樹里ちゃん、高名な推理作家にドラマ出演を依頼される
御徒町樹里は日本有数の大富豪である五反田六郎氏の邸の専属メイドです。
今日も愛娘の瑠里をベビースリングで抱いて出勤です。
「おはようございます、樹里さん」
住み込みメイドの赤城はるなが挨拶しました。
「おはようございます、はるなさん。二次会楽しかったですよ。どうして来なかったのですか?」
樹里は、忘年会が終わると、そそくさと恋人の目黒祐樹とドロンしたはるなに容赦のない、そして悪気もない質問をしました。
「あはは、その、何だ、私、具合が悪くなってしまって、祐樹に送ってもらったんですよね」
はるなは焦って言い訳しました。
「そうなんですか」
樹里は笑顔全開で言いました。
「目が赤いので、遅くまでどこかに行っていたのかと思いました」
これもまた全く悪気のない言葉です。
「あはは、熱も出たので、あまり眠れなかったんですよね」
はるなはドキッとして言いました。
(樹里ちゃん、もしかして何もかもわかっていて訊いてるの?)
訝しむはるなです。
樹里は瑠里に授乳をすませ、仕事を開始します。
二人で庭掃除をしていた時です。
久しぶりに上から目線のリムジンが庭に入って来ました。
(うわ、あのババア、また来たのか)
はるなはその人が苦手です。名前を覚えてくれないからです。
そのリムジンはいつものように玄関の車寄せに停車し、後部ドアから高名な推理作家の大村美紗が現れました。
「いらっしゃいませ、大村様」
樹里とはるなはお辞儀をしました。
「ご機嫌よう、樹里さん、はるなさん」
美紗はいつも通りの上から目線で言いました。
(また微妙な呼び方だよ)
はるなは心の中で舌打ちします。
美紗は応接間に通されました。
二人きりになるのが嫌なはるなが、
「お茶をお持ち致します」
と言って素早く退室しました。
「樹里さん、お時間よろしいかしら?」
美紗は上から目線でソファに腰を降ろして言いました。
「はい」
樹里は美紗を笑顔全開で見ます。
「実はね、私の傑作の一つである『メイド探偵は見た』がドラマ化される事になりましたの」
美紗は更に上から目線で言いました。顔はドヤ顔です。
「そうなんですか」
樹里は笑顔全開で応じます。
「それで、ドラマに中のチョイ役で出て来るメイドAの役を貴女に引き受けてもらえないかと思って、お伺いしましたのよ」
美紗は実に恩着せがましい顔で言います。
普通はドラマの出演交渉はドラマのプロデューサー等がする事ですが、美紗はそれを許さず、全部キャスティングは自分で直接決めています。
「そうなんですか」
樹里はそれでも笑顔全開です。
「どうです? 身に余る光栄なお話でしょう?」
上から目線がMAX状態の美紗です。もう少しで後ろに倒れそうです。
「失礼致します」
そこへはるながお茶を持って入って来ました。
「ダージリンでございます」
はるなはティーポットからカップに紅茶を注ぎながら言いました。
「入って来た時点でわかっていましたから、いちいち言わなくて結構よ、愛さん」
美紗はムッとして言いました。
(やっぱりわざと間違えてるな、このババア!)
はるなは心の中では罵りながら、顔は笑っています。
「失礼致しました」
はるなはお辞儀をして退室しました。
美紗は紅茶を一口飲んでから、
「どうかしら、樹里さん? もうこんな機会は二度となくてよ」
と更に恩着せがましい顔で迫ります。
知名度抜群の樹里がその気になれば、主役の座も夢ではないので、美紗の誘いは余計なお世話です。
「そうなんですか」
樹里は別にそれほど感激していません。
「私は育児がありますし、お仕事もありますので、それに支障がないのであれば、お受け致します」
その言葉に美紗はビクッとします。
(五反田さんに許可がいるという事ね? 確かにそうだわ)
美紗は五反田クループの資金力に魅力を感じていますから、すぐに反応しました。
(五反田さんの携帯番号はと……)
小説も未だに原稿用紙に万年筆で書いているアナログ人間の美紗ですから、携帯を使いこなせていません。
五反田氏の携帯番号を探していると、
「旦那様のお許しをいただけました。大丈夫です」
樹里が言いました。
「え?」
携帯を血眼で操作していた美紗はギョッとして樹里を見ました。
「そ、そう。五反田さんの許可があればもう安心ね。ほんのちょっとした役だから、赤ちゃんのお世話をしながらできるわよ。心配しないで」
瑠里の事に関しては、美紗は本当に気を遣ってくれているようです。
傲慢で我がままで陰険で嫌な人ですが、子育て経験者ですから、働くお母さんの味方です。
「相変わらず、このお邸に来ると、悪口が聞こえる気がするわね」
美紗は天井を見渡して言いました。
「そうなんですか」
樹里は笑顔全開で応じました。
「では、また追って連絡しますわね」
美紗は紅茶を飲み干すと、立ち上がります。
「いいドラマにしましょうね、樹里さん」
「はい」
樹里は美紗を玄関まで送り、リムジンが走り去るまでお辞儀をします。
「樹里さん、凄いですね! あの大村美紗のドラマに出演するんですか?」
ドアで聞き耳を立てていた元泥棒のはるなが言いました。
「ほんの少し出るだけですから」
樹里は言いました。
「私、必ず観ますね。それから録画して、何回も観ますね」
はるなは我が事のように興奮しています。
「ありがとうございます、はるなさん」
それが樹里の芸能界デビューとなるとは、夫の杉下左京は特に知る由もありませんでした。
めでたし、めでたし。




