樹里ちゃん、殺し屋を撃退する
御徒町樹里は日本有数の大富豪である五反田六郎氏の邸の専属メイドです。
母親の由里の再婚相手である西村夏彦氏の経営する居酒屋でも働く「お母さん」です。
いつものように、樹里は愛娘の瑠里を抱き、出勤です。
「おはようございます、樹里さん」
最近、幸せ過ぎる住み込みメイドの赤城はるなが挨拶しました。
「おはようございます、はるなさん」
樹里は笑顔全開で応じました。
瑠里もニコニコしてはるなに手を振ります。
「瑠里ちゃん」
はるなも瑠里の仕草にメロメロです。
そんなはるなに警備員さん達もメロメロです。
ロリコンでしょうか?
「違います」
礼儀正しく地の文に異を唱える警備員さん達です。
「今日は旦那様にお客様がお見えのご予定です」
はるなが言いました。
「そうなんですか」
樹里は笑顔全開で応じます。
そして、瑠里に授乳をすませ、五反田氏の書斎に行きました。
「おはようございます、旦那様」
樹里はドアを開いて深々と頭を下げました。
「おはよう、御徒町さん。今日は昔からの知人の渋谷栄一さんの使いの方がお見えになるので、よろしく頼むよ」
五反田氏は椅子から立ち上がって言いました。
「畏まりました、旦那様」
樹里はもう一度深々とお辞儀をしました。
樹里はそのままキッチンに行き、来客用のカップを用意し、コーヒーと紅茶の準備をします。
五反田氏は来客があるので、朝食を早めにすませました。
奥さんの澄子さんと娘の麻耶はすでに外出しています。
しばらくして、黒塗りの大型リムジンが庭に入って来ました。
リムジンは玄関の車寄せで停止し、中から大柄の男が一人降りて来ました。
顔はあの脱獄囚顔の加藤真澄警部より怖いです。
「誰だ、悪口を言った奴は?」
脱獄囚その二は言いました。
「誰が脱獄囚その二だ!」
脱獄囚その二は誰もいないのに切れました。
「いらっしゃいませ」
玄関のドアを開いて、樹里とはるなが挨拶をしました。
「渋谷栄一の使いで参りました」
男は言いました。
「加藤様ですか?」
樹里が尋ねました。
「いえ、佐藤です」
男は答えました。
(どうして俺の本名を知っているんだ?)
佐藤と名乗る加藤は思いました。
(俺が渋谷さんの依頼で五反田を殺しに来たのを知られたのか?)
佐藤と名乗る加藤は殺し屋のようです。顔がそのまま殺し屋です。バレバレです。
「では、ご案内致します」
はるなはキッチンへ戻り、樹里が佐藤と名乗る加藤を五反田氏が待つ書斎に案内します。
(まず最初にこのメイドを始末するか)
佐藤と名乗る加藤はニヤリとしました。
樹里がピンチです。
「書斎はどちらですか?」
佐藤と名乗る加藤は尋ねました。
「この先です」
樹里は笑顔全開で言いました。
(よし、もうこのメイドは用済みだ)
佐藤と名乗る加藤は背後から樹里に襲いかかりました。
「すみません、こちらでした」
樹里は不意に廊下の角を曲がりました。
「のお!」
樹里に掴みかかろうとしていた佐藤と名乗る加藤はバランスを崩し、倒れました。
「どうなさいましたか、加藤さん?」
樹里が振り向いて尋ねました。
「大丈夫です。それから私は佐藤です」
佐藤と名乗る加藤は立ち上がりながら言いました。
「そうなんですか」
樹里は笑顔全開で応じ、再び歩き出します。
「書斎はどこなんですか?」
佐藤と名乗る加藤はもう一度尋ねました。
樹里を瞬殺して五反田氏の所に向かうつもりです。
「この突き当たりのドアが書斎です」
樹里が答えました。
(よし、今度こそ!)
佐藤と名乗る加藤はまた樹里に襲いかかりました。
「あ」
樹里は廊下の反対側に小さな紙くずが落ちているのに気づき、拾いました。
「ぎええ!」
佐藤と名乗る加藤は、急に樹里が横に動いたのでまたよろけ、その先にあった西洋甲冑に突っ込んでしまいました。
甲冑はしっかり固定されていて、佐藤と名乗る加藤は顔を兜で思い切り打ちました。
鼻と額が赤くなっています。
「大丈夫ですか、加藤さん?」
樹里は心配そうに尋ねました。
「大丈夫です」
佐藤と名乗る加藤は、樹里がわざと避けているのではないかと疑いました。
(こいつの始末は後でしよう。先に五反田だ!)
佐藤と名乗る加藤は廊下を走りました。
「あ、加藤さん」
樹里が声をかけましたが、佐藤と名乗る加藤は無視してそのまま突き当たりの部屋に向かい、ドアを開いて飛び込みました。
「ぐええ!」
そこは書斎ではなく、掃除用具がしまわれている物置でした。
佐藤と名乗る加藤はバケツに足を突っ込み、倒れて来たほうきの柄で頭を打ちました。
「あのメイドめ!」
佐藤と名乗る加藤は激怒しました。
「この俺をからかいやがって! ぶっ殺してやる!」
佐藤と名乗る加藤は鬼の形相で樹里に突進しました。
「加藤さん、そこは物置でした。申し訳ありません」
樹里は深々とお辞儀をしました。
「うるさい! 今すぐその首をねじ切ってやる!」
佐藤と名乗る加藤の手が樹里に届きそうになった時でした。
「樹里さん、危ない!」
キッチンから異変に気づいて駆けつけたはるなが叫びました。
はるなは泥棒の時の動きを復活させ、樹里の所に走りました。
「死ねェ!」
佐藤と名乗る加藤の手が樹里の肩に触れた瞬間でした。
「どああ!」
樹里の一本背負いが決まりました。
廊下に仰向けにのびる佐藤と名乗る加藤です。
「……」
はるなはあまりの出来事に唖然としました。
「何があったんだね?」
そこへ五反田氏と警備員さん達が現れました。
「申し訳ありません、旦那様。加藤様が奥襟を掴もうとされたので、反射的に投げてしまいました」
樹里が頭を下げて謝ったので、五反田氏は仰天しました。警備員さん達も口あんぐりです。
まもなく、警視庁から神戸蘭警部と平井拓司警部補がやって来て、佐藤と名乗る加藤を拘束しました。
「こいつ、指名手配の加藤学です。前科があります。殺人を請け負うプロのようです」
蘭が五反田氏に説明しました。
「そうでしたか」
五反田氏は信じられないという顔で応じます。
「では、これで」
蘭と平井警部補は短い出番に不満を言う事なく立ち去ります。
「ううう……」
でも背中で泣いているようです。
「連絡は間違いなく渋谷さんからだった。それなのに殺し屋が来るなんて……」
五反田氏は悲しそうに呟きました。
樹里とはるなは顔を見合わせました。
佐藤と名乗る加藤学を五反田邸に送り込んだ張本人の渋谷栄一は国会にある与党幹事長室に来ていました。
「次の総選挙、よろしく頼みます、渋谷さん」
与党の幹事長が言いました。
「うむ。任せておきなさい。五反田六郎の時代も今日で終わる」
渋谷はハゲ頭に少しだけ白髪が残っていて、ガマガエルのような風貌のジジイです。
名字が顔に合っていません。どちらがと言うと鬼瓦の方が似合っています。
「誰だ、儂の悪口を言う奴は!?」
渋谷は天井を見渡しました。上から目線作家の大村美紗と親戚でしょうか?
そこへ血相を変えた渋谷の秘書が飛び込んで来ました。
「何だ、騒々しい」
渋谷はムッとして言いました。
「会長、加藤がしくじりました」
秘書はヒソヒソと話しました。駄洒落ではありません。
「何だと!?」
顔色が悪くなる渋谷です。
「おのれ、五反田め……」
歯軋りする渋谷です。
樹里とはるなは通常業務に戻りました。
「樹里さんて、どこで柔道を習ったんですか?」
庭掃除をしながらはるなが尋ねました。
「子供の頃、通信教育でです。ビデオを見て覚えました」
樹里は笑顔全開で言いました。
呆気にとられるはるなです。
(柔道の通信教育って……?)
めでたし、めでたし。