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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

沼底

作者: 羽月

勢いで書いた後味の悪い話です。そういう話がお好きな方だけお読みください。

女はその日、沼に落とされた。いらぬ子を身ごもったからだ。いわゆる口封じである。


女は場末の娼婦である。容姿も声も特筆すべきところなく、遠からず一人わびしく死にゆく身の上。子さえ身ごもらなければ、もう幾ばくかは命を繋いでおれたものを。


子の父が問題だった。この地を治める領主の嫡男……女遊びと放蕩ばかりのろくでなし。しかし種落としには慎重で、今までその子を宿した女はいなかった。であるからして、娼婦たちにとっての男は、金払いのよい金持ちの息子。その程度の扱いだったのだ。


女は不運だった。今まで誰も宿すことのなかった種を、ただの一度で得てしまった。ただ不運であった。それだけである。


それだけの理由で、女はあっさりと殺された。底の見えない暗い沼へ……まだ夜も明けきらぬ小雨の降る明け方であった。


***


女はただ沈んだ。望まぬ子とはいえ自らの腹に宿った子を庇うように体を丸め、視界の利かぬ冷たい沼の底へと、引きずられるかのように。短い人生であったとか、何故このような目にだとか、思わなかったわけではない。ただこのまま生きながらえても、いずれ病気になり痩せ衰え死ぬか、女としてとうがたち日銭を稼げず飢え死ぬか……どうせ先はなかった。


沈み、沈み、沈み続け、ふと、いつ死ぬのかと思った時、女の体は底へと辿り着いていた。仄かな光が蛍のように、あるいは泡のように、足元からふわりふわりと立ち昇る。水の纏わる感触が質素な衣を揺らす他、空気の動きも音もない。沼底とははてこういう場所なのかと女はわずかに首を傾げた。


「あれ、あんたどうして、こんな場所に……」


と、どこからか小さな声が響く。しゃがれた老婆の声だ。


「そちらさまこそ、何故このような場所へ……」


どちらにいらっしゃいます、と視線を巡らせれば、少し離れた薄暗がりの中へ浮かび上がるように背骨の曲がった小さな老婆が姿を見せた。


「私はこの通り、背も曲がり、手足もおぼつかぬ老いぼれよ……息子の背に負われてここに沈んだ。しかしあんた、あんたはまだ若い娘でないか。そのように腹も膨らませて」

「ああ、私は、成してはいけない子を身ごもってしまったのです……そうしてここへ」


ああそうかい、そんなことがあったのかい。大変だったねえと老婆は深く頷いた。


「あの、ここは一体……」


女はそっと腹をさすりながら、周囲をゆるりと見回す。ここは沼の底さ、と老婆は答える。


「ここは、昔から私たち老いぼれが幾度となく沈んできた、深くて暗い、沼底だ」


――娘さん、あんたはまだ早い。


「ここはあんたのように先があるもんが来る場所じゃない。あんたは戻った方がいい」


老婆は首を横に振り、そっと上を指し示す。


「でも、戻っても、殺されるだけです」


女は怯えた様子で首を振り返した。


「別の場所で、別の女として生きればいい。何、方法はあるさ……」


呟くと老婆はそっと顔を上げる。淡い光の昇る先、暗闇の先から何か、小さな影が落ちてくる。それは近付くにつれ小さな人影に姿を変える。


――老婆だった。


「さあ、あんたはそこを昇るがいい。この老婆が開いた道を昇り、言うといい。役に立たない年寄りの代わりに、子を孕んだ女を持ち帰れと。これは神のお告げだと」


さあ行け、ここは老いぼれの墓場。あんたにはまだ早いさ。


老婆は女を鋭く促した。女はしばしの間迷った様子を見せたが、ありがとうございますと深く頭を下げ、力強く水を蹴り上へ上へと昇っていった。


***


女はそして母を沈めに来た男の嫁となり、その後に子を産んだ。その子は幼いながらに見目麗しい娘となった。血の繋がりはなくとも神の結んだ縁で繋がった家族だ。女は男を支え、男は家族を養い、娘は健やかに育ち、裕福でないながらも穏やかな暮らしが続いた。


――けれど、そんな日常はある日突然終わりを告げた。


親子三人で町に出た時のことだった。目抜き通りを向こうから歩いてくる一向に、彼らは慌てて脇に寄り平服した。数年前に前領主が亡くなり家督を継いで以来、ますますその悪行を轟かせている若領主が周囲を蹴散らすようにして歩いてきたからだ。親子は地に頭がつくほどにうずくまり若領主という嵐が過ぎ去るのを待ったが、その足は娘の前でぴたりと止まった。


「娘よ。幼いながらに美しい髪をしておるな。面を上げよ」


娘は震えながら、そっと顔を上げた。


「ほう……育つのが待ち遠しいかんばせだ。我が下で育てるか」


若領主は娘の細い腕をぐいと掴み無理矢理に持ち上げた。父母は慌てふためき、許しもなく顔を上げてしまった。


「お、お待ちください……!」


無我夢中で腕に縋りついた母を鬱陶しげに払いのけようとした若領主は、女の顔を目に入れた瞬間悲鳴を上げた。


「ひ、ひい……! お、お前、し、死んだはずでは……!」


女は怯える若領主に迫り、その腕をきつくきつく握りしめた。娘を放してと。


「む、娘だと! これは、あの時腹にいた、私の子種か……! この、亡者どもめが……!」


若領主は叫び、腰の刀を抜くと女を切り、そして娘をも切りつけた。鋭い刃を振るうたび、血がほとばしる。甲高い悲鳴が上がる。逃げ惑う人々の中、男は一人、這いつくばったままぶるぶると震えていた。


――恐慌の過ぎ去ったあと、そこに残るは血まみれで息絶えた母娘。そして、一人残された男のみであった。


***


男は妻と娘の遺体を背負い、山深く分け入る。荒い呼吸、滝のような汗、とめどなく流れる涙で目は真っ赤に染まっている。


ずっしりと重く冷たい妻子を抱え、男自身も血に染まりながら、目指す場所は。


――母を沈め、身重の妻を得た、あの、沼。


足を引きずるように進み、そうしてようやくのこと辿り着いた沼へ、男は。……泣きながら、妻子の体を沈めた。底の見えないほど深く深い水底へと、二人の体は沈んでいく。水面をわずかに赤く染めながらやがてその姿が完全に沈みきると、男はよろけながら立ち上がった。老いた母を沈め、今また死んだ妻子を沈めた沼に、ゆっくりと背を向ける。すると、


「これ。待ちなさい」


誰かが男を呼び止めた。恐る恐ると振り返れば、水面から顔だけを出したような姿で、老婆が男を見ていた。ひい、と男は浮かせた尻を再度つく。腰を抜かしていた。


「妻子をともに失うとは、哀れな男よ。情けだ。選ばせてやろう」


――妻か、娘か。どちらかを生き返らせてやろう。どちらがよい。


得体の知れぬ老婆の問いに、男は、心の底から、叫んだ。


「ど、どっちもいらん! 妻は、沼の神様から渡されたから、娶っただけじゃ! 俺の子じゃない娘もいらん! どっちもいらん!」


老婆は、そうか、と頷いた。


「どっちもいらん、か。……お主は正直な男だな」


正直者には、褒美をやらねば。老婆はうっそりと微笑んだ。


――お主が今までこの沼に沈めた者。全てを返してやろう。と。



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