第二話:友達の定義に悩む人間なんてぼっちと小説家くらいだよね
「えーっと……まあアレよね。人生悪いことばかりじゃないと思うし。生きていればいいこともあるわよ、たぶん」
これ以上悪くなることはないであろうと思われた現場の空気がさらに落ち込んだところで、古都瀬妹が苦し紛れに慰めの言葉をかけた。その言葉そのものに胸を打たれたわけではなかったが、俺の心は案外すっきりしているように感じられた。本当は自分ひとりで抱え込んでいた悩みを誰かに打ち明けたかったのかもしれない。
「ああ。ありがとな」
感謝の言葉を述べると、古都瀬妹は目を背けて口をとがらせた。
「……べつにたいしたこと言ってないし」
「まあそれはそうなんだが」
「たとえ事実でもそこは否定しろ。……それで、今はどうなの?」
「親とは絶賛家庭内別居中。成績はここでは一応上位だけどな、最近勉強サボってるから全国偏差で見たらよくはないな。その辺の国公立に合格するくらいはできるだろうが、医学部に入るのはたぶん無理」
「ふうん。じゃあ友達はできたの?」
母親との会話みたいだな、などと考えながら俺は答える。
「あー……まあ、その。なんだ」
「できてないわけね」
「そうですね。はい」
「なーにやってんだか」
俺の返事を聞いて、大きくため息をついた古都瀬妹だったが、ぼそりと「人のことは言えないか」と呟くと、
「あたしもそんな感じ」
とだけ言った。
つまりは古都瀬妹も友達がいないらしい。
これには俺も少し驚かざるを得なかった。口の悪さこそ難があるものの、古都瀬妹の容姿だけ評価すれば、会長と同じ血筋なだけあって、かなり美人の部類だったからだ。なんとなくだが、古都瀬妹は頭の悪そうな派手派手した仲間とわけのわからん言葉でコミュニケーションをとりつつ、誰も興味がない料理やら青空やら自撮り画像をインスタに挙げていいね! をつけあい、影の薄い男子生徒やおっさんを小ばかにして生きてきたのだろうと思っていた。
いやまてよ、陰キャラ煽りはこいつもしてたな。
「意外だな。おまえはそういうのうまくやる人間なのかと思った。口が悪すぎて引かれたか?」
「あんたもいい性格してるよね……。逆よ逆。あたしがあいつらを見限ってやったの。思い返してもホンっトくだらない連中だったわ」
悪態をつく古都瀬妹だったが、その表情に陰りがあったことは指摘しないでおいた。
寒風が明るく染められたセミロングの髪をなびかせる。からんころんと誰かが捨てた空き缶が転がってきて、俺たちの足元で動きを止めた。
古都瀬妹は空き缶を足の裏で転がしながら呟いた。
「ねえ。友達って何なのかな」
「よりによってそれを俺に聞くのかよ」
「他に聞く相手がいないんだからしょうがないじゃない。見た感じ、あんたもコミュ障ってわけじゃないんでしょ。あんたがクラスメイトを友達だと思えない理由ってなに」
クラスメイトと友達の境界線。
普段から会話しているかどうか。
休日に遊びに行けるかどうか。
教科書を忘れたときに貸し借りできるかどうか。
あだ名で呼びあっているかどうか。
行為に限定してしまえば、表面的な答えを出すのは簡単だった。俺がクラスメイトとできないことを挙げていけばいい。しかし、それらができたところで友達になれるとも思えなかった。それらの行為は友達になるために行うのではなく、友達ゆえにできることだと知っていたからだ。
では何をもってして友達という関係は成り立つのだろう。長い付き合いであったとしても、ちょっとした価値観の相違で仲違いしてしまうことだってある。相手を思いやるために本質を嘘で塗りつぶすことが友達としての在り方なのだろうか。それは違う、と俺は思う。しかし、俺の周りにいる人間のほとんどは、自分の中にある何かを押し殺して人付き合いをしているようにも見えた。
「わからん」
しばらく考えてみたがやはり答えは見えそうにない。
「わからん、がな……友達ってのは気づいたらなってるもんだろ。理屈じゃないんだよ」
「少女漫画の受け売りじゃない」
さすがにばれたか。
でもこいつもこんなナリしてしっかり少女漫画読むのな。
さすが女子中高生のバイブルなだけある。
「……気づいたら友達になってる、かあ」
古都瀬妹は確認するように俺の言葉を繰り返した。
「もしそうなら、いつのまにか友達じゃなくなってても不思議じゃないよね」
それは、一理あるのかもしれない。
知り合いと友達の境界線というものがあり、しかし定義が曖昧で視覚化することができないというだけならば、よろめいてたたらを踏んだ拍子にラインを越えてしまうことだってあるのだろう。自分の立ち位置が見えているから人は踏み留まることができるのだ。足元が見えていなければ、いつかラインを越えてしまうんじゃないかという恐怖に怯えながら生活するしかない。
「なあ、何があったんだ?」
俺は問うたが、古都瀬妹はそれに答えず缶を拾って立ち上がった。
自嘲気に笑うと、代わりに質問で返してくる。
「あんたって、実はあたしのこと知ってるでしょ」
そりゃもちろん知っている。
人間関係が希薄な俺ですら知っているのだ。
全校生徒が知っていたとしても不思議ではない。
「古都瀬だろ? 生徒会長の妹の」
「うん。正解。じゃあさ、あたしの名前はわかる?」
「それは――」
そこで俺は、言葉に詰まる。
古都瀬妹。古都瀬紬生徒会長の妹。
彼女の噂だけなら知っていた。
――生徒会長に妹がいるんだって。
――へー、友達になっておこうかなー。
――でも会長と違って素行不良らしいよ。
――そういえばこの前も生徒指導に注意されてたよね。
――付き合うなら会長がいいよなあ。ヤるだけなら妹の方でもいいけど。
――妹と付き合ったら会長とも話せるんじゃねえ?
どこからともなく聞こえてくる会話。
悪意のない、しかし少なからず打算が含まれた彼らのセリフ。
それらの中に、古都瀬の名前が出てくることはなかったはずだ。俺が忘れているだけなのかもしれないが、結果として古都瀬の名前がわからないという事実に代わりはなかった。
「ね。つまり、そういうコト」
そういうこととはどういうことなのか、聞く気にはなれなかった。
俺が黙っていると、「じゃあね」と言い残して古都瀬が校舎に向かって歩いていく。
一度も振り返らない古都瀬の後ろ姿を俺はぼんやりと眺める。
やがて扉の奥へと消えるのを確認すると、右手で頭を掻きむしった。
後悔や罪悪感にも似た、言いようのない感情が胸の奥でつっかえているような気がした。
しかしそれが何なのか俺は理解することはできなかった。
古都瀬が座っていたところに目を向けて、気づく。
そこには綺麗に折り畳まれた藍色のハンカチが置き去りにされていた。おそらく古都瀬が忘れていったのだろう。俺はそれを持ち上げて、端の方に書かれた文字を見つける。
『古都瀬庵』
女子にありがちな、角という角が丸められた古都瀬の名前。
「あいつ小学生かよ……」
古都瀬がハンカチに名前を書いているところを想像して、その風貌との違和感に少し笑うと、俺はそれをポケットの中に押し込んだ。
昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴る。
教室に向かいながら、俺はこれからどうするべきかを考えた。