無題0208
つづきました。
剃刀とはひどく無表情で不気味なものだ。
また死ぬことは叶わない…そう思いながらも、私は剃刀を喉に当てる。
ある文豪の言葉が脳裏をよぎった。「最も強く明治の影響を受けたその後を生きているのは畢竟時代遅れだ」…だったか。
当時は興味もなしに学んでいたが、なるほどあれは今発揮される為に学んでいたのか。平成精神に殉死する、というのもまぁ…即興の言い訳にしては上出来か。
などと心底どうでもいいことを考えながら今度は顎に剃刀を当て、蓄えていた顎鬚を剃る。鬚を束縛から開放してやったが、新聞紙でも敷くべきだったか。床に落ちた鬚が自身の油気をもって地面に縋りついている。
心底厭な気持になったので気分を晴らすべく洗面台に向かうとする。鬚の残骸が足を刺すのが憎らしいがぶつける相手もおらず、止むを得ず壁を殴る。拳が痛み、壁は穴の一つも空きやしない。
溜息。
つまらないことに拘ることもないか、と思い直して洗面台へと至る。
蛇口をひねり水を受け、顔に弾ける。水飛沫が床に落ち、顎に刺激を感じる。刹那脳裏に響く聲。水音に似たそれはしかして水音にはあらず。はっきりと輪郭を纏って我が借り物の臓物を共鳴させる。幾たびか耳鳴に悩まされたことはあれど、遂に頭まで狂ってしまったのやもしれぬ。視界が灰みの暗褐色に染まり、奇妙な交信を為さんと試るのであった。