序の章
深い、闇の中。ふぅは。ふぅは。と荒い息遣いが続く。住宅街ではあるが、灯っている灯りは少ない。暗い、先も後も見えない、深い黒。
どすり。どすり。と重い身体を揺すり、途切れがちの一歩一歩はもはやそれは歩いているのか、それでも走っているつもりなのか。
既に、足はほぼ上がっていない。
僅かづつ、前に傾くようにして、進む。
逃げなくてはいけない。捕まれば、殺される。きっと、酷いことをされる。どこかへ連れていかれる。
追われている。後ろを確認することはできないが、追跡者の足音はカツ・カツと一定の距離を保ち、途切れることなく続いている。
追い付こうと思えば、すぐにでも追い付けるはずだ。
あえてそれをしないのは、捕まえる前に限界まで追い詰めるだけ追い詰めて、疲れはてたところをさらにいたぶり倒すつもりだろうか。
足音、ただそれだけで相手の残虐さ、残忍さが伝わってくる。
汗と涙と鼻水が呼吸器を塞いでいる。あひぃー、あひーぃと、かろうじて息をする毎にまぬけな音が漏れる。
こんなに身体を動かしたことはない。生まれて始めて体験する、未知の領域。生命の危機が迫っている。その一点だけが、限界をとっ
くに越えて酷使されている身体に動け、逃げろと命令し続け、思考能力を失った身体はそれに従い続けている。
端から見れば、立ち止まって荒い息をしているだけの、必死の逃亡。生き延びるための、全力の抵抗。
しかしそれも、終わりが近づいていた。
最後の一歩を踏み出した脚は、重い身体を支えてきた膝が遂にガクリと折れ、本来踏みしめるはずの大地を失った身体は宙に浮き、地響きをあげるようにどうと倒れる。
逃げなくては、いけない。だがもう、身体を起こすことができない。
なぜ、こんなことになった。数十分ほど前までは、住み慣れた自分の部屋のなか。なにひとつ変わりのない日常の中にいた。
頭が、あげられない。なにも見えない。真っ暗闇だ。瞼の裏に浮かぶ自室の灯りが、今ははるか遠いものに思える。
泣いていた。倒れたまま動けない身体をぶるぶる震わせ、身体全体で嗚咽している。
嫌だ。怖い。帰りたい。死にたくない。なんで。なんでこうなった。
その背中で、カツ・カツと追跡者の足音が無慈悲に近づいて来るのを感じる。動けない。震えて、泣いていることしかできない。
頭上に、嘲るようなガムの咀嚼音が迫った。
追跡者は顔を近づけ、嬉しそうに耳元で囁く。
「ゲェームオウバァーだぜえ。プリティなキティチャン。」
脳が逃げること、生きることを諦め。せめて苦痛を感じるまいと、意識を途切れさせる選択をした。