樹里ちゃん、高名な推理作家に訪問される
御徒町樹里は日本有数の大富豪である五反田六郎氏の邸の専属メイドです。
娘の瑠里を出産して二週間ほどで仕事に完全復帰です。
瑠里は五反田氏の好意で作られた部屋のベビーベッドで大人しく眠っています。
いつものように樹里と見習いメイドを卒業してメイドに昇格した赤城はるなが広い庭を掃除しています。
そこへ上から目線の大きなリムジンが現れました。
言わずと知れた高名な推理作家の大村美紗のリムジンです。
今日は何をしに来たのでしょうか?
「ご機嫌よう、樹里さん、愛さん」
美紗はリムジンを降りると、上から目線で言いました。
「いらっしゃいませ、大村様」
樹里とはるなは深々とお辞儀します。
(このクソババア、まだ私の名前を覚えられないのか?)
はるなは頭を下げた状態で思いました。
「娘のもみじから聞きましたの。お子さんが産まれたのでしょう?」
美紗は「この私がお祝いに来てやったんだよ、ありがたいと思え」という顔で言いました。
「はい。お陰様で無事に産まれました」
樹里は笑顔全開で言いました。美紗は悪い魔女のような顔で笑い、
「お子さんに会えるかしら?」
「はい」
樹里は早速美紗を瑠里がいる部屋に案内します。
「お名前は何てつけましたの?」
廊下を歩きながら、美紗が尋ねます。
「瑠里です」
樹里が答えました。
「るり? どんな字を書きますの?」
美紗が更に尋ねます。
「王偏に留守番の留で、りは里です」
樹里は笑顔全開で言いました。
「瑠と里ですの」
また美紗は悪い魔女のような顔で言います。
あ、元々悪い魔女顔でしたね。
「何だか、このお邸に来ると、悪口が聞こえる気がするのは何故かしら?」
美紗は天井を見渡して呟きました。
「瑠里という名前は、女の子の名前にはあまりよろしくないわね、樹里さん。字を変えた方がよろしくてよ」
美紗は急にバッグから本を取り出して言いました。
「そうなんですか」
そんな話をしているうちに瑠里のいる部屋に着きました。
「申し訳ありません、まだ眠っています」
樹里が言うと、美紗は、
「いいのよ。顔を見たかっただけだから」
と言い、そっとベビーベッドに近づきます。
すると、さっきまでスヤスヤ眠っていた瑠里が、まさしく火が点いたように泣き出しました。
「ひ!」
シャレではありません。美紗はいきなり瑠里が泣き出したので、びっくりして後退りました。
「お腹が空いたみたいですね。失礼します」
樹里は瑠里を抱き上げて、授乳を始めました。
すると魔女顔の美紗が自分の娘のもみじが赤ちゃんだった時を思い出し、涙ぐみます。
魔女の目にも涙でしょうか?
「いくつになっても、女は赤ん坊がおっぱいを飲むのを見ると嬉しくなるわね」
「そうなんですか」
樹里は授乳しながら笑顔全開で応じました。
「さっきはごめんなさいね、名前を変えろなんて言ってしまって」
美紗は涙をハンカチで拭いながら言いました。
美紗が謝るなんて、天変地異の前触れでしょうか?
「お気になさらないでください。私の母も占い師ですので、瑠里の名を変えるように言われました」
樹里は授乳を終え、「マシュマロ」をしまいながら言います。
「でも、瑠里の瑠は、夫が考えてくれたものですから、変えられないと母には言いました」
樹里はまたスヤスヤ眠り始めた瑠里をベッドに寝かせながら言いました。
「そうなの。樹里さんはご主人の事が大好きなのね」
美紗が言いました。すると樹里は笑顔全開で、
「はい。大好きです」
と答えました。夫の杉下左京が聞いていれば、号泣している事でしょう。
でも、樹里は知らないのです。左京がある高名な美人霊能者の名前から「瑠」をいただいた事を。
しばらく樹里と美紗は赤ちゃんの事で話をしました。
「あらもうこんな時間。帰らないといけないわ」
美紗はスイス製の高級腕時計を見て言いました。彼女はしばらくこれ見よがしに時計を樹里に示しますが、樹里は、
「そうなんですか」
と言ったきりで、何の興味も示しません。
美紗は軽くショックを受けますが、彼女は知らないのです。
樹里は五反田邸の一室にある「時計コレクション」を毎日見ながら掃除をしている事を。
そこには美紗の時計の何十倍も高い時計が幾百とあるのです。
ですから、樹里には美紗の時計はごく一般的な時計にしか見えないのです。
「か、帰りますわね」
美紗はショックを隠し切れず、項垂れたまま玄関へと向かいます。
そこへ「追い討ち」が登場します。
「あれえ、叔母様! いらしてたの? 全然知らなかったわ」
船越なぎさが、彼氏の片平栄一郎と現れたのです。
「ひいい! なぎさ? なぎさ?」
美紗は廊下に倒れてしまいました。
「あーいやいや、しっかりしてください、大村さん!」
栄一郎が慌てて美紗を抱き起こします。
「な、なぎさ、なぎ……」
美紗はそのまま気を失ってしまいました。
「叔母様ったら、おふざけが過ぎるわよ、もう」
美紗が冗談で気を失ったフリをしているだけだと思っているなぎさは大笑いしています。
「そうなんですか」
樹里も笑顔全開です。
「あーいやいや、大村さんは本当に気を失っていますよ、なぎささん、樹里さん」
一人で慌てている栄一郎です。
めでたし、めでたし。
「めでたくなんかなくてよ!」
気を失ったままで美紗が叫びました。