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愛の章

収容所の片隅。備品庫の、裏側。一本の杉の樹の前に、ショウキチはいる。

あの日以来、コイノボリには会っていない。

あの桜が、倒れたまま放置されているのは、甲寮の側からでもはっきりと見える。自分たち二人の幸せな時間は、終わったのだ。倒れた桜の巨木はそれを象徴するものであるかのように、ショウキチには見えていた。

もう二度と、コイノボリがあそこでTEPPOOテポオOKEIKOオケイコすることはない。自分とあの人は、今まで通りには、もう会うことはできない。

変わらなければ、いけない。強く、ならなければ。

もし、今あの人に会いに行ったとしても、彼は変わらず、よぉ、と気さくに話しかけてくれる事だろう。だが、それではダメなのだ。それでは、なにも変わらない。

ショウキチの想いは、ただ憧れを追いかけ、幸せな気持ちに溺れているだけでよかった恋の日々の終わりを経て。互いに支え合い、認め合う関係を築いていきたいという、より強く、より深い愛へと変わっていた。

杉の樹の前で、ショウキチは構える。TEPPOOテポオ。あの人のやっているのを、毎日見てきた。目を閉じれば、その光景がありありと浮かんでくる。あの人の、やっていたように。

カッ、と目を開いたショウキチは、目の前の杉の樹を思い切り押し出した。

えっ。ショウキチは、何が起きたのか理解出来ずに呆然としたまま、空を仰いでいる。

なんで。杉の樹はびくともせず、ショウキチは自分が押した力で見事、後ろにひっくり返っていた。

おかしいな。もう一度。立ち上がり、もう一度試みるが、結果は変わらない。

ショウキチは愕然とした。あれほど当たり前のように繰り返されていたコイノボリの動きは、こんなに難しいものだったのか。1回も、できない。自分はいったい、コイノボリのなにをみていたのだろうか。

自分はひょっとして。コイノボリのことを、なにひとつ理解できていないのではないか。行き着いたその考えを振り払うように、杉の幹へ挑む。だが、簡単に弾き返され、転んでしまう。

しかし。とにかく、やめるわけにはいかない。今は少しでも、コイノボリに近づきたい。彼を理解するためには、これが必要なのだ。

「あー居やがった居やがった!ったくオメーは。こんなとこでなにやってんだ。」

しばらく見様見真似のうまくいかないTEPPOOテポオ(?)を繰り返していたショウキチは、背後からの声に驚いて振り向いた。

アラカワたち三人が、不思議なものを見るような目で自分を見ている。ショウキチは、自慰行為を親に見つかった子供のように真っ赤になった。見られたくなかったのだ。この時間は、自分と、そして、コイノボリのための時間だ。誰にも、邪魔されたくなかった。

そんなショウキチの想いなど知るかとばかりに、アラカワがずかずかと近づいてくる。杉の樹と、ショウキチとを交互に眺め、TEPPOOテポオかよ、ゴガツHEYAヘイヤの得意技じゃねえか。と呟いた。

「ったく。んな(モン)、どこで覚えてくんだか。ぴよぴよもろくにできねーくせによぉ。」

チッ、と忌々しげに舌打ちをする。

アラカワたち三人は、ウンリュウの指示で姿の見えなくなったショウキチを探していた。先日、乙寮の前の桜が倒れた事は、彼らも当然知っている。そして、その際に美帝国の兵士に数人、死傷者が出たらしい。噂に聞くところによると、どうも、その事件にショウキチが関わっていたらしい。

どんな事情があるにしろ、奴ら、ショウキチを放ってはおくまい。彼の身の危険を感じたウンリュウは、ショウキチから目を離すな、とアラカワに厳命していた。

その途端、コレである。こっちはOral‐SEXitオーゼキのカミナリを落とされたってのに、いい気なモンだぜ。アラカワはイラつきながら、ショウキチの肩を掴んだ。

「オメーはよぉ、まだ身体が出来てねーんだ。んーなチャラチャラしたモン覚える前に、やることがあんだろ。オラ、わかったらさっさと帰ってクソして寝ろ。その方が今のオメーには100倍OKEIKOオケイコになるってモンだ。」

ぐい、と引っ張るアラカワの手を、ショウキチが乱暴に振り払った。あぁ!?と青筋を走らせるアラカワを見て、トコツネが慌てて割って入る。

「ショウキチ君は体重めかたはありますが、まだ身長たっぱが足りていない。押しで勝つには間合い《リーチ》の長さも重要ですからね。かっこいい技を覚えたい気持ちはわかりますが、今はまだ、アラカワさんの言う通り、基礎OKEIKOオケイコをしっかりやって、しっかり食べて、しっかり寝て。身体を作ることに専念するべきですよ。」

トコツネはショウキチをなだめるように説明すると、眼鏡をクイッとやり、さ、帰りましょう、と促した。

「うるさい。」

ショウキチは二人に背を向けると、お構い無しにまたTEPPOOテポオを始めた。意地になっていた。関係ないくせに。なにも、知らないくせに。あの人の技を、悪く言うな。ぼくとあの人の間に、入ってくるな。ショウキチにとって、今やこの技だけが、コイノボリとの繋がりであった。それを否定されることだけは、絶対に許せなかった。

だしぬけにブチブチブチブチ!と音が響きトコツネが驚いて振り向くと、物凄い形相をとなったアラカワが頭から湯気を出し唇を震わせていた。頭に血が昇り過ぎて、血管がキレたのだ。

「こンのクソ餓鬼ャア…!今日という今日は許さねえ…!!」

憎まれ口を叩いてこそいたが、彼は彼なりにショウキチのことを心配していたのだ。うっかりショウキチを見失ってウンリュウに叱責された時には、自分のミスを誰よりも責めた。もし、ショウキチの身に何かあったら。ショウキチを探しながら、誰よりも心配していたのは彼である。先ほどイラついていたのは、その裏返しだ。

そうしてようやく見つけたと思えば。こちらの気も知らず、この態度である。ショウキチ自分勝手は今に始まったものではないが、もはや許せる範囲を遥かに越えていた。

ショウキチに掴みかかろうとするアラカワを見て、「待て!」とトコツネが止めようとする。聡明な彼は思い至っていた。乙寮の桜が倒れた事件。死傷した美帝国兵士。それに関わっているというショウキチ。あの桜の巨木を倒すような真似ができるのは、例えKAKURIKIカクリキといえどそうはいない。少なくとも、SEXITセキート以上の実力者。そして、乙寮のSEXITセキートの中で、それが出来そうな者と言えば。ショウキチは、カシハモチに絡まれていた。そのカシハモチは、あのSEXITセキートTUKEBITOツケイビトだったはずである。そして、TEPPOOテポオはゴガツHEYAヘイヤの―。

トコツネの中で、それらの事象がひとつに繋がった。いけない。これは。ショウキチの性格では、何を言われても止めない。アラカワを止めなくては。

「アラカワ!」叫んで追いかけるトコツネが、一瞬で張り倒された。彼は頭脳派のKAKURIKIカクリキである。痩せソップとはいえ、パワー型のKAKURIKIカクリキであるアラカワが本気になっては、腕力では止められない。

「ショウキチィ!」

アラカワが振り上げた拳をまさに打ち下ろさんとした時、彼の目にとんでもない光景が飛び込んできた。

後ろにいたはずのマルゲリーが、いつの間にか前にいて、まあ、それは百歩譲って良いとして、ショウキチの尻を抱えるように後ろから抱きついている。

「ハッアァアア!?」

あまりの突拍子もないな出来事に、アラカワが思わず動きを止めた。完全に、思考力を奪われていた。

マルゲリーはいつになく真剣な顔をして、ショウキチ腰回りを丹念に撫でたりさすったり、揉んだりしていたが、やがてふむ、と考え込むと、「コシガ、オチテイナイ。」と結論を出した。

彼はショウキチの前でカクカクと腰を振り、コシガマエ、イイ。ウシロ、イクナイ。マエ、ウシロ、マエ、ウシロと何かを説明しようとしている。

「打撃技はその攻撃のベクトルと反対方向に、必ず反作用が生じます。威力を最大限に発揮するためには、腰を落とし、脚を踏ん張ってその反作用を封じ込める事が重要、ということですね。」

今度は立ち上がってきたトコツネが、ヒビの入った眼鏡をクイッとやりながら、地面に矢印を描いて説明する。

完全に毒を抜かれた形になったアラカワは、しばらく呆然とその光景を眺めていたが。

「あー!もう!てめーらときたら、よう!」

やがて、頭をくしゃくしゃに掻きながら三人の輪に入ってきた。

「ダメだダメだそんなんじゃ!こいつはバカなんだから、口で説明したってわかりゃしねえんだよ!」

下がってろ!とトコツネとマルゲリーの二人を散らすと、ショウキチの腰をグイッと下げて、中腰の姿勢をとらせた。

「いいか。今日だけの特別だからな!一回しか教えねえぞ!!」

カントー《ヘイヤ》では、技を教える際に厳しいルールがある。まずは基礎OKEIKOオケイコを徹底的に叩き込み、一定の習熟度に達するまで、絶対に技を教える事は許されないのだ。

あーもう!またOral‐SEXitオーゼキのカミナリくらっちまうぜ。ぶつくさと、アラカワが愚痴をこぼす。

「そうだ、そのカッコで。もっと後ろに体重かけろ、前のめりになんな。ささえててやっからよ。お前、右利きだったよな?じゃあ、右4、左6でハスに構えろ。ナナメってことだ。背中丸めんな、真っ直ぐ伸ばせ。」

ひとつひとつ、ショウキチの身体を動かしながら、丁寧にアラカワは教える。よーし、それだ。いいか、その構えから、思いっきり撃ってみろ。ビビんじゃねえぞ、思いっきりいけ。

ばしーん、と今までとまるで違う音が響いた。ショウキチの顔が、パッと明るくなる。

アラカワさん!と振り返ろうとしたショウキチは、支えを失って半回転しながら倒れ込んだ。アラカワがいきなり支えていた手を離したのだ。

「バーカ。調子にのってんじゃねえよ。」

アラカワの語尾が涙声になっている。思わず噴き出したトコツネとマルゲリーにウルセッ!毒付き、ぐし、と鼻を啜ってから、いつもの口調でアラカワは改めてショウキチに声をかけた。

「な。わかったろ。オメーはまだ、TEPPOOテポオを撃つ足腰(どだい)ができてねえんだよ。TEPPOOテポオ撃てるようになりたいなら、死ぬ気でぴよぴよやれ。まずはそっからだ。」

「はい!」と嬉しそうに返事をするショウキチを見て、チッ!とそっぽを向いたアラカワは、ニヤニヤ笑いながら自分を見ているトコツネとマルゲリーに気付き、真っ赤になった。

「見てんじゃねえ!さっさと帰ってクソして寝るぞ!」

アラカワが背を向ける。三人は、嬉しそうにそれに続いた。


明朝。目覚めたアラカワは、ショウキチがいない事に気付き、真っ青になって外へ飛び出した。運動場にショウキチが黙々とぴよぴよを行っている姿を認め、彼は、だから極端なんだよ、馬鹿。と頭を抱えた。



収容所に、久々のサイレンが鳴り響いた。朝礼開始、の合図である。「重大事故」が発生して以来、調査中、という名目ですべての作業は中止されていた。訝しく思いながらKAKURIKIカクリキたちは、どやどやと運動場に集まり始めた。

何日かぶりに姿を現した現場監督のブライアンは、包帯姿も痛々しい一人の兵士を連れ、いつもの朝礼台ではない、見慣れないものの上に立っている。2mほどの高さの、四本の柱に囲まれた、正方形の空間。柱と柱の間には、それぞれ3本のロープが平行に張られている。KAKURIKIカクリキたちにとっては初めて見るものであったが、それは美帝国軍式格闘術、「スパーラ」の闘場(リング)であった。

「ミンナサァン。」

マイクのハウリングが、キィンと耳障りに響く。

「ミンナサァン、ゴ存ジダト思イマァスガァ。」

いつも通りの、流暢なイヅルノ国語でブライアンは話を進める。

「先日、コノ収容所デェ、ミンナサァンノオ友ダチガ二人モ亡クナルトイウ、トテモトテモ痛マシイ事故ガ、起キテシマイマシータ。現場監督トシテ、トテモトテモ残念ニ思イマース。」

ブライアンは自分の言葉の効果を計るように、しばらくタメを作り、KAKURIKIカクリキたちを見回す。

「我々ハ、一緒ニイタコノレフトマン君カラ、事情ヲ聞キマチタ。コノヨウニ、レフトマン君モカワイソーナ怪我ヲシテシマッテイマス。」

隣に立ったレフトマンの方へブライアンがカツカツと歩み寄る。思わず身体を硬直させたレフトマンを、イタイ?イタイ?とブライアンが撫でさする。

あの日。夜空の星となったはずのレフトマンは、半日近く空を舞った後、奇跡的に収容所の敷地内に着地。全身に怪我を負ってはいたものの、幸運にも、その命に別状はなかった。

この数日は、レフトマンの回復を待ち、事情を聞き出すための時間だったのである。

だが、それは本当に彼にとっての幸運であったのか。

ブライアンとともに闘場(リング)に上げられている時点で、これから「ペナルティ」が自分に与えられることを、レフトマンは既に察していた。

ブライアンは覚めた青い眼でレフトマンを見下ろすと、突然ドスッとボディ・ブローを入れた。レフトがうっ!と呻いて前のめりになる。その姿には一瞥もくれず、ブライアンはKAKURIKIカクリキたちの方に向き直った。

「ミンナサァン。ミンナサァンハ、我々ニ対シテ、大キナ誤解持ッテイラッシャルヨウデース。我々ハ、ミンナサァントモット、仲良シニナリタァイ。ヨッテ本日ハ特別ニ、ミンナサァントノ交流レクリエーション大会、スポーツン大会ヲ開催シタイト思イマァス。」

ブライアンが再び、KAKURIKIカクリキたちを見回す。彼らの表情から、およそ事情が飲み込めたであろう事を確認すると、ブライアンはついに本題に入った。

「本当ハミンナサァンノ使ウDOHYOUドヒョウトイウノヲゴ用意シタカッタノデスーガ。作リ方ガワカラナカッタモノデ。コノ、闘場(リング)デゴヨシャクダチイ。マズハミンナサァン、コノ、レフトマン君ト仲直リヲシテイタダキタァイ。レフトマン君ト喧嘩シタ子、正直ニ出テキナサァイ。先生、怒ラナイカラ。」

ブライアンの台詞には、明らかな挑発が込められていた。恐らくその意図は、見せしめのためにこの場で私刑(リンチ)を加えるつもりなのだろう。なんらかの罠とみてまず、間違いない。

フン、と笑って前に出ようとしたコイノボリの背後から、ぬっ、とカシハモチがその姿を現した。

「おい。ご指名は俺のようだぜ?」

後ろから声をかけるコイノボリにカシハモチはスッ、と頭を下げると、相手は手負い、SEXITセキートが相手をなさるほどの者ではありません、とそのまま闘場(リング)に向かって行った。


カシハモチはその図体からは想像もできないような身軽さでロープを飛び越え、闘場(リング)に立った。感触を確かめるように、ギッ、と背中をロープに預けたその姿は、とても初めてとは思えないほどサマになっている。

対する、レフトマン。顔には緊張の色が見られるが、タッ、タッ、とリズムをとりながらフット・ワークを確かめているその姿には迷いはなく、手練れであることを容易に想像させる。

彼の負った傷は、当然ながら、全快にはまだ程遠い状態にあった。全身、あちこちの骨にヒビが入っている。わかっている。これは醜脂(デブ)に遅れをとった自分に対する「ペナルティ」なのだ。後に控えるブライアンの露払い。しかし、やるしかない。コイツら醜脂(デブ)が常識の通じない怪物(モンスター)であることは既に十分、理解している。だが、ここで再び敗れるような事があれば、ブライアンは自分を生かしてはおかないだろう。

生き延びるための、ラスト・チャンス。レフトマンに選択肢はなかった。

カシハモチは、冷静にレフトマンを観察していた。手負いではあるが、その盛り上がった全身の筋肉。先ほどの動きから、容易ならざる相手、そして、未知の格闘術。

両手に着けているのは、防具か、武器か。どちらにしろ、拳による打撃が主体の格闘技―。

両者がリング中央で向かい合う。時間いっぱい。リングサイドに陣取ったブライアンが、ついに試合開始の一点鐘(ゴング)を鳴らした。


開始と同時に、レフトマンは全速力で突っ込んできた。奇襲。自分は手負いである。試合が長引けば長引くほど、不利になる。ならば、不意の一撃で決めるしかない。その作戦は見事に成功し、とりあえず相手の様子を見ようとしていたカシハモチからクリーン・ヒットを奪った。

エッ。何が怒ったのかわからないまま、レフトマンは空を仰いでいる。

ホワット・ハップン。自分の拳は、確実に相手の顔面を捉えたはずである。

「打撃技はその攻撃のベクトルとは反対方向に、必ず反作用が生じます。」

トコツネの説明が、ショウキチの脳裏で再生される。

レフトマンはショウキチとは比べものにならない手練れであったが、杉の樹と対峙したショウキチと同じことが、レフトマンにも起こっていた。

跳ね起きたレフトマンは、泣きそうな顔でブライアンのいるリングサイドを伺う。その見下すような冷たい視線を見て、彼は慌ててカシハモチに殴りかかった。

めきっ。カシハモチのTEPPOOテポオが、レフトマンの右肩を撃ち抜いていた。彼はここまでのレフトマンの動きから、彼の庇っている箇所、即ち、負傷箇所を正確に見抜いていた。

右膝。左肋骨。次々と、狙い済ましたかのようにレフトマンの身体が破壊されていく。

こと、戦闘に関しては容赦がないと有名なゴガツHEYAヘイヤ。その中にあって、殺人コンピュータの異名をとるカシハモチの、正確極まりない攻撃であった。

「こいつは面白い技でな。使う奴によって、機関銃にも、バズーカ砲にも…」

「彼のはさしずめ、狙い撃つライフル銃、といったところですね。」

ショウキチが思い浮かべたコイノボリの言葉に続けるように、トコツネが呟いた。

とどめの一撃は、先ほどブライアンが入れたボディ・ブローとぴったり同じ箇所に撃ち込まれた。カシハモチはそのまま腕を振り抜き、レフトマンをリングサイド、ブライアンの目の前に叩き落とす。

待たせたな、上がれよ。そう言うように、カシハモチが顎をしゃくる。ブライアンはその口元に残虐な笑みを浮かべると、レフトマンの顔を踏み潰しつつ立ち上がり、闘場(リング)に上った。


カシハモチと、ブライアンが向かい合っている。体格は、カシハモチの方が勝る。しかし、ブライアンはその、均整のとれた筋肉ボディ。なにより、指揮官の威厳がそうさせるのか、KAKURIKIカクリキを前にしても物怖じしない堂々とした態度が、カシハモチと並べてもまるで見劣りせずに見えた。

カシハモチは、先ほどと同じように、まずは動かず相手の出方を見る。対照的に、ブライアンは脚を細かく使い、小刻みなステップを踏みながら、カシハモチの周りを囲うように積極的に動き回っている。KAKURIKIカクリキたちの間では、このような相手の周りを回るような動きは、格下の者が格上の相手に臆してとる動きだと言われていた。なんだ。見かけ倒しか…。試合を見守るKAKURIKIカクリキたちの多くがそう思ったその時、奇妙なことが闘場(リング)の中で起きた。

なんでもない、ただ、当てるだけの、軽く撫でるようなパンチ。それが、ぱすん、と気の抜けたような音を立てて、カシハモチの顔面を捉えていた。

何だ?カシハモチを含む、その場にいる美帝国兵以外の全員が、この恐ろしい事態を正確に把握出来ていなかった。それは、地獄のような処刑の始まりだったのだ。

ブライアンは細かく動き回り、2発、3発、4発と同じような軽いパンチをカシハモチに当てていった。あの冷静なカシハモチが、明らかに戸惑っている。相手の意図が見えないのだ。

パンチは当たってはいる。だが、当たっているだけだ。こンなパンチでは、何万発当てようが、KAKURIKIカクリキはおろか虫さえ殺せない。挑発、か。それとも…?カシハモチは、相手の持つ未知の技術を警戒し、守りに入った。

最初に異変に気づいたのは、トコツネであった。彼の眼鏡はひび割れたままであったが、その慧眼に狂いはなく。今、闘場(リング)で起きている事態の異常さを誰より正確に見抜き始めていた。

いくらなんでも、おかしい。当たってもなんの問題もないような軽いパンチとはいえ、あのカシハモチが、まるで無防備にパンチをもらい続けている。反撃はおろか、避けたり、防いだりする動きがまったく見られないのである。まるで、ブライアンの動きが見えていないかのような。そう、ブライアンの攻撃に、カシハモチはまるで反応できていないのだ。

それは、あり得ないことであった。先ほどのレフトマンとの試合を見てもわかるように、カシハモチはゴガツHEYAヘイヤの中でもコイノボリに次ぐと言われる手練れ。男色家だというその性癖からアラカワを筆頭に揶揄する者も多くいたが、その実力は本物である。そのカシハモチが、これほど一方的に、なにも出来ずに殴られ続けるなど、考えられなかった。

ブライアンのフット・ワークはカシハモチの死角から死角へ、間接の可動範囲外から可動範囲外へ。常に安全圏に移動しながら攻撃を繰り返していた。ヒット・エンド・ラン。カシハモチの体格・スピード、それらから計算した彼の反撃可能な範囲を完全に把握した、恐るべき高等技術である。あまりにもさりげなく、当たり前のように使われていたため、誰にも気づかれなかったのだ。

カシハモチには当然、ブライアンの姿が見えていない訳ではない。しかし、反撃や回避、防御などの行動をとろうとすると、一瞬のうちにブライアンは移動し、まったく逆の無防備な箇所に攻撃を与えてくる。カシハモチが自分が追い詰められている、と気づいた時には、既に彼は取り返しのつかないダメージを負ってしまっていた。

カシハモチの身体に、異常が起きていた。息が、苦しい。両目が霞んでいる。耳も、先ほどから耳鳴りが止まない。思考が、まとまらなくなってきている。

ブライアンのパンチは軽いように見えて、カシハモチの眼や耳、鼻、口といった、人間の顔面に存在する呼吸器・感覚器を正確に攻撃していた。人体の重要機関であるそれらはとても鋭敏に出来ており、僅かな外傷でも、その機能に多大な支障をきたす。まさしく、効果がでるまで「何万発でも」浴びせて敵を倒す、恐怖のパンチであった。

今やカシハモチは、視覚・聴覚を奪われ、更には最大の武器である冷静な分析力さえも奪われつつある。

達磨(サンドバッグ)、一丁、アガリ。ブライアンは「お楽しみタイム」の訪れに、思わず舌舐めずりした。


地獄が始まった。カシハモチの動きを完全に制したブライアは、間合いを詰めると矢継ぎ早にカシハモチの顔面に向けて連打を浴びせる。時折繰り出されるカシハモチのTEPPOOテポオによる反撃を、オー、危険ガデンジャー、エスケープエスケープ!とバカにしながらかわし、すかさずカウンター・パンチを浴びせる。

暗い険が常にありながらも端正だったカシハモチの顔が、あっという間にずくずくの血達磨に変わっていく。その様は、正しく彼の言う通り、サンド・バッグ以外の何物でもなかった。

ブライアンは、明らかに意図して試合を長引かせていた。もはや試合の結果は決まっていた。やろうと思えば、いつでもカシハモチを倒して試合を終わらせられるはずであるのに、いつまでも殴り続けている。

否。これは最初から試合などではなく、生意気にも美帝国に逆らった愚かな醜脂(デブ)に対する処刑なのである。簡単に終わらせようはずもない。

カシハモチが繰り出した最後のTEPPOOテポオ、それに合わせたアッパー・カットが、カシハモチの巨体を浮き上がらせた。そのまま彼の巨体は半回転し、闘場(リング)の外、コイノボリの目の前に轟音を立てて落ちた。そのフィニッシュは正しく、先ほどレフトマンがカシハモチにやられたことの意趣返しであった。


「フー、イイ汗カイタゼ。」

闘場(リング)の上で、ブライアンは余裕綽々。ゆっくりと肩や首を回している。

恐ろしいことに、彼は汗をかいてこそいたが、あれだけ動き続けてまったく息が上がっていない。その言葉通り、今の試合は「ちょっとした運動」程度のものでしかなかったのだ。

ブライアンが、コイノボリにウィンクをし、カマン、色男(ハンサム)。と中指を立てる。怒りの形相を浮かべたコイノボリの前に、ウンリュウが立ち塞がった。

「俺が行く。」

ウンリュウが背中を向ける。その肩を、コイノボリが掴んで止めた。本来、SEXITセキートであるコイノボリとはいえ、Oral‐SEXitオーゼキのウンリュウに対しては絶対に許されない無礼である。

「Oral‐SEXitオーゼキ。」

コイノボリの目に、迷いは一切見られなかった。

「ゴガツHEYAヘイヤの不始末は、ゴガツHEYAヘイヤが付けます。」

す、と、コイノボリが一歩、歩を進める。

敵の狙いは間違いなくコイノボリである。今の試合そのものが、コイノボリに対する執拗な挑発であった。ならばみすみす、コイノボリを行かせてはいけない。奴は恐らく、コイノボリにも勝てる手を用意している。

自分が行くべきだ。だが、ウンリュウはコイノボリの気持ちを汲んだ。Oral‐SEXitオーゼキである自分に逆らう覚悟、並々ならぬものであることは間違いない。

「易く勝てる相手ではないぞ、コイノボリ。」

ウンリュウの声を背中に受け、コイノボリはごっつぁんです、Oral‐SEXitオーゼキ。と答えた。


試合は、一方的に終わった。先の試合の展開をなぞるように、コイノボリはブライアンのパンチを顔面に受け続けた。

その闘志は衰えることがなかったが、動きは次第に明らかに鈍っていく。やがてコイノボリは、カシハモチと同じようにただ、殴り続けられるだけになっていった。

憧れのコイノボリの美しい顔が、どんどん血塗れになり潰されていく。それはショウキチにとって、とても見るに耐えないものであった。俯き、しゃっくり上げて泣いているショウキチの頭を、アラカワがぐい、と持ち上げる。

「目を逸らすんじゃねえ。見届けるんだ。SEXITセキートの目はまだ、死んでねえぞ。」

アラカワの言うとおり、殴り続けられながらも、コイノボリは決してブライアンから目を離さなかった。気ニ入ラネエ。ブライアンは舌打ちをする。試合は自分が圧倒的に有利。もはや、逆転される要素などない。

「(ダガ、コイツ。)」

コイノボリがブライアンを見る目は、未だ闘志を湛え、決して試合を諦めていなかった。

「(潰シテヤル。)」

思えば、最初からブライアンはコイノボリのことが気に入らなかった。醜脂(デブ)狩りに逆らった当事者のくせに、怯えるどころか、飄々と日々を暮らしている。コイツのせいで、この現場監督にして指揮官のブライアン自ら、乙寮の巡回などという、くだらない任務を毎日やらされるハメになったのだ。

色男(ハンサム)ブリヤガッテ。二度ト「立テナク」シテヤル。

ブライアンがそれまでの完璧な攻撃パターンを初めて崩し、ロー・ブロー。即ち、男性にとって最大の急所へのフィニッシュに移ろうとした、まさにその刹那。

ブライアンの顔のすぐ横を、とてつもない速さの物体が駆け抜けていった。

思わず振り返ると、闘場リングの鉄柱の頭がが一本、根本か吹き飛び、粉々に碎けている。コイノボリのTEPPOOテポオが、この試合で初めて炸裂したのだ。

「チ、少しばっかし右過ぎたか。」

血塗れの顔で、コイノボリがニッと笑う。

「(コイツ!?)」

ブライアンはようやく気づいた。先ほどのカシハモチとの試合。彼は劇的なフィニッシュの演出を行うために、とどめの一撃の際にだけ、唯一攻撃パターンを崩した。その時に生まれる、ワン・チャンス。それを見抜いたコイノボリは、殴られ続けるふりをしながら体力を温存し、逆に一撃を狙い続けていたのだ。踊らされていた。ブライアンの背に、冷たいものが走る。

「無駄じゃなかったんだよ、カシハモチの試合はな。あんたの最大の弱点を、俺に見せてくれた。」

ずい、と前に出てくるコイノボリに、ブライアンは思わず後ずさり、背中に当たったコーナー・ポストの感触に、自分が今、闘場(リング)(コーナー)にいることをようやく思い出した。すべては、コイノボリの計算の内。

「終わりだぜ、あんた。」

コイノボリのTEPPOOテポオがブライアンの顔を真っ正面から捉え、ブライアンの身体が風を切る音を立てすっ飛んでいく。

試合は、一方的に終わった。



コイノボリが、闘場(リング)から降りてくる。

闘いは、終わった。一発逆転を狙うための擬態(ブラフ)とはいえ、殴られ続けたダメージはさすがに大きく。その足許が僅かにふらついている。

誰よりも速く、涙で顔をぐしゃぐしゃにしたショウキチが駆け寄ってきた。心配をかけちまったかな。少し

罰が悪そうに、コイノボリが右手を挙げて迎える。よぉ。いつものように、コイノボリが口を開いた、その瞬間だった。

ガァン。一発の銃声が、運動場に響き渡った。一斉に振り返ったKAKURIKIカクリキたちの視線の先で、ガタガタ震えながらようやく立っているブライアンの構えた拳銃から、白い煙が立ち上っている。

ひ、ひひ!ひひひひひっ!狂ったように、ブライアンが悲鳴とも、笑い声ともつかない叫びを上げた。

ショウキチは、目の前にあるものが信じられなかった。無敵と信じていた、コイノボリ。それが、眉間をたった一発の銃弾に撃ち抜かれ、声も立てずにあっさりと、殺された。

目を見開き、突っ立ったまま、コイノボリは動かない。

目の前で、愛が死んでいた。ちょっとずつ、ちょっとずつ、近づいていきたかった。その目標は、一瞬のうちに手の届かない遠くまで行ってしまった。

「あ。」

「あああああ。」

「ああ、ああ。」

言葉が、出てこない。膝が、自分のものではないように、ガクガクと震えている。

「貴様ァッ!!」

止める間もなく、カシハモチが駆け出していた。へたりこんだブライアンには既に、逃げる体力すら残っていない。コイノボリの一撃をモロにくらって、死んでいないこと自体が既に奇跡なのだ。

ひーぃっ!とブライアンの最後の悲鳴が響き渡り、ぐしゃ、と彼の頭がトマトのように踏み潰される音が響いた。

思い沈黙が、全てを支配する。


「ファーッ!ッデムッ!」

美帝国兵士の一人が叫んだ。指揮官が、醜脂(デブ)に殺された。その事実に、ようやく頭が追い付いたのだ。

兵士たちが、一斉に銃を抜く。

「やンのか、コラァーッ!」

アラカワの叫びとともに、KAKURIKIカクリキたちも、一斉に構えを作った。

双方が駆け寄り、まさに殺し合いが始まらんとしたその時。

「ストォォォォォーップ!スットォォォォォォップ!!」

その中心、コイノボリの遺体の前から、聞き慣れない言葉の叫びが上がった。まず、美帝国の兵士たちがぎょっとして動きを止めた。ストップ。それは、彼らの母国の言葉であり、「止まれ」という意味である。次いで、声を発しているのがショウキチであることを認めたKAKURIKIカクリキたちが、動きを止める。

動く者のなくなった運動場のなかで、ショウキチだけがストップ、ストップと叫び続けていた。

運動場の一角、美帝国兵士たちのいる方向から、どよめきが上がった。兵士たちを掻き分けて、初老の男性がショウキチに近づいてくる。

収容所所長、元美帝国海軍司令・グリッドマン。

騒ぎを聞き付けて司令室から飛び出して来た彼は、この状況をたった一人で止めた少年の前に歩み寄った。

「数々のご無礼を、どうかお許しください。」

グリッドマンの口から、驚いたことに、正確なイヅルノ国語で謝罪の言葉が伝えられる。

自分の前に敵の最高責任者が跪く様を、ショウキチはただ呆然と見つめていた。

















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