘は、琉衣演じる新人メイドが犯人だというなぎさと樹里の指摘にも関わらず、最後まで彼女を信じる役です。
(そんな人間がいるはずないのに。全く、脚本もいつの時代のものよ?)
臭い台詞満載の台本にうんざりしている琉衣です。
「稲垣さん、本番です」
助監督が琉衣を呼びに来ました。
「はい」
琉衣が撮影場所に行くと、樹里となぎさと麻耶がいました。
麻耶は気持ちが入っているのか、目がウルウルしています。
「すごいね、麻耶ちゃん、もう役に入ってるの?」
なぎさが驚いて尋ねます。すると麻耶は照れ臭そうに、
「台本を読んでいたら、琉衣さんの役のメイドさんの事が本当に可哀想で……」
なぎさは樹里と顔を見合わせました。
「樹里、ウカウカしてると、次回は麻耶ちゃんが主役になっちゃうよ」
すでに次回作がある事を前提に話すなぎさです。
「そうなんですか」
樹里は笑顔全開で瑠里に授乳中です。男性スタッフが色めき立ちます。
(その手があったか!)
なぎさ達の話をこっそり聞き、五反田氏に次回作の構想を持ちかける気満々のプロデューサーです。
「はい、本番入ります。皆さん、よろしくお願いします」
助監督の言葉で、現場に一気に緊張が走ります。でも樹里は笑顔全開です。
「よォい、スタート!」
監督のかけ声で撮影開始です。
まずは麻耶の台詞からです。
「待って! 私には御手洗さんが犯人だなんてどうしても思えない」
麻耶は目を潤ませ、迫真の演技です。ちなみに「御手洗さん」は琉衣の役名です。
でも、名前は「団子」ではありません。
「残念ながら、全ての証拠が御手洗さんが犯人である事を指し示しているのですよ、お嬢様」
なぎさも淀みなく台詞を言います。
彼女もまた、演技に入ると人が変わるのです。
叔母の上から目線作家の大村美紗に一度見せたいくらいです。
美紗はなぎさの撮影現場には決して現れませんが。
「そんなの、関係ないわ! 御手洗さんは私にとても優しくしてくれたし、いろいろお話もしてくれた。御手洗さんはいい人よ。人殺しなんかじゃないわ!」
麻耶は感極まったのか、涙を流しました。
台本にはない事なので、監督達が戸惑いますが、麻耶は演技を続けます。
「お嬢様……」
樹里となぎさはそう言って言葉に詰まる演技です。
樹里もさすがです。笑顔封印で、真剣な表情です。
「ねえ、御手洗さん、嘘よね? 貴女が人を殺したなんて、嘘よね? 絶対嘘よね?」
麻耶は涙を流しながら、琉衣に駆け寄り、すがりつきます。
(この子……)
琉衣は麻耶の表情に自分の台詞を忘れそうになります。
(でも、私は負けない。この人達は私がスターダムに上がるための踏み台なのよ!)
麻耶の演技に飲まれまいとして、琉衣は麻耶の振り払います。
「貴女の思い違いです、お嬢様。私は人殺しです。そして、あなた達家族をずっと騙して来たペテン師です」
その台詞は台本では麻耶を見て言うはずですが、琉衣はカメラの方を向いて喋り始めました。
助監督がハッとして立ち上がろうとするのを監督が止めます。
琉衣の即興の演技に何かを感じたようです。
「貴女の思い描く私は虚像です。今の私が実像。これが本当の私なのですよ、お嬢様」
琉衣はけたたましく笑い、涙を流しました。それも台本にはありません。
琉衣は最後までふてぶてしく笑うはずなのです。
(麻耶さんの演技が、稲垣さんに影響したのか)
監督は微笑んで頷きました。
こうして、クライマックスシーンは台本以上の素晴らしいものが撮れました。
「琉衣さん、ありがとうございました」
麻耶が撮影終了後、琉衣のところに来て言いました。
「え?」
思ってもみない事を言われ、琉衣はキョトンとします。
「琉衣さんが演じている御手洗さんを見て、御手洗さんの気持ちが本当によくわかりました。だから私も、私の役の亜実の気持ちがよくわかったんです。ありがとうございました」
麻耶は深々と頭を下げ、まだキョトンとしたままの琉衣の反応を待つ事なく、照れ臭そうに駆け去ってしまいました。
「琉衣?」
瞬きもせずに立ち尽くす琉衣を心配して、マネージャーが声をかけます。
「行くわよ」
ハッと我に返り、琉衣は零れそうになる涙を堪え、マネージャーに背を向けます。
(あんな小さい子に教えられちゃった……)
琉衣は苦笑いし、車へと歩き出しました。
彼女はまた一段女優の階段を上がったようです。
めでたし、めでたし。