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樹里ちゃん、左京にお礼を言う

 俺は杉下左京。五反田駅の前に事務所を構える私立探偵だ。


 しかし、開業して以降、ロクな仕事がない。


 その上、最愛の妻である樹里は妊娠し、とうとう明日が出産予定日だ。


 お腹の子は順調に育っているので一安心だが、肝心の父親がどうにもならない。


「これからもっと頑張らないと、本当に路頭に迷ってしまう」


 俺は決意を新たにし、五反田駅前でビラ配りをする事にした。


「という事だ、ありさ。頼んだぞ」


 いつも事務所で惰眠を貪っているだけの腐れ縁の宮部ありさに俺は言った。


「ええ、ビラ配りなんかしても、お客さん来ないわよ。風俗じゃないのよ、左京」


 ありさはビラ配りが面倒臭いのか、トンでもない事を言い出す。


「阿呆! 美容室だって、居酒屋だってビラ配りしてるよ!」


 俺はいい加減頭に来て言った。


「ミミズだっておけらだってアメンボだってね」


 更にふざけるありさの襟首を捩じ上げる。


「真面目にやらねえと、業務上横領で警察に突き出すぞ!」


「ひいい!」


 やっとありさはわかってくれたようだ。


「行って来ます!」


 バスケット一杯のビラとティッシュを持ち、ありさは事務所を出た。


「全く……」


 俺は椅子に沈み込んだ。


(一時の勢いで警視庁さくらだもんを飛び出したのは、やっぱり間違いだったのかな?)


 そんな事まで思ってしまう。


(いや、そんな事はない。あのまま警視庁にいれば、俺はあの腐れ刑事部長に取り込まれていたかも知れないんだ)


 ちなみにその腐れ刑事部長は現在塀の中だ。


 更にちなみに、奴の名字は東海林ではない。そして娘の名前は慧璃茄ではない。


「ありさにだけビラ配りをさせるのは可哀想だな」


 そう思い直した俺は、事務所を閉めて駅前に行った。


 何だか知らないが、人だかりができている。


 何だ? 気になったので近づいてみた。


「という具合に、この杉下左京という男は、ロリコンでスケベで、どうしようもないクズなのです」


 ありさが俺の恥ずかしい写真をたくさんコルクボードに貼って、おかしな講談をしていた。


「何してるんだ、てめえは!?」


 俺はコルクボードを叩き割ってありさに詰め寄った。


「あはは、事務所を留守にしちゃっていいの、左京? 依頼の電話が入っているかもよ?」


 玉のような汗を掻きながら、ありさが言う。


「平気だよ。電話は俺の携帯に転送になる。心配せずに警察に行ける」


 もう許せない。こいつには昔取り返しがつかなくなるような迷惑をかけたが、もうそれは関係ない。


「ひいいん、許してよお、左京う」


 ありさは得意の嘘泣きで俺を懐柔しようとするが、そんな手に引っかかるような俺ではない。


 その時、携帯が鳴った。


「はい、杉下左京探偵事務所です」


 俺は華麗に電話に出た。もちろん、片手でありさの首根っこを捕まえたままだ。


「あ、左京さん、樹里が病院に行きました。生まれるみたいです」


 璃里さんからだった。え? 生まれる? 何が? 一瞬記憶が混濁する。


「すぐに病院に向かってください。私も母と合流して行きますので」


「は、はい!」


 俺はありさの事を完全に忘れ、そのまま事務所の駐車場へと走ると、愛車に乗り込み、樹里が行った産婦人科に向かった。


 喜びと不安がない交ぜになり、俺は無我夢中で車を走らせた。


 よく事故を起こさなかったと思う。




 産婦人科に到着すると、璃里さんと由里さんがいた。


「今樹里は分娩室に入ったところよ、左京ちゃん」


 何故かウィンクして言う由里さん。相変わらずだ。


 俺達はすぐさま樹里の入った分娩室の前に向かった。


「おぎゃあおぎゃあ!」


 いきなり聞こえる赤ん坊の泣き声。えええ? もう生まれたのか?


 隣の分娩室だろ?


「おめでとうございます、女の子です」


 中から出て来た樽のような体型の看護師さんが告げた。


「もう生まれたんですか!?」


 俺は璃里さんや由里さんと顔を見合わせてから尋ねた。


「はい。ウチの最短記録ですよ、お父さん」


 樽さん、あ、いや、看護師さんは笑顔で応じた。


 お父さん。そうか、俺、お父さんになったのか……。何だか実感が湧かない。


「樹里に会えますか?」


 俺は看護師さんに訊いた。


「ええ、会えますよ。どうぞ」


 俺達は分娩室に入った。


「樹里」


 分娩台に横になり、隣にシーツのようなものに包まれて寝かされている生まれたばかりの俺達の子供を見ていた樹里は俺の声に反応して、こちらを見た。


「左京さん」


 樹里はいつも通り笑顔全開だ。


「頑張ったな。ありがとう、樹里」


「左京さん」


 俺は樹里の目に浮かぶ涙を見て、グッと来てしまった。


「樹里、お疲れ様」


 璃里さんと由里さんが樹里を労った。


「ありがとう、お母さん、お姉さん」


 樹里の目から涙が零れた。俺も泣きそうだ。


「左京さん」


 樹里が潤んだ目で俺を見る。


「何だ?」


 俺は樹里を見つめた。樹里はまた笑顔全開になり、


「覚えていますか? 二年前の今日、私達は初めて会ったのですよ」


「え?」


 樹里の言葉で、俺はあの悪夢のようなファーストコンタクトを思い出した。


 あの時は樹里にイラついてばかりいた俺だったが、今は違う。


「樹里、ありがとう。俺はこれからも頑張るよ」


 俺は樹里の頬を撫でながら言った。樹里は俺の手に自分の手を添えて、


「私こそ、左京さんに感謝しています。あの時、もしあのまま私が犯人にされていたら、今ここにこうしていられなかったのですから」


 樹里の言葉に俺は感動した。


「樹里!」


 俺は先生や看護師さん、それに璃里さんと由里さんがいるのも気にせず、樹里に口づけした。


 樹里の手が俺の首に回る。


 初めてした時より熱い口づけだった。


 


 めでたし、めでたし、だ。

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