樹里ちゃん、一目惚れされる
御徒町樹里はメイドです。
大富豪の五反田六郎氏の邸で働いています。
ある日、五反田氏の留守中に、五反田氏の旧友である目黒七郎氏の跡取り息子の祐樹がやって来ました。
目黒氏の事業の一部を引き継ぎ、正式に後継者候補として財界デビューを果たすようです。
そのために祐樹は五反田氏に挨拶に来たのですが、五反田氏は急用で出かけて留守でした。
祐樹は、富豪にありがちな、「バカ息子」ではありません。
幼い頃から英才教育を受け、わずか十五歳でアメリカの「バーハード大学」を主席で卒業しました。
更に特別な家庭教師に「帝王学」も学び、いつでも目黒氏の後継者となれる器です。
しかし、そんな生活が長かったせいで、祐樹は女性に対してほとんど免疫がありません。
富豪でイケメンで、おまけに秀才と、無敵最強モードなのですが、恋愛経験がないのです。
大学生活でも、周囲は皆年上でしたから、恋愛はできなかったのです。
目黒氏も、祐樹にその方面の教育をしなかった事を悔やみました。
でもまだ祐樹は二十歳です。これからいくらでも人生経験はつめる。
そう考えた目黒氏は、自分の手許ではなく、旧友の五反田氏の元で修行を積むように祐樹に言いました。
樹里は、五反田氏から祐樹の事を聞かされていて、邸に来たら待たせておくように言付かっています。
祐樹はスーツの襟を直し、玄関の呼び鈴を押しました。
「いらっしゃいませ」
ドアが開き、樹里が現れます。
祐樹は、樹里がとても奇麗な女性なので、顔が真っ赤になってしまいました。
「あ、あの、その、えーと……」
仕事関係の女性には全く狼狽える事がなく、「立て板に水」のように話せる祐樹ですが、プライベートで女性に会うと、「横板に餅」のように言葉が繋がらなくなってしまいます。
しかも、祐樹にとって樹里の容姿とその笑顔は、ど真ん中でした。
決して、山形のお米の事ではありません。
「どうぞこちらへ」
樹里が祐樹を案内します。祐樹は火照る顔を両手で扇ぎながら応接間に行きました。
「お飲み物はいかがなさいますか?」
樹里は相変わらずの笑顔全開です。
「あ、あの、み、水で結構です」
祐樹は呂律が回らない事を情けなく思い、ますます顔を赤くします。
「畏まりました」
樹里は深々とお辞儀をし、応接間を出て行きます。
「ふう」
樹里がいなくなると、祐樹はようやくホッとしてソファに身を沈めます。
(あの子、可愛いなあ。歳は僕と同じくらいだろう。名前、なんて言うのかな?)
樹里がいなくなった途端、そんな事に興味が行くのですから、祐樹も本当は女性が好きなのでしょう。
「さすが、五反田のおじ様のお邸だ。経済学の本がこんなに」
応接間の壁には、大きな書棚が備え付けられており、たくさんの本が並べられています。
しかもそのほとんどが、原書です。
祐樹は立ち上がり、その中の一冊を取り出して開きました。
そこへ樹里が戻って来ます。
「お待たせ致しました」
樹里はトレイにガラスの水差しとグラスを載せています。
「あ、あり、ありがとう、ご、ございます」
祐樹は慌てて本を書棚に戻し、ソファに座ります。
「どうぞ」
樹里が水差しからグラスに水を注ぎ、祐樹の前に置きました。
「はい」
祐樹は何を焦ったのか、グラスをあおりました。
「ああ!」
そのせいで、グラスの水のほとんどが口に入らず、祐樹のスーツに零れ落ちました。
「大丈夫ですか?」
樹里が素早く動き、ハンカチで祐樹のスーツを拭いました。
「……」
祐樹は樹里の顔を間近に見て、何も言えずにされるがままです。
(可愛い。可愛過ぎる!)
祐樹は思わず樹里の手を握ってしまいます。
「あの」
樹里はビックリして祐樹を見ました。
「あの、その、お名前をお聞かせ下さい」
祐樹はまさに勇気を振り絞って尋ねました。
「御徒町樹里と申します」
樹里は笑顔で答えました。
「素敵なお名前ですね」
お世辞ではありません。祐樹は本当にそう思っているのです。
「ありがとうございます」
祐樹は樹里の手を握ったままなのを思い出し、
「ああ、す、すみません」
と慌てて放します。
「お召し物をお脱ぎ下さい。乾かします」
樹里が言いました。
「あ、はい」
祐樹がスーツを脱ぎました。
すると、下に来ていたワイシャツも濡れています。
「そのままでは風邪をお引きになってしまいますので、お風呂にお入り下さい。その間にお洋服を乾かします」
「え、あ、はい」
祐樹は立ち上がり、樹里についてバスルームに行きます。
「あの」
「はい?」
樹里は笑顔で振り返ります。
「お付き合いされている方は、いらっしゃいますか?」
祐樹は更に一歩踏み込みました。
樹里は立ち止まって考え込みます。
(え? 考えるような事か?)
祐樹は不思議に思いました。
「おりません」
樹里は笑顔全開で答えました。
「じゃ、じゃあ、僕と付き合っていただけませんか?」
「はい」
樹里は笑顔で応じます。
祐樹は卒倒しそうです。
「こちらです」
祐樹は脱衣所で服を脱ぎ、よく温まった浴室に入りました。
「お召し物を乾かします」
ドアの向こうで樹里の声がします。
「はい、ありがとうございます」
祐樹はガッツポーズです。
(あんな可愛い子と付き合えるなんて、僕は運がいい)
祐樹は頭と身体を洗い、しばらく浴槽で温まります。
「お召し物、乾きましたので、こちらに置いておきます」
「はい」
祐樹は樹里の声で我に返り、浴槽から出ました。
服を着ながら、今晩の予定を考えます。
(いきなり食事とか誘ってもいいのだろうか?)
ダメなら断わるだろう。そう考えた祐樹は、バスルームを出て応接間に戻ります。
「間もなく、五反田が戻りますので、もうしばらくお待ち下さい」
樹里がそう告げて退室しようとしたので、
「あの、今晩お食事でもいかがですか?」
「はい」
樹里は躊躇いもなく応じます。
「そ、そうですか。では、ご連絡先をお教え下さい」
祐樹はアタフタと携帯を取り出します。
「その前に、夫に連絡してもいいですか?」
「はい?」
祐樹はキョトンとしました。
(今、彼女、夫って言わなかったか?)
「あ、あの、お付き合いしている方はいらっしゃらないのですよね?」
祐樹は確認のためにもう一度尋ねます。
「はい」
樹里は笑顔全開で応じます。
「今、『夫』って仰いませんでしたか?」
祐樹は顔を引きつらせて言います。
「はい」
樹里は尚も笑顔です。
「僕をからかっているのですか?」
祐樹は少しムッとして尋ねました。
「いいえ、とんでもないです。お客様をからかったりは致しません」
「付き合ってる人はいないのに、旦那さんがいるって、おかしいじゃないですか」
祐樹は更に尋ねます。
「夫とは付き合っていませんので」
「はあ?」
祐樹は唖然としました。
樹里は夫の杉下左京に連絡し、許可を得ました。
「お食事、行っていいそうです」
樹里が笑顔で言います。
祐樹はその笑顔にやられてしまい、樹里が既婚者だなんてどうでもよくなってしまいました。
(ずっと思っていれば、いつか僕の方を向いてくれる)
結構ポジティブな人です。
当然の事ながら、連絡を受けた左京は、そっと樹里達の後をつけ、血の涙を流しながら堪えていたのは言うまでもありません。
めでたし、めでたし。