受付嬢2
日がとっぷりと沈み、ヒルダは涼やかな風を肌に感じながら暗い夜道を歩いていた。薄暗い街灯に照らされ、石畳の敷かれた道は、女性一人で歩くには少し物騒な気もする。しかし、ヒルダはそんなことは気にも留めず、慣れた風にスタスタと家路を急ぐ。
「ねえ」
(ん? なんだ?)
ヒルダが不意に声を掛けて来た。
俺は、視界に広がるどこか見覚えのある街並みを眺めながら、上の空で返事をしていた。
ヒルダは真っ直ぐ進行方向を向いたまま告げる。
「あんた、いつまで私の中にいるの?」
(さあ?)
もっともな疑問だった。
しかし、その疑問に答えることは出来ない。俺自身どうやって出たらいいのかわからないのだ。というか、どうやって入ったのかさえわからないのだから仕方がない。
そんな俺の態度にヒルダが納得できるはずがなかった。
「さあってなによ! わからないんだったら、何とか出る方法を考えなさいよ!」
(そんなに怒鳴らなくてもいいだろ。夜道に声が響き渡ってるぞ?)
「うっ……(怒鳴りたくもなるわよ! ずっとこのままじゃ困るの!)」
ヒルダは本気で困っているようだ。
ここまで困ると言うことは、俺がいては困ることがあると言うことだ。俺に見られたくない、知られたくない事。それは……。
(ほほう、男か? 男と逢い引きしたいんだな。大丈夫、俺は妖精だ。気にしないからどんどんイチャついてくれて構わないぞ。ちゃんと見て見ぬ振りをしてやる)
俺はヒルダのプライベートを邪魔するほど野暮な男ではない。いや、むしろ応援してやってもいいと思っている。そうなると、相手の男がどんな男か気になるところだ。男によっては応援の方法も変わってくるからな。なんだか楽しくなって来たぞ。
「(ちっ、違うわよ! 男なんていないし。そんなことじゃないわよ!)」
(なんだ、男の一人もいないのか?)
「(う、うるさいわね! いいでしょ別に!)」
(だったらなんなんだよ。出られないものは仕方ないだろ? その内フラッと出ると思うから、それまで我慢しろよ)
俺は男絡みの話じゃなく、つまらなくなり投げやりにそんな事言った。
しかし、ヒルダの剣幕は勢いを増すばかりだった。
「(そんなに待ってられないの! もう、お願いだから、今すぐ出て行ってよ!)」
視界が歪んでいる。ヒルダは涙目になりながら言い募っているようだ。
出て行けと言うだけで、理由を話してくれない。しかし、なにか切迫した雰囲気が感じられる。
俺はヒルダの身に何かが迫っているのだと直感した。そして、俺の事を心配して言っているのだと理解した。
(おい! どうしたんだ! 何かあるのか? 俺のことは気にしなくていいから話してくれ! 俺に何か手伝えることがあるかもしれない! 頼むから話してくれ!)
「(うっ……)」
ヒルダは言葉を詰まらせ、俯いてしまった。
その視線の先で、ヒルダは足をモジモジとさせていた。
俺はそれを見て悟った。家路を急いでいたのもこの為だろう。
(……なんだお前、小便か?)
俺はなんの遠慮もなく言い放った。
なにせ俺は、女性と話す機会など皆無な環境で過ごしてきたのだ。だから、これが普通の対応なのだ。
しかし、そんなことはヒルダは知らないし、なんの関係もない。
「(っ!? 最っ低!! あんたデリカシーの欠片もないわね! あんた絶対女の子に嫌われてるわよ! あんたなんか一生独り身よ! ホント最低! 嫌よもう、うぅぅ……)」
お、俺は、嫌われてたのか……確かに誰も俺に話掛けて来ないな。少しショックだ。
ヒルダがそうまくし立てると視界が真っ暗になった。
どうやらあまりの恥ずかしさで顔を両手で覆い隠したようだ。というか蹲り泣き出してしまった。もう限界なのかもしれない。
まさかここまで取り乱すとは思わなかった。悪いことを言ってしまったな。こんな年頃の女の子にお漏らしなどさせられない。さすがに今すぐ出て行くのは無理だが、今のこの状況を打破する事くらいなら何とかなるだろう。
ヒルダは用を足すところを俺に見られたくないのだ。当然の話だろう。俺がヒルダの中にいる限り、用が足せないと思い苦しんでいるのだ。
俺がヒルダの中から情報を得ているのは、目、耳、鼻からだ。要は、ヒルダが用を足す間、俺が何も見ず、何も聞かず、何も嗅がなければいいのだろう。
嗅ぐ、という発想が出たことに、俺は自分のヤバさを垣間見た気がした。が、今はそれどころではない。今は急を要する。とにかく真摯に謝り策を伝えよう。
(ヒルダ、すまない。今のは俺が全面的に悪かった。許してくれとは言わない。でも、今はお前の身が最優先だ。だから、今だけは俺の話を聞いてくれ)
「(グスッ、何よ……)」
ヒルダは蹲ったまま涙声で返事をする。
なんだか胸が締め付けられる思いだ。女の子を泣かすのってこんなに苦しいものだったのか。
俺は要点だけ素早く伝えた。
話を聞いたヒルダは、ガバッと立ち上がると涙を拭い、近くの酒場のトイレに駆け込んだ。
◇◇◇
「はぁ~地獄から天国に来た気分だわぁ」
ヒルダはトイレの洗面台の前で鼻にかかった声でそんな事を言う。比喩表現ではあるが、まさにそんな気分なのだろう。
しかしだ、
(気持ちはわかるけど、そのままの状態で出て行くのはまずいだろう。可愛い顔が台無しだぞ)
「え? っ!? 見るなぁ―――!」
ヒルダは鼻と耳を紙で栓をしていた。それに加え、目を閉じることで俺の情報収集手段を断っていたのだ。
その状態が、洗面台の鏡に映り込んでいた。本当に可愛い顔が台無しだった。千年の恋も冷めるとはよく言ったものだ。まあ、恋はしていないのだが。
幸いにもトイレには他に誰もいなかった為、見られることはなく恥を掻くことはなかった。
ヒルダは瞳を閉じると、素早く鼻と耳の栓を外した。
うん、良く聞こえるし、よく臭う。おっと、余計なことを口走ってしてしまうところだった。
ヒルダは目を開くと身だしなみを整える。道端で泣いて少しばかり酷い顔をしていた為、それを直しているのだ。
薄化粧ではあるが、見る見るうちに手直しされていく。そして元の綺麗な可愛らしい顔になる。
化粧、恐るべし。
「(うん、バッチリ!)」
ヒルダは鏡に向かって可愛くウインクして見せる。
俺が見ていることを忘れてやしないだろうか。
また余計な事を言って怒らせるのも面倒なので、何も言わないでいた。
すると、次第にヒルダの顔が不満げになっていく。
(どうした?)
「(フンッ、何でもないわよ!)」
どうしたんだろう? 何も言わなくても不機嫌になってしまった。俺は首を傾げるばかりだ。
こんなことなら言いたいことを言っておくべきだったかもしれない。女の子ってよくわからないな。俺は心の底からそう思った。
トイレから出てカウンターに座ると、何やら視線を集めていることに気付く。
確かにヒルダのルックスとスタイルならば、男達の視線を集めても仕方がないだろう。
それはいいのだが、なぜカウンターに座ったのだろう? 酒でも飲むのだろうか? いやいや、ヒルダは確か17だと言っていた。まだ飲んではダメだろう。
(なあ、なんでカウンターに座るんだ? 帰るんじゃなかったのか? 酒はダメだぞ?)
「(違うわよ! さすがにトイレだけ借りて帰るのも悪いじゃない。ご飯食べて行こうかと思って)」
義理堅いことを言う。意外とできた娘なのかもしれない。なかなかに好印象だ。
俺のヒルダに対する好感度メーターがプラスに傾いた。
ヒルダが注文を済ませ水を飲んでいると、近くに座っていた男が声を掛けて来た。
「やあ、隣いいかな?」
「別に構わないけど、私に何か御用かしら?」
(かしらって、何だその言葉遣い。違和感がすごいんだけど)
「(うっさい黙れ!)」
怒られてしまった。やはり言いたいことを素直に言うと怒るようだ。ますますわからない。
「さっき見てたんだけど、キミ泣いてたみたいだからさ」
「ああ、そのこと? ちょっとね……」
(……)
「(何よ!)」
(何も言ってないだろ!)
なぜだ!? 黙っていただけで怒るってどういうことだ!? 確かに「ちょっとどころの騒ぎじゃなかっただろう! 地獄を見て来ただろう!」と思ったけど、言ってよかったのか?
「話聞こうか? ほら、友達には言えなくても他人になら話せる事ってあるだろ?」
なるほど。この男、ヒルダが泣きながら駆けこんできたところを見ていたようだ。事情を聞き慰めつつ、ヒルダをものにしようと言う魂胆なのだろう。
この男、見た感じは、中の下と言ったところだろうか。ヒルダに挑むとはなかなかのチャレンジャーのようだ。涼し気な表情でヒルダの瞳を見つめているが、たまに視線が下がっている。下心が隠しきれていない。
しかし、ヒルダは小便を我慢して泣いていたのだ。話せるわけがないだろう。
さて、ヒルダはどうするかな?
「そうね……」
ヒルダは頬杖をつき、思わせぶりな事を言うと視線を泳がせる。
男は勝負とばかりに涼し気な表情を崩さずに微笑んでいた。
ヒルダの視線でわかる。
この女、この男を品定めしている。
なんて女だ! 好感度メーターがダダ下がりだよ!
ヒルダは目を伏せると、男に告げる。
「でも、あなたに話すことなんて何もないわ」
確かに話せることはないだろう。
そう告げると、ヒルダは男から視線を外し、カウンターへと体を向けた。
「話しはこれでおしまい」という意思表示だった。
男はすごすごと元の席へ戻っていった。
(お前、ひでぇな)
「(どこがよ! 向こうだって品定めして近づいて来たんだからお相子でしょ!)」
(まあ、そうだけどさ。だったら最初に断ればよかっただろ?)
「(それは……ねぇ?)」
(いい男だったらOKなんだな)
「(い、いいでしょ別に!)」
(まあ、ヒルダの人生だから俺は構わないけど、痛い目を見ないように気をつけろよ)
「(フフッ、それは大丈夫よ)」
(?)
ヒルダは何の根拠があるのか、自信満々にそんな事を言った。
まさか護衛付きのお嬢様なのか? いや、お嬢様が受付嬢なんてしないか。ん~謎だ。
注文の料理が来るまで、3人の男が声を掛けてきていた。その中には、上の下の男もいたが、ヒルダはそのすべてを断っていた。きっと理想が高いのだろう。もしくは生理的に受け付けなかったのか。
入れ代わり立ち代わり見たくもない男の顔を見せられていると、注文の料理が来た。
「わぁ、おいしそう」
(た、確かにうまそうだな)
ヒルダが注文した料理は、数種類の野菜と魚のすり身で作った団子の入ったスープ、そしてサラダとパンと言ったなかなかヘルシー志向なメニューだった。匂いを嗅いだだけでうまいと確信できる。
しかし……
ヒルダはスプーンでスープを抄うと口元へと運ぶ。
俺の喉がゴクリと鳴った。
スプーンが口元手前で止まると、ヒルダは意味ありげに笑う。
「(フフッ)」
(な、なんだよ?)
「(あんたも食べたい?)」
(ぅぐっ!? お前ぇ……俺が食えないのわかってて言ってるだろ!)
「(あはははは、だって、生唾飲み込む音が聞こえるんだもん。あ~可哀想。こんなにおいしそうなのに食べられないなんて~)」
ヒルダは俺への当てつけのように匂いを嗅ぎ、俺の食欲を刺激する。
泣かしたことを根に持っているのだろうか? ねちっこい女だ。
(いいから、さっさと食えよ!)
「(え~香りを楽しんでから食べなきゃ勿体ないじゃない)」
(もう十分楽しんだだろう! さっさと味わって食え!)
「(フフッ、はいはい。それじゃ、いっただっきまーっす)」
ヒルダは見せびらかすようにスプーンを口に運ぶ。スープを舌の上で玩び、口いっぱいで味わうと、ゴクリと飲み込む。
あれ? なんだろう? この感じ……。
「(ん~おいし~)」
(……)
「(……あ、あれ? どうしたの? 怒っちゃった?)」
ヒルダは、俺が黙り込んでいるのを怒っているのだと思ったようだ。しかし、俺はそんなことで怒ったりはしない。性格の悪い女だとは思っているが。
(いや、そうじゃなくて……もう一口食ってみてくれ)
「(え? うん、言われなくても食べるけど)」
ヒルダを首を傾げつつ、スープを抄い口に運ぶ。スープの味がヒルダの口の中に拡がると、俺は確信した。
(うまぁぁ―――!)
「ぅえっ!?」
いきなり俺が感激の声を上げたため、ヒルダは間の抜けた声を上げた。
ただでさえ注目を浴びていたヒルダだ。今の声でさらに目立ってしまったようだ。
しかし、ヒルダの声やまわりの視線など気にならないほどの衝撃を俺は受けていた。まさかこの状態で料理の味がわかるとは思いもしなかった。いや、匂いを判別できるのだから味も認識できるのは普通の事なのかもしれない。これは新しい発見だった。
「(なに? あんた味わかるの?)」
(そうみたいだ。次はその団子を味わってみてくれ)
「(う、うん)」
ヒルダはスプーンで魚のすり身で作った団子を抄い上げ、口へ運ぶ。
俺は味覚に意識を集中して待つ。
ヒルダがもぐもぐと団子を噛み潰すと、ジュワッと旨味が口いっぱいに拡がる。
(うまっ! 美味過ぎる!)
「(もぐもぐ、ゴクン。ホントに味わかるんだ)」
(次! 次は……サラダを頼む)
「(……ゥフフッ、はいはい、仕方ないなぁ)」
俺は料理の味に夢中になり、次々に催促していく。
ヒルダは仕方ないなぁと言いつつも、楽しそうに俺の注文通りに料理を口に運び食を進めていく。
しかし、半分食べ進めたところでヒルダの手が止まった。
俺は早く次を味わいたくてうずうずしているというのに、どうしたというのだろう? お腹いっぱいにでもなったのだろうか?
(お、おい、ヒルダ?)
「(……あ、あのさ、今思ったんだけど、私の食べたものをあんたに食べさせてるみたいで、なんだか変な気分なんだけど)」
(お前そんな事気にしてたのか? もう今更だろ?)
「(それは、そうなんだけど……)」
(いいから、次、次~)
「(う、うん)」
ヒルダは戸惑いつつも、食を再開する。
俺はヒルダの戸惑いなど気にもせず、ヒルダの味わう料理の味を堪能した。
食事が終わる頃には、まったく気にした素振りを見せない俺に中てられたのか、ヒルダも気にするだけ無駄だと吹っ切れたようで、食事に集中していた。
「(はぁ~おいしかった~)」
(あ~うまかった~。けど、まったく腹が膨れていないんだが……なぜだ?)
「(そりゃそうでしょ。実際に食べてるのは私なんだし)」
(なっ!? そうなるのか! なんでもっと早く言わないんだ!)
「(え~、だってあんたの方が詳しいんじゃないの?)」
確かに味は共有していたが、飲み込んだ料理も、栄養も、すべては実際に食べたヒルダが独り占めしていた。俺が得たのは、味と言う情報だけだった。つまり、余計に腹が空いて来てしまったのだ。体がないため、あくまでも錯覚なのだが。
俺が食について悩んでいると、ヒルダは優雅に紅茶を堪能していた。
「(フゥ。ほら、悩んでないであんたも紅茶を楽しんだら?)」
(ん? そうだな、悩んでても仕方ないし。一口頼む)
「(はいはい、今飲みますからねぇ)」
ヒルダは長年連れ添った老夫婦のようなことを言うと、紅茶の注がれたティーカップを口に運ぶ。
紅茶を口に含むと、紅茶の味が口の中に拡がり、フワッと香りが鼻を通る。
ハァ~なんか落ち着く。
俺は紅茶の味と香りを楽しんだ。
それにしてもこの酒場、料理があるのは良しとしても、まさか紅茶まであるとは。なかなか商魂たくましいな。
紅茶を堪能していると、待っていたかのように別の男がヒルダに近づいて来た。
「やあ、少し話さないかい?」
男はグラス片手に爽やかな微笑みを称えている。なかなかのイケメンだ。俺の見立てでは中の上と言ったところだろうか。
しかし、先程の上の下の男は見事に玉砕していた。この男では二の舞を踏むのではないだろうか?
さあ、ヒルダはどう出る?
「……いいわよ。どうぞ」
ヒルダは男にそう告げると、隣の席を勧めた。
ほう、難しいと思ったんだが、やはり先程の男は、ヒルダが生理的に受け付けない男なだけだったようだ。
そしてこの男は、ヒルダのお眼鏡にかなったようだ。第一関門突破と言ったところだろう。勝負はここからだぞ! 気を抜くな!
と、応援しては見たが、しかしこの男、どこかで見たような……。
ヒルダの話、もう少し続きます。