第三話 春薫の名。
小さな平屋。そこに少年、薫は居た。連れていた子供は当主の屋敷へ戻った者、逃げた者、自分の家を探しに出た者、様々だった。
「おーい、お前、ちょっと来い。」
そんな声を掛けられた薫は黙って男に近寄る。
「お前、名は?」
そんなことを聞かれ、薫は少しの間の後首を傾げた。
「なんだぁ、名がないのか、お前。」
男は考えるように口元に手をやった。しかし直ぐに腰に手を当て、眩しい笑顔を向けた。
「俺は春薫。春の薫と書いて春薫だ。ま、名なんてどうでもいいか!さ、今日もいっちょやるぞ!そら来い!」
駆け足で庭へ出ると立て掛けてあった木刀を構える。小さく頷いた薫は春薫より一回り小さく短い木刀を構えた。これは薫の体に合わせて春薫が作ったものだった。
「はじめ!!」
その掛け声を合図に薫は斬りかかる。短刀しか扱っていなかった薫にとって、重く長い刀を扱う事は容易ではなかった。それがたとえ一回り小さかったとしても。
「握りが甘い!!脇を閉めろ!!大きく振りすぎだ!間合いを考えろ!!」
稽古の時、春薫はいつも真剣だった。そう、あの時のような鋭い目で薫と向き合った。カン、という高い音を立てて薫の木刀が弾かれた。
「そこまで。」
追い詰められてしゃがみ込んだ薫の喉元に木刀を突き付けながら、ふぅ、と一呼吸置く春薫。
「大分扱いにも慣れてきてるな。ま!まぁだまだだけどな!!」
そう言う春薫はいつもの眩しい笑顔を向けた。いつしか薫の生きる意味は、春薫に認められるようになることに変わっていた。
いつものように稽古を終わらせた後だった。薫は春薫の部屋に呼ばれた。
「よぉ、来たな。」
襖を開けた正面に静かに座っている春薫を確認すると、薫は静かに春薫の正面に腰を下ろした。
「…話って?」
薫が短くそう聞くと、春薫は笑顔を向けた。
「薫。薫だ。」
薫は意味が分からず瞬きを繰り返す。
「いやぁ、どうも俺は名付けるということが向いてないらしくてなぁ…。俺の最初で最後の弟子、そんなお前にやれるもんは俺の名前くらいでな。あぁいや、嫌ならもう一度考えるから言ってくれ。」
申し訳なさそうに頭を掻く春薫に、薫は満面の笑みを浮かべた。
「かお…る…!俺の、名前…!!薫、薫…!!ありがとう春薫!一生大事にする!!!」
生まれて初めて自分に向けられた名。「お前」や番号でしか呼ばれて来なかった薫にとって、自分に意味のある名が出来たことが嬉しかった。尊敬している人に名を貰えたことが、堪らなく嬉しかったのだ。
「一生だなんて大袈裟な奴だなぁ全く!」
「本当だ!嘘じゃない!大事にしたいんだ!!」
素直に喜び、純粋な瞳をし、今までで一番の笑顔を見せる薫を見て春薫は心底安心した。
「おうおう、良い顏出来んじゃねぇか、薫。てことは…後は剣術だな。まぁだ隙だらけだからなぁ?」
意地悪く笑う春薫。薫はこんな関係が続くことを願っていた。自分自身を「人」として見てくれる初めての存在が、この先もずっと導いてくれるのだと。
「何だと…?あいつが…儂を裏切った、だと…!?お前達、本当か。」
大きな屋敷の広い部屋、数人の子供達の前で男は怪訝そうな顔をする。
「あいつが…この儂を…?今までの恩を忘れてよくもまぁ…。いいか、貴様らによく教えてやる。儂を裏切ったらどんな奴でも生かしてはおかん、とな。分かったら直ぐにあいつを探し出せ!何をしている!行かんか!行け!!」
肘掛を子供達へ向かって蹴りとばす男。そう、薫が元居た屋敷の当主であった。男は一目散に部屋から逃げて行く子供達の後ろ姿に舌打ちをした。
「所詮は小童だったか…!あの男…やはり邪魔だとは思っていたが…黒色の蝶、春薫……いずれ殺すしかないな。」
男は小さく小さく笑った。
「ったくまた来たか小童共。俺は薫をお前達に渡すつもりはない。何度も言わせるな。それにお前達もおかしいと思わないのか。このままでいいのか。」
そんな春薫の問いかけも虚しく子供達は春薫に刃を向ける。それを軽々と避けながらも春薫は問いかけ続けた。
「………仕方ない。呼ぶしかないよ、僕らにはこの人は殺せないみたいだから。」
一人の少年が手を挙げる。小さな声が聞こえたと思ったら、側の木や茂みから鎧を着た複数の兵士達が姿を現した。春薫はそれすらも見破ってはいたが。
「貴様は邪魔だ。我が主人様の為にもここで死ね!!!」
春薫は小さく口笛を吹き、兵士の一太刀を躱すとそのまま流れるように刀を抜いた。
「小童を斬る趣味はないが…お前達は別だ…!そこに居る奴らの妨げになんなら…迷いなく斬る!」
流れるような太刀捌きに皆が見惚れた。そしてー……一瞬だった。兵士達の亡骸の上に立つ男。その男に、周りで縮こまっていた子供達は恐怖した。空を見上げるその姿は儚げで、しかし黒髪の間から覗く瞳に宿る光は、力強く真っ直ぐだった。そして子供達は悟った。
あぁ、これが黒色の蝶……春薫なのだと。