恋の章
虫の声が、深々と続いている。
秋色の風が感じられるようになったある日の夕暮れ。
ショウキチは九そ《くそ》組房を脱け出し、あてもなく歩いていた。
この収容所に来て、二週間が経つ。ここでの生活にもなんのかんので慣れてきた。しかし。
夜、就寝時間の窮屈さだけは、いまだに受け入れることができない。
ただでさえ狭い房の中に、ショウキチがさらに増えて、巨体の男が五人。ウンリュウの畳が場所とるため、さらにスペースが圧迫されている。
その上、マルゲリーが時おり屁を垂れる。くっせえ!と叫んだアラカワが2秒後には豪快なイビキをかき始める。
寝られたものではない。
アラカワには寝るのもテメーの仕事のうちだ!おとなしく寝てやがれ!とどやされるものの、トイレです、と言っては数時間に一度、このように散歩をして身体を伸ばすのがショウキチの日課となっていた。
本来、当然ながら房の扉には外から鍵がかかっているはずである。しかし、そんなものはとっくに、収容初日の夜中、便所に起きたウンリュウが寝ぼけて無造作にドアノブを回しただけで、鍵がかかっていることにすら気づかれずに破壊されてしまった。
そもそもからして、彼らKAKURIKIを完全に閉じ込めておける施設などこの世には存在しないのだ。
その日。ショウキチは、不思議な物を視界の中に認め、普段あまり近づくことのない乙寮のエリアへと足を向けていた。
この収容所には甲寮と乙寮、二つの生活棟があり。
それぞれが、運動場を挟んで向かい合っている。
作業前の朝礼時には全員が集まるのだが、作業は基本的に別班となるため、普段の交流は少ない。
特に収容所に来る以前にKAKURIKIの知り合いのいないショウキチにとってはわざわざ行く理由もなく、こちら側へ来るのは初めてのことである。
運動場を周回沿いに時計回りに歩いて行くと、乙寮の手前がちょっとした築山となっている。この施設はもともとイヅルノ国軍の訓練所だったらしく、おそらくトレーニングの際に使われたものであろう。
その丘の麓に、桜が咲いていた。
甲寮の側から、景色の中に覚えた違和感。やはりそれは、桜だったのだ。
時候は秋の頃、完全に季節外れである。気狂い桜。秋口、気温や湿度の条件があうと、春と勘違いした桜が花を咲かせることがある。この殺風景な施設の中にあって、華やかに堂々とそびえる桜の巨木はあまりにも場違いで、異様なものに見えた。
ふらふらと惹かれるように桜に歩み寄ったショウキチは、そこからばしん、ばしん、と音の響いてくることに気づいた。
桜の下に、一人の若いKAKURIKIがいる。その男が、桜の幹を叩いているのだ。
ばしん、ばしん、と小気味良い、リズミカルな響き。その顔が見えるところまで近づいたとき、ショウキチは「あっ。」と思わず声を上げた。
男が動きを止め、振り返える。爽やかなその顔には、見覚えがあった。
闇市場。あの日。バイクマンから助け出してくれた、あのKAKURIKI。そう、ここに連れてこられた時に別れて以来、今日まで顔を合わす事はなかったが。乙寮にいたのか。
「よお。」
若いKAKURIKIが気さくに語りかけてきた。
ショウキチは例によって「あ、あの。あの。」と口ごもってしまう。
「ぼ、ぼくは、ぼくは。」
言いたい事はたくさんあったのだが、いつものセリフしか出てこない。
KAKURIKIはフッと微笑むと、「ショウキチ君、だろ。」と続けた。
「覚えて…いてくれたんですか。」
何故だろう。ショウキチはたまらなく嬉しくなって、パッと顔を輝かせる。
「そりゃあ…」
あんだけ自己紹介されりゃあ、な。ちょっと困ったように、男は苦笑するのだった。
「ゴガツHEYAの、コイノボリってんだ。」
若い男は自己紹介すると、「一応、SEXITだぜ。」と付け加えた。
「あ、あの。」
とりあえず助けてもらった礼を言おうとしたショウキチは、出鼻をくじかれる形で黙ってしまう。
SEXIT。ここでの短い生活の中でも、それが敬意を持って接するべき対象であり、KAKURIKIたちにとっての絶対ルールであることはショウキチにも理解できていた。同室であるウンリュウには、おいそれと話しかけることすら許されない雰囲気さえある。
「どうした?」
俯いて黙ってしまったショウキチに、コイノボリが優しく促すように言った。その、あの、と言葉がなかなか出てこないショウキチを、彼は面白そうに見守っている。
「おめっ、おめ!…オケ、イコ、ですか?」
ようやく出た言葉は、実にあたりさわりのないものだった。コイノボリは一瞬キョトンとしていたが、合点がいったのだろう。ああ、これ?と言いながら、ばしん、と先ほどのように桜の幹を叩いてみせた。
「TEPPOOってんだ。見たこと、ないか?」
ショウキチの顔が途端に暗くなる。
ここに来てから、何かをするたびに嫌になるほど言われた。なんだ、こんなことも知らないのか。こんなことも出来ないのか。その度に、ぼくは悪くないのに!と思うと同時に、自分はなにもできないダメなヤツなんだ、と思うようになっていた。自分はなにもしないほうがいいんだ。どうせ、怒られる。やっぱり、そうなんだ。
急にしょげてしまったショウキチを前に、コイノボリは困った顔をしていた。よくわからんが。自分の言葉が、なにかこの子を傷つけてしまったようだ。
「ま…、知らねえってことも、そりゃあ、あるよなあ。」
とりあえず自分を納得させるようにうんうんと頷き、ばしーん、とまた、桜の幹を叩く。
ショウキチが顔を上げた。
「TEPPOO。ピンとこねえか…。」
んー、と顎に人差し指を当てて考え込んでいたコイノボリは、やおら人差し指と親指でピストルを作り、バアーン!と撃つ仕草をしてみせた。
「こいつはな、遠くから、ぶち抜く。距離がある相手をぶっ倒す技なんだ。」
説明しながら、ばしん、ばしん、とリズミカルに桜の幹を叩く。そのスピードが、徐々に速くなっていく。
「こいつは面白い技でな。使う奴によって、機関銃だったり、バズーカ砲、ミサイルにだってなる。」
ばしん、ばしん、ばしん、ばしん。コイノボリのTEPPOOが速くなるに連れ、ショウキチは心臓の鼓動がどんどん速さを増しているのを感じた。
「俺のは、さしずめ…。」
フッと手を止め、コイノボリが大きく構えた次の刹那。
ドォン。と今までとはまるで異なる音が響き、巨木が揺れた。サァッ、と音を立てて、一斉に桜の花びらが散る。
「マグナム…って、とこだな。」
季節外れの桜吹雪のなか、輝くようなコイノボリの背中が真っ直ぐに立っている。力のこもった腕、脚、背筋。すべてが美しかった。
ショウキチは、「見惚れる」という言葉の意味をはじめて理解した気がした。
どのくらい、そうしていた事だろう。
コイノボリがばしん、ばしん、とTEPPOOを繰り返すのを、ショウキチはずっと見つめ続けていた。
ひとつ、ひとつ、TEPPOOが放たれる度に、ばしん、ばしん、と心に響く。まるで、ショウキチのハートを射抜いているかのように。
ずっとこのまま、そばで見続けていたかった。だが、どんなものにも終わりが来る。
「SEXIT。」
突然入ってきた第三者の声に驚いて視線を向けると、いつの間にかコイノボリを挟んでちょうど反対側に、影のような男が立っていた。
この男も見覚えがある。闇市場の一件で、コイノボリを撃とうとしたバイクマンを一瞬で投げ飛ばした、あのKAKURIKIだ。
「おぅ、カシハモチ。」
もう、時間か。コイノボリが応える。
「悪いな、こっちの棟は見廻りに来んだ、ウルセーのが。」
コイノボリが片目を瞑り、困ったモンだぜ。と笑ってみせた。
コイノボリ、及びそのTUKEBITOであるカシハモチは件のバイクマン襲撃事件の当事者であり、短時間とはいえ脱走もしている。所長であるグリッドマンは彼らをOral‐SEXitであるウンリュウ以上に警戒しており、現場監督のブライアンに直々に命じ、常にその行動を監視させていた。この独りOKEIKOの時間は、コイノボリにとっては唯一の息抜きの時間であるとも言える。
「またな。」
お前も早く房に戻れよ、と付け加え、右手を挙げながらコイノボリは去って行った。
その後に影のように付き従うカシハモチが帰り際にショウキチを一瞥したその目に、僅かな嫉妬の炎が燃えていたことをショウキチはまだ気づいていなかった。
それからの日々は、ショウキチにとって夢の中のような。
この収容所にいた僅かな期間の中で、最高に幸せだった時期であった。
朝、起きてから、一日中コイノボリことばかり考えている。
OKEIKOしていても、作業をしていても、コイノボリの優しい笑顔が、美しい背中が、頭から離れない。
夕刻になるのが、待ち遠しくてしかたない。コイノボリに早く会いたくて、心がウキウキ、ソワソワする。
コイノボリに会ってから、ショウキチは変わった。以前は常に暗い表情で、誰に対しても従順ながらどこか反抗的な、敵意のこもった態度をとることの多かったショウキチが、よく笑うようになった。気持ちにそれだけ余裕ができたのだ。
ちょっと前までは、暇さえあれば自分が置かれている環境の理不尽さを呪い、自分の運のなさを嘆いていた。だが、今はもう、コイノボリのこと以外は正直どうでもいい。
相変わらずアラカワにはよく怒鳴り付けられた。いつも縮み上がって固まってしまうか、そうでなければ不満げな顔で睨み付けてくるかしていたショウキチが、ある日から突然ハイッと快活に返事を返すようになったのを見て、当初アラカワは気味悪がって「マルゲリーの野郎の変なCHINKOを食いすぎてバカが伝染ったんじゃねーだろうな。」と心配したが、次第に良い方向への変化として受け入れるようになっていった。
少しずつではあるが自分たちKAKURIKIとの生活に馴染み始めたショウキチを見て、ウンリュウだけがショウキチに何らかの影響を与えている者の存在のあることを察し、難しい顔をしていた。
いつもの時間に、あの桜の元で待っていれば、丘を越えてコイノボリがやってくる。そこに通うことが、ショウキチの新たな日課となった。
彼はいつもショウキチの姿を認めると、おう、来てんな。とにこやかに声をかけ、TEPPOOのOKEIKOを始める。ショウキチはその姿を毎日飽きもせず、穴が空くほど眺めていたが、この奇妙なSEXitはそれを特に咎めることもなかった。
一度だけ、コイノボリが「やってみたいか?」と聞いたことがあった。ショウキチは慌ててブンブンと頭を振る。その様子から「(ああ、やってみたいんだな。)」と察したコイノボリは、「どうした、ウンリュウ‐SEXitに叱られるか?」と言葉を続けたが。
「だだ、だって。勝手な運動は、ここの規則違反、だって。」
まったく予想外の返答にコイノボリの理解が一瞬遅れ、一瞬の後に堰を切ったように大笑いする。たしかに、「美容と健康のための体質改善運動の時間」以外の勝手な運動は本来、収容所の規則に違反していた。だが、そんな規則など彼らはハナから守る気などない。HEYAにいた時の生活習慣そのままに、勝手に早起きしては朝のOKEIKOを行い、昼食後には勝手にOHIRUNEをしている。そんなことを気にした人間はショウキチが初めてだった。
ショウキチが泣きそうな顔をしていることに気づき、「あ、いや、悪ぃ。」と謝りつつも、コイノボリは「本当、変わった奴だなァお前。」と感心したように、改めてショウキチをまじまじと見回しながら言った。
「美帝国が、怖いか…いや。違うな。決められた規則に違反する、それが怖いのか。」
鋭い指摘だった。そう、ショウキチは、こんな異常な状況にあってさえも、「規則に反する」ことは悪であり、やってはいけないことなのだという正常な感覚をまだ持ち続けているのだ。その事が、破天荒なKAKURIKIたちと彼との間に未だに壁を作り、心を完全に許すことが出来ないでいる。
「ひょっとしたらお前は…俺たちの誰より心が強いのかもしれないな。」
真顔で言うコイノボリ言葉を、ショウキチは不思議そうな顔で聞いていた。
ある日の作業終了後。それぞれの房に撤収していくKAKURIKIたちの中に、ショウキチはカシハモチの姿を見つけた。
あの人がいると言うことは、コイノボリ‐SEXitも。そう思ってその姿を探していると、カシハモチと目があった。
「あっ。」
カシハモチがこちらに向かって来る。本能的に危険を察したが、身体はそこに立ち竦んでしまっていた。
「お前…。」
冷たい、斬りつけるような言葉を、彼はショウキチに投げかけてきた。
「SEXITに付きまとうのはやめろ。目障りだ。」
SEXITだって本当は迷惑で…と言いかけたところで、あーっ!こんなところに居やがった!!というアラカワの怒声がそれを遮った。
「ったくオメーは!いったいどっちに帰る気なんだ、オラ!さっさと戻んぞ!」
ズカズカと寄って来るアラカワたち三人の姿を認め、チッ!と舌打ちすると、カシハモチは背を向け、乙寮へ戻る集団の中へ消えていった。
「ゴガツHEYAのカシハモチじゃねえか。なんだ、お前。あんな奴に絡まれてんのか。」
よく絡まれる奴だな、とアラカワが呆れたような声を上げる。
「気をつけろよぉ。アイツ、コレだってウワサだから。」
右手を頬に当て、しなしなとポーズを作るアラカワ。マルゲリーが、オニハソト、ホモハモチ!と豆を撒く仕草でカシハモチを追い払う真似をする。
「あの。」
ショウキチが口を開いた。
「人を好きになるの、って、そんなにおかしいこと、なんでしょうか。」
「ハァ!?」
予想外に真面目な口調の返答に、アラカワが目を丸くする。
「おいおい、お前も男が好き、なんて言うんじゃねーだろうな。」
口元をひきつらせながら聞いてくるアラカワに、ショウキチはあ、いえ、そういう、わけでは。と言葉少なに答える。
「勘弁しろよぉ…」頭を抱えるアラカワに、ぼそっ、とショウキチが呟いた。
「…あの人も、コイノボリ‐SEXitが好きなんですね。」
「あの人 、『も』ぉ!?」
的確すぎるアラカワのツッコミに、ショウキチは自分が言った言葉の意味に気がつき、耳まで真っ赤になった。
その日もショウキチは、いつも通り桜の丘でコイノボリを待っていた。もう少し待てば、丘を越えてあの人がやって来る。いつものように、よぉ、来てんな。と右手を挙げて笑ってくれる。
ショウキチは脳裏にコイノボリの美しい背筋の盛り上がりを思い浮かばせ、頬を思わず赤らめた。
だが、その日、声は思いがけない方向から聴こえてきた。
「ヨーォ、プリティピグレットチャァン。ナイトのロンリープレイハ、ペナルティダーゼ?」
ガムの咀嚼音。軍靴の足音。嫌でも、あの夜の事がフラッシュバックする。
ハッ、と我にかえって振り返ると、三人組の美帝国兵士がニヤニヤ笑いながら近づいて来た。ショウキチの顔に絶望の色が浮かぶ。
彼らは初日の作業の折り、ショウキチを囃し立てていた、あの三人組であった。割って入ったアラカワの迫力と、その場の雰囲気に流されて放置していたが、本来なら明確な反抗の意思を見せたショウキチは彼らの言う「ペナルティ」の対象である。
そして何より、ショウキチは彼らの自尊心酷くを傷つけていた。見下すべき対象の醜脂相手に、目の前で好き勝手させたまま、おとなしく引き下がってしまった。そのままでいることは、世界でもっとも美しく、気高い戦士である彼らのプライドが絶対に許さない。さらに、上司である現場監督のブライアンも絶対に許してはくれないだろう。
彼らは一番弱そうなショウキチが一人になるチャンス、復讐の好機をずっと窺っていたのだ。
「あ、あの。すいませ」
最後まで言わせてはもらえない。突然、殴られた。ぐちゃ、とショウキチの鼻が潰れ、メリッと顔面にめり込んだ拳が抜かれると同時にねっとりとした鼻血が噴き出す。
ショウキチは何故息が出来ないのかすら理解できずに、その場にへたりこんだ。
「オイオイ、カワイコチャンヲアンマリチョックスルナヨ。コレカラガアミューズナンダゼ、ドエスヤロー。」
hahahahahahaha。三人組が下品に笑う。
ショウキチは恐怖のあまりガクガクと震え、失禁していた。
「オー!モーレーツ!」
美帝国兵たちはショウキチの股間に水溜まりが拡がっていることに気がつき、ゲラゲラ笑いながらシーシ、シーシ、ア・モーレ、ア・モーレと手を叩いて囃し立てる。
「コレハキケンガデンジャラス、クイックリィチェンジ・パンパースガユーマストネー!」
空気が変わった。三人の兵士が三人とも、下卑た笑いをうかべている。二人がショウキチの脇に腕を差し入れて立たせ、もう一人はいきなりショウキチのガウンを巻くりあげ、尻を露出させる。
「ヒューッウ!」
という歓声が響く。ショウキチは自分が何をされようとしているのかを理解し、必死に暴れ出した。しかし、その身体は両脇から屈強な兵士2名によって押さえつけられており、身体を揺するしか出来ない。
「ンー、オイタハドントダゼ、ピグレッチャァン。」
ショウキチの尻の前に立ったドエスマンが、揺れるショウキチの尻肉をパチン、パチンと叩いている。
次の瞬間、再び、ぐしゃ、と音を立ててショウキチ顔面に右脇の兵士の拳がめり込む。ショウキチはその一撃で完全に抵抗する力を奪われてしまった。
息ができない。目の前が真っ暗で、もうなにも見えない。背後から、カチャ、カチャ、とズボンのベルトを弛める音が聴こえている。瞼の裏にコイノボリの顔が浮かんで、歪んで消えた。
大地を揺らすような轟音が鳴り響いたのは、その瞬間であった。
美帝国兵士が最初に考えたのは、敵の爆撃である。
思わず身を縮めた三人がおそるおそる顔を上げる。
意識を取り戻したショウキチも、潰された瞼の真っ赤な、狭い視界の中でそれを見た。
桜の花が一瞬にしてすべて散り、その上空に巻き上げられた花びらが僅かずつ降り落ちて来ていた。
その中心、桜の樹の元に、鬼の形相をしたコイノボリが仁王立ちしている。
「今すぐそいつから離れろ。」
コイノボリは、普段の快活な口調からは想像もつかないような冷たさで言い放った。
その冷酷な眼は殺気に満ち、いつもの優しい笑顔の面影はない。
「ホワットホワット?サプライズサセルナメーン」
ドエスマンが恐怖を誤魔化すための軽口を叩きながらもとりあえずズボンを履き直す程度の冷静さを保てたのは、ショウキチといういざとなれば人質になりうる存在があったからである。
しかし、その傲りが、この場合は彼の決定的な不幸となった。
「ユーワ、コノピグレッチャンノハズバント?」
馬鹿にした態度でコイノボリに近づいていくドエスマンは、先ほどからみし、みし、めり、めり、と鳴っている聞き慣れない音に注意を払っていなかった。
彼が一歩、コイノボリに近づく度に桜の樹が迫ってくる不思議な現象の意味を彼が理解した時、既にドエスマンの視界いっぱいに桜の巨大な幹が迫っていた。
アンビリーバブル。ドエスマンは悲鳴を上げる暇さえなく、倒れてきた桜の巨木の下敷きとなった。多くのプリティボーイズの顔面を殴り潰してきた因果であろうか。彼の身体は一瞬にして潰れ、赤い小さな水溜まりとなった。
残る二人の兵士は動けないでいる。あまりにも常識はずれの事態が目の前で起こった。あの男が、あの桜の巨木を張り倒したのだ。先ほどの、たったの一撃で。そんな、馬鹿な。
彼ら二人は持てる知識を総動員し、目の前で起きた出来事を必死で否定しようとしていた。偶然だ。桜の樹が腐っていたのだ。ちょうどタイミングよく、地震が起きたのだ。
所長のグリッドマンからは、KAKURIKIの恐ろしさについては散々聞かされていた。だが、彼らはそれをハナから信じていなかったし、ろくに聞いてもいなかった。
落ちぶれた元司令の、妄言だと思って馬鹿にしていたのだ。
つい最近、バイクマンがバイクを潰され、空を飛んだばかりだというのに。彼らはこの期に及んでまだ、目の前の相手の戦力を冷静に分析できていなかった。
「どうした?仲間の仇は討たないのか。」
コイノボリが冷酷に言い放つ。ゴガツHEYAは穏やかな雰囲気のアットホームさがウリのHEYAであるが、殺す、と決めた相手には一切の容赦をしない。温和な好青年と冷徹な殺人マシーンの二つの顔を持つこの、コイノボリ。ゴガツHEYAの最高傑作と言われる彼は、敵に冷静さを取り戻すための時間など、与えなかった。
じり、とコイノボリが一歩、近づく。先に耐えきれなくなったのは右側の兵士、ライトマンであった。
「ファーッ!デムッ!」
悲鳴に近い叫びを上げると、無謀にも彼は正面からこの怪物に殴りかかって言った。
ライトマンの不幸は、ショウキチの顔を殴ったところをコイノボリに見られていたことである。コイノボリのTEPPOOが、真っ直ぐにライトマンの顔面を撃ち抜いた。一撃、必殺。ライトマンの首は真後ろに180度回転し、そのまま二度と戻ることはなかった。即死である。
残る一人。左側にいた兵士・レフトマンには、拳銃を抜く猶予が与えられた。だが、運のないことに、敵は拳銃の弾より遥かに素早かった。
コイノボリはレフトマンが引き金を引くより早く彼を掴むと、ゴミのように放り投げた。レフトマンの身体はやがて見えなくなり、秋空に輝く星となった。
ショウキチは、わあ、わあ、といつまでも、子供のようにコイノボリの胸の中で泣き続けていた。
怖かった。ただ、ただ、恐ろしくて、なにもできなかった。悔しかった。侮辱され、まるでか弱い女性にするかのように乱暴されそうになった。そんな、情けない姿を、憧れの男に見られた。何もできずに助けてもらい、泣きじゃくっている、そんな自分が恥ずかしくてたまらなかった。コイノボリにこんな悲しそうな顔をさせている、ひたすらそれが悲しくて仕方なかった。
頭の中を、さまざまな思考、さまざまな感情がぐるぐると回り続けている。それが押さえられなくて、泣き続けるしかなかった。
コイノボリは、いつもの優しい顔に既に戻っている。だが、その表情に笑みはなく、泣き続けるショウキチをただ、悲しそうに見下ろしている。
突然、コイノボリがショウキチの両肩に手を置いた。ばし、という重い衝撃がショウキチの身体につたわる。
「よし!一番、とるか!」
涙と鼻水、それに鼻血でめちゃくちゃになった顔で、ショウキチはコイノボリを見上げる。コイノボリは真面目な顔でショウキチを押し戻す。意図がわからず、立ったままのショウキチに、コイノボリが「かかってこい!」と叫んだ。
反射的に駆け出したショウキチは、巨大な壁に跳ね返され、尻餅をついた。コイノボリはなにもしていない。ただ、立っていたでけである。
「どうした!お前はその程度の男なのか!」
立ち上がってこないショウキチに、コイノボリの厳しい言葉が飛んだ。
ショウキチは弾けるように立ち上がると、わーっと声をあげ、再びコイノボリにぶつかっていった。
何度も。何度も。ぶつかっては、弾き返され。倒れて、立ち上がり。何度も、何度もショウキチはコイノボリに挑んだ。コイノボリの胸は大きく、固く、岩のように感じた。
「どうした!弱いぞ!もっとだ!」
「そうだ!もっと全力でかかってこい!」
ショウキチが倒れる度に、コイノボリは檄を飛ばした。
何十回、何百回めの激突であろう。倒れるように飛び込んできたショウキチを、コイノボリは全力で抱き締めた。
そうだ。お前は強い。こんなに強いんだ。今度はあんな奴ら、逆にやっつけてやれ。
コイノボリの語尾が、熱い涙で震えていた。
そんな二人の姿を、影のようにじっと見つめる一人の男がいた。
カシハモチ。
ぎりっ、と食いしばった彼の歯から、一筋の血が流れた。
散った桜の花びらが、地面の泥に混じって無惨に汚れていた。