樹里ちゃん、食欲増進する
御徒町樹里は、大富豪の五反田六郎氏の邸に通うメイドです。
樹里が妊娠している事に気遣った五反田氏の計らいで、泊まり込みの仕事はなくなりました。
「樹里さん、今くらいが一番気をつけないといけない時期だから、無理をしないでね」
五反田氏の奥さんの澄子さんが言いました。
「そうなんですか」
樹里は笑顔全開で応じます。
樹里自身、看護師の資格を持っているので、妊娠については普通の人より詳しいはずですが、やはり経験者には敵いません。
「私なんか、麻耶を身籠った時は、本当につわりが酷くて、大変だったのよ。それに難産で、三十時間くらいかかったの」
澄子さんは嬉しそうに体験談を語ります。
それを聞いていた麻耶さんは複雑な表情です。
「そうだったの?」
澄子さんは麻耶さんを抱きしめて、
「そうよ。でもね、貴女が生まれて、初めて貴女の顔を見た途端に、辛い事なんか全部忘れてしまう程嬉しかったし、幸せだったわ」
「そうなんだ」
澄子さんに頭を撫でられた麻耶さんは照れ臭そうです。
樹里は二人の姿を見て、自分のお腹に手を当てました。
(早く会いたいです、私達の赤ちゃん)
その頃、樹里の夫である杉下左京は、書店で買い込んで来た妊婦の本を貪るように読んでいます。
「……」
読めば読む程、色々な事が心配になって来る左京です。
そんな左京の百面相を見て、所員のありさは冷め切った目をしています。
「樹里ちゃんは出産が終わったら、実家に帰るんだから、あんたがそんな本読んだって仕方ないわよ、左京」
「うるさい! お前は黙ってろ!」
妊婦より不安な顔をしている夫に呆れるありさです。
「そうか。そろそろ食欲がなくなる頃か……」
こういうのを、「下手な考え休むに似たり」と言います。
「つわりの強い時期です。なるべく食事作りは避け、早めに休憩を」
必死になって知識を吸収するには年を取り過ぎています。
それに左京は、樹里が妊娠何か月なのかも知りません。
只の慌て者です。落語以下です。
「よし、食事の支度は俺がする」
その心がけはいいのですが、左京の食事で樹里が食中毒ではシャレになりません。
「樹里ちゃんが可哀想だわ」
ありさは溜息を吐きます。
左京がいろいろと思い悩んでいるうちに夜になりました。
依頼がなかったので、ありさは定時で帰り、彼一人です。
「あ!」
突然我に返り、大急ぎで家に向かいます。
「食事の用意をしないと!」
左京は大慌てでスーパーに向かい、一体何人家族だ、というくらい食材を買い込んでしまいます。
アパートに着くと、すでに樹里が帰っていました。
「樹里、食事は俺が……」
そう言いながら部屋に入ると、すでに食事はできていました。
項垂れる左京です。
「お帰りなさい、左京さん」
樹里は笑顔全開で言いました。
「樹里、もう食事の支度は俺がするから、無理しなくていいんだぞ」
左京は両手のレジ袋を畳の上に置いて言いました。
「そうなんですか」
樹里はそれでも笑顔です。
左京は今後について話をしようと思いましたが、あまりに料理がうまそうなので、
「頂きます!」
と食べ始めました。そして、樹里の食欲に唖然とします。
(樹里って、こんなに大食いだったっけ?)
樹里は卓袱台に並べられた料理を次々に平らげて行きます。
まるでギャル曽根です。いえ、それ以上かも知れません。
左京は、樹里がおかしくなってしまったのではないかと心配になり、妊婦の本を読みました。
しかし、そんな症状はどこにも書かれていません。
「樹里、そんなに食べて大丈夫か?」
左京は不安になって尋ねました。
「母が、今は二人分食べないといけないと言ったので、二人分食べています」
樹里は眩しい程の笑顔で答えました。
「ああ、そう……」
左京は思いました。
樹里、すでにその量だと、十人分だよと。
御徒町一族は、特殊なのかな、と。
でもきっと、この分だと、丈夫な赤ちゃんが生まれる事でしょう。
めでたし、めでたし。