その8
セルダンとコリンが卒業して早くも二年、リテアの卒業も間近に迫っていた。
高等教育を受けるために進学したコリンとは時々顔を合わせる程度になっていたが、セルダンは学業が忙しく、リテアと顔を合わせるのはこの二年ほとんどなかった。それでもセルダンとアブリルの関係は変わらず続いている。コリンはリテアへの恋心を捨てきれないでいたが、リテアの心が自分に向かないというのは感じ取っていたので友達という関係を崩さず貫いているのだ。いざという時に支えてあげられたらと考えるような、素朴で優しい青年へと成長を続けていた。
卒業を前にリテアは試験に通り、下級文官として城への勤めが決まっていた。学力には何の問題もなく、ウルリック=バンズの養い子というのもあり落ちる心配はなかったが、その分リテアは勉強を頑張り、下級文官の試験では一番の成績を収めた。昇進の機会のある中級や王族と関わりを持つ高級の試験を受けても合格したのではないかと囁かれているが、リテアはそこまでの権力を望んではいない。それに中級以上は更に上の学校を卒業しなければ受ける資格を得られないのだ。下級文官でも城勤めは華のある職業だし、女性にしては最大の出世の部類にも入る。リテア自身はとても満足していたが、ひとつどうしても気になる事があった。
近頃アブリルの様子がおかしいのだ。
明るかったアブリルが最近はすっかり落ち込んで言葉も少なくなってしまっている。声をかけても考え事ばかりして返事がかえって来ない。何かあったのは確実だが、訊ねても何でもないと言われてはそれ以上追及できなかった。
休日を利用し久し振りに会ったコリンにその話をすれば、どことなく言い難そうにしながらも教えてくれる。
「セルダンが家の都合で婚約させられたんだ。」
「家の都合って―――え?」
婚約? と驚き問い返すリテアに、困ったような顔をしてコリンは頷く。
「僕も詳しく知らないんだけど、ガイアズ商会のお嬢さんがセルダンに一目惚れしたらしくて。セルダンの家も大きく商売を広げる好機と婚約を調えたらしいんだ。」
家の為にというのは貴族だけではなく庶民にも良くある話だ。しかもセルダンは商いを営む家系で、彼自身その後を継ぐ為に勉強をしているのである。これはセルダンの実家からすると諸手を上げて飛び付きたくなる話だろう。なにせ相手はあのガイアズ商会。そちらのお嬢さんを貰い受けるというのだから。
ガイアズと聞いて思い出すのは腹がでっぷりと突きだしたおじさんだ。どうしようもなくなったリテアをお金で買ってくれようとした人。お金で体を売るのはいけない事だが、当時のリテアは誰かに買ってもらわなければどうしようもない状態だった。運よくウルリックに助けられ今に至っているが、あの時フローズン=ガイアズに声をかけてもらっていなければリテアは生きていないかも知れないのだから。
フローズン=ガイアズは既に引退して息子にすべての権利を譲ったと聞いたので、セルダンが婚約したのは彼の孫娘になるのだろう。そういう訳でアブリルは落ち込んでいたのだ。当然だとリテアも眉を寄せ肩を落とす。セルダンは見た目が良くて本当にもてていた。一目惚れされても不思議ではないが、アブリルの気持ちを考えると悲しみが打ち寄せる。
「何とかならないのかしら―――」
「将来に絡む問題だからね、それに家同士の結びつきもある。今から婚約破棄なんて出来ないだろうし、こう言っては何だけど、セルダンの親もアブリルとの結婚は許さなかったと思うよ。」
なんてことを言うのかと顔を上げてリテアは言葉を飲んだ。コリンもやり場のない友人の気持ちを理解しているのだろう、とても辛そうな表情をしている。アブリルの実家は薬師の家系だが、特別抜きんでているわけでもない。それとガイアズの威光、どちらを取るかなんて解り切っているし、そうでないにしてもセルダンは商売に有利な家庭の娘を妻にと望まれるだろう。アブリルでは家業の足しにはならないのだ。
重い気持ちでコリンと別れ家路についたリテアだが、家を取り囲む塀に背を預けるアブリルの姿を見つけ駆け寄った。ウルリックの女嫌いを知っているアブリルは、自分の姿を見せて不快にさせてはいけないとこれまで家に来たことはない。セルダンとの事だと察してリテアはアブリルをお茶に誘う。今日は家にウルリックがいるので招き入れる事は出来なかった。
「お茶はいいの。その……ウルリック様にお願いがあって。」
「ウルリック様に?」
もしかして婚約の件を取り消せないかと相談に来たのだろうか。確かにウルリックの名前を使えば無理難題も片付くとレオナルドが言っていたが、ウルリックはこういう事に口を挟むような人ではないし、リテアからしてもかなり無理に感じる。けれどアブリルの話しはリテアの予想をはるかに超える物だった。
「子供が出来たの、セルダンの子よ。でも産めないの。魔法薬なら堕胎も可能だって聞いて。本当ならどうかお願い、必ずお金は払うからって。お願いリテア、産めないの。まさかこんな事になるなんて―――」
手で顔を覆って泣き出してしまったアブリルをリテアは唖然としたまま抱き寄せる。
子供が出来たなんて、そんな―――信じられない思いで告白を聞いた。相手はセルダン、けれど産めないから堕胎したいと。
堕胎は専門の医者にかからねばならないのが常識で、リテアはウルリックの側にいながら魔法薬という存在を知らなかった。けれどアブリルはそうではないらしい。堕胎を可能にする魔法薬が存在するかどうかは不確かだが、魔法薬というものがあるのは事実らしかった。
「まって、ねぇアブリル。セルダンはなんて言ってるの。彼は成人しているし、わたし達だって卒業して来年には成人よ。産んで育てる選択肢はないの?」
あのセルダンが妊娠した恋人を放っておくはずがない。聞けばセルダンの迷惑になるから秘密にしているというではないか。セルダンはとっくに成人しているし、アブリルだって来年には大人の仲間入りを果たす。婚前交渉をするカップルは多いと聞くが、まさかアブリルもそうだったとは夢にも思っていなかった。だからって子供を産んではいけない年齢ではない。
「避妊はしてたの。それなのに今回はどういう訳か失敗したみたいで―――」
「それは……アブリルと別れたくなくてわざととは考えられない?」
二人が何時からそういった関係だったのかは別として、今回以外は避妊に成功していたのだ。家が薬師なだけに薬の知識は一般人よりもあるだろうし、セルダンの家だって薬を取り扱っている筈である。二人とも知識はあるのだから、今回の妊娠はアブリルとの結婚を望んだセルダンの意思表示なのではないのだろうか。けして勧められるやり方ではないが、子供が出来る位の事をしないとガイアズ商会との婚約は破棄できないだろう。
「もしかしたらそうかも知れないけど―――でも育てられないわ。」
可能性に気付きながらもアブリルは首を振る。
「わたしたち親の脛をかじってる状態で、セルダンはあのガイアズのお嬢様と婚約しているの。あちらのご両親が認めてくれない。それにわたしだって親になんて話せばいいの。正直に話したら父はセルダンの家に乗り込むわ。そこで妾にするなんて言われたら生きて行けない。未婚で出産して薬師の修業もなんて、勝手だけど無理だってのは解っているの。」
だからお願いと、ウルリックに会わせてくれと泣くアブリルを抱いたまま、リテアは慰めるように背中を撫で付けた。
産むか堕胎するかの選択。本当なら好きな人の子供だ、アブリルだって産みたいに決まっているのに、冷静に現実を見据えて産めないのだと訴える。産めないなら周囲を、セルダンを巻き込みたくなくてひっそりなかったことにしようとしているのだ。
産むとしたらアブリルの言う様に、彼女の父親がセルダンの家に行って話をつけてくるだろう。恐らく事業を優先してアブリルやセルダンの気持ちなんて考えてもらえない。お金で解決されるか、良くて妾として囲う約束をしてもらえるかだ。今のアブリルは学生で、学校を卒業してもすぐに仕事に就ける訳ではない。独り立ちまでは親について薬学を学び、長い時を得て習得していくのだ。その間、生まれた子供は誰が面倒を見るのか。誰が衣食住を整え資金を出すのか。すべては彼女の両親だ。自分達で育てられないのに子供を作った責任は重い。
「でも……やっぱりセルダンには話すべきよ。」
彼の子供でもある。きっと彼の事だ、アブリルを妾なんかにしないで婚約破棄して二人で生きて行ってくれるだろう。彼も間もなく学校を卒業する。ガイアズ商会との婚約を破棄して家を追い出されても、頭の良い彼を雇ってくれる場所はあるはずだ。けれどアブリルはリテアの提案に頷いてはくれなかった。
「セルダンから家を奪えないわ。彼に辛い思いをさせたくない!」
「アブリル―――」
リテアは息を吐いてアブリルを抱きしめた。今は何を言っても無駄なのだろう、彼女はウルリックの魔法薬に縋ってここまで来たのだ。リテアに話してくれたのも切羽詰まった状態だからで、今は考えを変えさせるのは難しそうだった。
「わかった、ウルリック様に魔法薬の事を聞いてみる。」
「ありがとうリテア!」
「でもね、そのかわりセルダンと話をして。命は絶ってしまうと二度と戻らないのよ。アブリル一人で決めてはいけないと思う。後で後悔しても遅いのよ。」
堕胎してその後に家を捨てたセルダンがアブリルの手を取ってくれたらどうするのか。後悔して欲しくなくて顔を突き合わせて頼むと、躊躇しながらもアブリルは無言で頷いた。
アブリルを家まで送り届け再び戻って来る。ウルリックにどう説明しようと考えながら食事の支度をしたせいか、もともとあまり得意ではない料理が更に不味い出来に仕上がる。普段城で口にする食事も絶品とはいいがたいがそれなりに美味しいものだ。味に煩くないウルリックがスープを一口啜ると手を止めリテアをじっと見つめた。
「帰りも遅かったし、友達と何かあった?」
久し振りにコリンと会って話をすると言って家を出た。友達付き合いだけではなく休日の過ごし方についても特に何も言わないウルリックだが、流石におかしいと感じたのだろう。食事を済ませてから話そうと思っていたリテアだったが、手を止めて匙を置くと膝の上に両手を重ねた。
「魔法薬というものの話をしました。ウルリック様もそれを作れるのですか?」
「あれは特別な薬だから作成には魔法師長の許可がいる。怪我や病の治療は魔法を使うと人がもともと持っている自然治癒力を失うので推奨できないけど、コリンが困ってる?」
役に立とうかと優しく目を細めるウルリックにリテアは眉を寄せて首を振り、様子を窺いながら恐る恐る口を開いた。
「コリンではなくて……アブリルなんです。」
「―――!」
息を飲んだウルリックの顔色が白くなる。アブリルというリテアと同じ歳の女の子だ。その名前を聞いただけでこれでは、先を続けてもいいだろうかとリテアは戸惑った。
「ああ、うん。えっと―――う~ん……」
灰色の目が忙しなく左右上下に動き、額に薄っすらと汗を滲ませている様にリテアはやはり無理かと俯いた。直接顔を合わせた事はなくてもウルリックはアブリルを知っているのだ。何時まで経っても細くて起伏のないリテアと異なり、アブリルは胸もお尻も大きくて女性らしい魅力的な体つきに成長していた。それを思い浮かべて狼狽しているのが一目で解る。
「あの、えっとだね。魔法薬は診断の必要がある物とそうでない物があって……普通の薬じゃダメなのかな。彼女はその……重傷?」
どうかそうであってくれるなと訴える視線を向けられ、リテアは無理矢理笑顔を作って重症ではないと首を振った。これ以上話せばウルリックに拒絶反応が起きるのは目に見えている。無理だとあきらめたリテアの様子に、ウルリックは心から申し訳ない思いに駆られる。
「力になるから話だけでも―――」
「いいえ、大丈夫です。……きっと。」
きっと思い直してくれる。そうしたら堕胎に使う魔法薬なんて必要なくなるのだ。唇を噛んだリテアを前にウルリックは情けない自分自身に眉を寄せた。世界一の魔法使いと呼ばれ恐れられるだけの実力があるのに、保護する少女の相談にすらまともに乗ってやれない。
「レオナルドに―――相談しても構わないよ。話はしておくから。」
「ありがとうございます、でも大丈夫です。」
匙を手にしたリテアは美味しくないスープを口の中に押し込んだ。