樹里ちゃん、殺人事件に巻き込まれる(事件編)
俺は杉下左京。五反田駅前に事務所を構える探偵だ。
今日は、大学時代の友人の石動新次郎の招きで、長野県の軽井沢町に向かっている。
もちろん、我が愛する妻の樹里も一緒だ。
本当は樹里の身体が心配だったので、新次郎には断りの電話を入れようと思ったのだが、
「是非行きましょう」
と樹里に言われ、行く事にした。
御徒町一族は今、その人数を拡大しようとしている。
樹里のお姉さんの璃里さんは、昨年女の子を出産。名前は実里ちゃんだ。
そして、樹里も今年の秋には出産。俺の希望で、お腹の子の性別は知らない。
更に、樹里達の母親である由里さんも、勤め先の居酒屋の店長である西村夏彦さんと付き合い始め、妊娠した。
出産は冬になるそうだ。
璃里さんの娘の実里ちゃんも、すでに樹里達にそっくりになって来た。
従妹達もよく似ているらしいから、恐ろしい事が起こりそうだ。
まあ、考えても仕方がないので、やめとこう。
俺と樹里は、関越自動車道から上信越自動車道を走り、長野県に入った。
佐久インターで降りて、しばらく国道十八号線を戻ると、あの有名な避暑地である軽井沢だ。
何故今頃、新次郎が俺を招いたのかというと、脅迫状が届いたからだ。
その脅迫状には、
「石動家の血を途絶えさせる」
と新聞や雑誌の字を切り抜いて作られていた。
「警察に連絡したのか?」
俺はそう尋ねたが、新次郎は、
「只の悪戯かも知れないからな。それにお前が警察辞めて、探偵を始めたって聞いたから」
「ありがとう、石動」
俺は思わず涙ぐんでしまった。
「あれだな」
別荘地の中でも一際大きな建物が、通りの先に見えて来る。
「そうなんですか」
樹里が俺の声に目を覚ました。悪い事をしたか? でも、もうすぐ着くのだから、いいだろう。
「こじんまりしたお屋敷ですね」
樹里は笑顔全開で言った。
「そ、そうか?」
こいつ、普段でかい邸でメイドしてるから、家の大きさに対する感覚が麻痺してるな。
確かに、あの五反田六郎邸に比べれば、見劣りするが、決して「こじんまり」してはいないと思う。
そんな事を言う樹里は、俺と暮らしているアパートをどう思っているのだろう?
何だか、悲しみがこみ上げて来る。
まもなく、俺の車は新次郎の別荘に到着した。
「いらっしゃい。遠いところをようこそ」
新次郎が奥さんと出迎えてくれた。
久しぶりに会った新次郎は、心なしかやつれて見え、奥さんの今日子さんも老けて見えた。
とは言え、美男美女の二人には変わりはない。
二人は、大学時代に交際を始め、卒業と同時に結婚した。
だから、子供はすでに中学生だ。
俺はふと、俺達の子供の将来を考え、落ち込みそうになった。
「さ、中へ」
俺と樹里は、新次郎の案内で、邸の居間に通された。
居間は、俺のアパートが全部入ってしまうくらい大きい。
その居間のほぼ中央にある黒革張りのソファに並んで座っているのが、この別荘の所有者の石動泰蔵氏と、その妻の美奈子さんだ。泰蔵氏は新次郎の父親。見てくれは、お世辞にも男前ではない。
この人が新次郎の父親だとはとても思えない。
そして、美奈子さんは、泰蔵氏の後妻。しかも、新次郎より年下だ。まだ三十歳くらいだろう。それにしても、艶やかという言葉が似合う人だな。今日子さんとは違った雰囲気の美人だ。
「ようこそいらっしゃいました、杉下先生」
泰蔵氏は、俺を見るとソファから立ち上がって言った。美奈子さんも立ち上がり、会釈した。
「お隣の美しい女性は、お嬢さんですか?」
泰蔵氏は悪気なく言った。俺は苦笑いして、
「妻の樹里です」
泰蔵氏は、美奈子さんと顔を見合わせる。
「本日はお招きいただき、ありがとうございます」
樹里は笑顔全開で深々とお辞儀した。
「ご丁寧なご挨拶、痛み入ります、奥さん」
泰蔵氏は頭を掻きながら樹里に言った。
「奥様のお辞儀のなさり方、素晴らしいですわね。お仕事は何をなさっていますの?」
美奈子さんが微笑んで尋ねる。
「はい、五反田六郎邸のメイドをしております」
樹里が笑顔全開で答えると、ほんの一瞬だったが、泰蔵氏の目つきが鋭くなった。
何だ? 五反田氏と何かあるのか?
そんな考えが頭を過った時、
「お疲れのところ、大変申し訳ないのですが、早速お話させていただいてよろしいですか?」
泰蔵氏が言った。俺はハッとして、
「かまいません。お願いします」
と応じた。
泰蔵氏の話では、脅迫状は先週末、別荘のポストに直接投函されていたという。
封筒には切手は貼られておらず、宛名すら書かれていなかった。
「ここが私の別荘だという事を知っている者の仕業のようです」
「なるほど」
俺は泰蔵氏から封書を手渡された。ごくありふれた市販の封書だ。
取り立てて特徴もない。
中から、便箋を取り出す。
脅迫状だ。そこには、
「石動家に怨みを持つ者である。石動家は滅びよ」
と切り貼りの文字で表現されていた。
「旦那様と同じ糊を使っていますね」
樹里が鼻をヒクヒクさせて言った。旦那様? 五反田氏の事か?
糊を特定できるって、どんな鼻をしているんだ?
「こんな鼻ですが?」
樹里は俺を見て、真顔でそう言った。
「……」
俺は唖然とした。何故俺の心の声を聞けるんだ、お前は?
しかしその時俺は、樹里のその一言が後に事件解決の鍵になるとは夢にも思わなかった。
一通り、脅迫状が届いた時の経緯を訊いた俺は、新次郎に一階の奥にある客間に案内された。
「今日は泊まって行ってくれ。何だか、危険な感じがするんだ」
新次郎は去り際にそう言った。
「ああ」
俺は新次郎のその言葉を別段深い意味にはとらず、笑顔で応じた。
それにしても。
部屋を見回すと、大きめのダブルベッドがある。
樹里と一緒に寝るのか。
もう子供が生まれるという状況なのに、緊張して来る。
「どうしたんですか、左京さん?」
樹里が不思議そうな顔で俺を見た。
「あ、いや、ベッドが大きくて凄いな、と思ったんだよ」
俺は変な事を想像していたのを悟られたくなくて、そう言って誤摩化した。
「そうなんですか」
樹里は笑顔全開で応じた。
しばらく、樹里と何となく過ごしていると、
「昼食の用意ができましたので、キッチンにいらして下さい」
と、美奈子さんが呼びに来た。
「はい」
俺は樹里と共に部屋を出た。美奈子さんはすでに行ってしまった後で、廊下には誰もいない。
「キッチンはどっちだろう?」
俺がキョロキョロしていると、
「こっちですよ」
樹里がまた鼻をヒクヒクさせて言う。
「……」
また唖然としながら、俺は樹里について行った。
確かに樹里の言った通り、その先にキッチンがあり、新次郎達がいた。
しかし、新次郎も今日子さんも、そして美奈子さんも、何かヒソヒソ話していて、食事の準備が途中のようだ。
「どうしたんですか?」
俺は何かあった気がしたので、尋ねてみた。
「親父の姿が見えないんだ」
「え?」
胸騒ぎがする。
「隠れんぼですか?」
樹里がそう言いかけたのを、俺はすかさず止めた。
「さっきまで書斎にいたのに。どこに行ったのかしら?」
美奈子さんは首を傾げている。新次郎が、
「多分瞑想部屋だよ。そこで最近嵌っている瞑想に耽っているんだ。全く、お客様がいらっしゃるのに、仕方のない親父だ」
と呆れ気味に言った。美奈子さんが、
「私、見て来ます」
とキッチンを出て行く。
「あ、俺も行きますよ」
決して美奈子さんの美貌に惹かれたのではない。何となく嫌な予感がしたのだ。
「樹里はここで待っているんだ」
俺は何かあると困るので、ついて来ようとした樹里を置いて美奈子さんを追った。
別に何か邪な事を考えた訳ではない。
美奈子さんは、キッチンを出ると、階段を上がり、二階の突き当たりの部屋へと進んだ。
「貴方、いらっしゃいますの?」
美奈子さんはドアをノックした。しかし、応答はない。
「貴方?」
もう一度美奈子さんが呼びかける。しかし、返事はない。
「寝てしまったのかしら?」
美奈子さんがドアノブを回す。
「あら?」
しかし、鍵がかかっているようで、ドアは開かない。
「鍵をかけてしまったみたいですね」
美奈子さんは俺を見て肩を竦めた。ちょっと可愛いと思ってしまった。すまん、樹里。
「仕方ないわね」
美奈子さんは階段へと歩き出す。俺もそれに続いた。
「ご心配をおかけして申し訳ありません」
歩きながら、美奈子さんが言った。
「いえ。あんな脅迫状が届いたので、ちょっと過敏になったようです。何もなくて良かったですよ」
俺は美奈子さんと共に階段を下りた。
「杉下さんはキッチンにお戻りになって下さい」
美奈子さんは会釈すると、泰蔵氏の書斎に行った。
キッチンに戻ると、何故か樹里しかいなかった。
「あれ、新次郎と奥さんは?」
樹里に尋ねた。
「新次郎さんは屋根裏部屋へ、奥さんは外へ行きました」
「ええ?」
樹里を一人残して、何してるんだ、新次郎め。
いや、責められないな。あいつも父親が心配なんだろう。
「どうしましょうか?」
樹里と俺は、顔を見合わせ、考えた。
その時だった。
「いやあアッ!」
美奈子さんの叫び声が聞こえた。
「何だ?」
俺はキッチンを飛び出した。すると、俺より早く樹里が走る。
「え?」
大丈夫なのか、樹里? そう尋ねる暇もないくらい、樹里は速かった。
美奈子さんがいたのは、泰蔵氏の瞑想部屋だった。
彼女は瞑想部屋のドアを入ったところで倒れていた。
「美奈子さん!」
俺は美奈子さんを抱き起こした。
「左京さん!」
樹里の鋭い声に俺は思わずギクッとして、
「あ、その、別に俺は……」
と言い訳を始めたのだが、樹里を見ると、彼女は俺ではなく、部屋の奥を見ていた。
「え?」
俺はドキドキしながら樹里の視線の先を見た。
泰蔵氏がテーブルに突っ伏しているのが目に入る。
テーブルには飲みかけのウイスキーと思われる液体の入ったグラス。
「死んでる」
首筋に手を当てて確認するまでもなく、目を見開いて動かない姿を見れば、泰蔵氏が生きていないのははっきりしていた。
何という事だ!
俺達は殺人事件に遭遇してしまった。
まるで「名探偵コ○ン」みたいだ、などとは思わなかったが。