第六話 春の残り香
次の日の朝。いつの間に眠ってしまったのかと、薫は飛び起きた。いつもの布団に寝ていた薫は違和感を覚えた。着物の乱れさえも直さないまま急いで部屋の襖を開ける。そこには、いつも通りの綺麗な廊下があるだけだ。
「…昨日のあれは…………春薫…?」
急いで春薫の部屋へ向かう。しかしそこには春薫の愛用していた刀と少しの金銭、そして小さなお守りがあるだけだった。そこで薫は全てを悟った。もう二度と春薫には会えないのだと。何故何も言わずに姿を消したのか、何故何も言ってくれなかったのか、何も分からなかった。薫は殺風景な部屋の片隅で一人静かに泣いた。これからどうすればいいのか分からなかったのだ。
それから数日、薫の屋敷の当主が何者かに殺された、という情報が薫の耳に届いた。殺した者は闇に溶けてしまいそうな黒色の髪をしていたという。薫はすぐさま屋敷へ向かったが、そこにはかつて自分が過ごした屋敷の残骸だけが残っていた。
「春薫…。終わったなら……帰って来いよ…!」
その場で力なく座り込んだ薫は涙を流しながら小さく呟いた。
陽が傾き始めた頃、薫は静かに立ち上がる。村を出ることを決めたのだ。薫にとって、苦しい時も楽しい時も過ごしてきた自分の村は思い出が多過ぎた。自分を引き取ることなどしなければ春薫が苦労することも無かっただろう。「殺し」という居場所を変えてくれた春薫は、薫にとってとても大きな存在だった。春薫のお陰で新たに手に入れた自分の居場所はもう、何処にも無かった。
薫は立ち止まることなく歩き続けた。何日も歩き続け、漸く都に辿り着いた。その頃薫は瘦せ細り、衣類もボロボロになっていた。その為都を歩き回ると行き交う人々から奇妙な目で見られた。だがそんなこと薫にとってはどうでも良かった。そんな中、恰幅の良い女性が薫を見て駆け寄るのが、薄れていく意識の中視界の端に映っていた。
眩しい光の中、薫は目を覚ました。
「…ここは…。」
見覚えのない部屋だった。布団の傍には着ていたボロボロの服と春薫の置いて行った刀とお守りが置かれていた。襖の向こうからは人の足音が向かってくるのが聞こえる。薫は静かに布団を出ると、傍の刀を手にした。そして静かに襖に近寄る。すっと襖が開くのと同時に薫は刀を抜いた。
「おやまぁ…。」
そこには驚いた表情をした恰幅の良い女性が一人立っていた。
「やっと起きましたか。」
ハッとして刀をしまうと着物の乱れを正してその女性に向き直る。
「私はこの宿屋の女将をやっているんですよ。貴方、通りで倒れたでしょう?連れて来させてもらいましたよ。」
包み込むような優しい笑顔を向ける女性に、薫は安心した。
「あ、あの、ありがとう、ございます。」
言い慣れないその言葉は照れ臭かった。
「あ!えっと、驚かせてしまってすみません…!お、俺は薫っていいます。助けてもらって失礼を…!」
「いいんですよ、何かお有りなのでしょう。私は梢といいます。それで…薫さん、行く当ては?」
変わらぬ笑顔でそういう梢に、薫は表情を曇らせた。その様子を見て梢は薫の頭を撫でる。
「…良いですよ、無理をしなくても。当てが見つかるまでうちに居なさいな。タダで、とは言えませんけどね。」
梢の優しさは冷え切っていた薫の心を溶かしていくようだった。
それから薫は宿屋の荷運びの仕事を任されるようになり、隣の村、距離の離れた都、山奥のお寺などに荷を運んだり、頼まれた物を受け取りに行ったりと、自身に出来ることをした。必要とされることが嬉しかった。帰った時、「おかえりなさい」と声をかけてくれる温かい居場所があることが嬉しかった。訳も聞かずに置いてくれた優しさが、嬉しかったのだ。
こうして薫は新たに自分の居場所を手にしたのだった。しかし、春薫の姿を見る事はこの先二度と無かった。二度と…。