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悪夢物語

呼び声

作者: 暮 勇

 新居となるマンションに荷物をあらかた入れ終えたので、私たち夫婦は大家の元に挨拶に向かうことにした。

 大家は50代中頃の女性で、にこやかで接しやすい印象だった。旦那が挨拶と簡単な世間話を終え、どうぞよろしくと互いに締めくくり、そのまま去ろうとした時だった。

 旦那が先にエレベーターに向かうため、大家に背を向けた。その瞬間、大家は私につぅと近づくと、耳元でぼそりと。

「何があっても、応えちゃダメよ」

 それだけ言い、そそくさと自分の部屋に引っ込んでしまった。

 一体、何のことだろうか?厄介な勧誘でも来るのだろうか?

 私は旦那に呼ばれるまで、呆然とその場に立ち尽くしていた。

 少しばかり薄暗いエレベーターの中で、私は旦那に先ほど大家に言われたことを伝えてみたが、私が考えた様に「勧誘とかで、厄介な人がいるのかもね」と言い、あまり深刻に考えてはいない様子だった。

 部屋に戻った後は荷解きと部屋の掃除で追われ、結局大家に言われた一言についてよく考える間も無く、すぐに忘れてしまった。


 翌日、旦那は仕事のために朝早くから外出しており、私一人が部屋に残されることとなった。

 昨日は荷解きと他の部屋の掃除に疲れ果て、結局近所の銭湯に頼った。なので、未だ手付かずの洗面所と風呂場を掃除しようとしていた。

 古いマンションながら、内部はリノベーションされており、シンプル小綺麗な洗面台を一通り磨き終え、洗剤を洗い流した時だった。

 小さな排水口の淵で渦巻く泡と水。ごぼごぼ、ぐるぐる。そんな音の隙間から。

 おかあさん。

 と小さな声が聞こえた。

 初めは気のせいだと思い、そのまま洗面台を水で洗い流し続けていたが。

 おかあさん、おかあさん。

 まるで幼い女の子が母親に何かをねだる様な甘い声は途切れることなく、はっきりと聞こえるまでになった。

 私は疲れで頭がおかしくなったのか、それともどこか別の部屋から漏れ聞こえている音なのかが判別できなくなり、排水口を覗き込んでしまった。

 そこには、おかあさん、と動く小さな薄い唇がはっきりと見えた。

 私はめまいを覚え、その場にへたり込んだ。

 めまいが治まる頃には、その声は聞こえなくなっていた。


 その呼び声は、私が1人の時にしか聞こえてこなかった。家中のあらゆる排水口のある場所ー台所や洗面所、風呂場などから毎回5回ほど”おかあさん”と言う声が聞こえ、止んでいく。

 一度、旦那に「洗面台の排水口の奥に虫がいる」と嘘をつき、調べてもらった。結局旦那は何も見つけられず、「気のせいだろう」で片付いてしまった。

 他の部屋の住人とも挨拶以上の交流はなく、例え交流があったとしても、とても相談できる事柄ではなかった。

 排水口から女の子の呼び声が聞こえる。

 そんなことを言えば、頭がおかしくなったと思われるに違いない。

 私は仕方なく、イヤホンで耳を塞ぎながら水場に立つ様になった。


 その日はイヤホンが見つからず、仕方なく何も耳につけないまま風呂場の掃除をしていた。床を磨き、排水口周りの毛を取っている最中だった。

 おかあさん。

 私はサッと排水口から手を退け、声が止むのをじっと待った。

 その時だった。玄関からピンポン、と呼び鈴が鳴り、続いて「配達です」という声が聞こえた。

「はぁい」

 いつもの癖で応えてしまい、しまったと後悔した。

 未だ呼び声は続いていたのだ。

 一瞬、静まり返る風呂場。そして、水を流していないのにごぼりと音を立てる排水口。

 おかあさんだ。

 愛嬌のある声から一転、抑揚のない声が排水口から響く。

 私は慌てて、咄嗟に「ちがう」と口走っていた。

 おかあさんじゃない?

 じゃあ、だれ?

 だれだ、だれだ、だれだ!

 少女の声は次第に野太くなってゆき、男性の怒鳴り声のようになっていく。

 私は腰が抜け、這いずるように玄関へと逃げる。背後、遠ざかっていく風呂場から、怒号が響く。

 だれだ、うせろ、うせろ、うせろ!

 玄関にすがりつき、体重に任せて扉を押し開けた。つんのめる様に外へと飛び出した私を、配達員は怪訝そうな顔で見つめていた。

 声は、止んでいた。


 それ以降も、私は何事もなくこの部屋に住み続けている。もちろん、あの呼び声もまだ聞こえている。

 ただ最初とは違い、少女の甘い声から、おどろおどろしい男性の声に変わった。

 うそつきめ、うそつきめ…。

 一人家事をしている時に、そんな声が聞こえてくる。

 私は毎日怯えながら、イヤホンを片時も離さず生活している。

 これから私はどうなってしまうのか?何が起ころうとしているのか?

 今の私には、分からない。

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