その5
「ウルリック……さま?」
どうして彼がここにいるのだろうと、後見人であり仕える主でもあるウルリックをリテアはぼんやりと見上げる。普段以上に顔色を悪くしたウルリックの灰色の視線が横たわったままの母親へと流れ、視線につられてリテアも母の亡骸を辿った。
大丈夫だと言われて言葉の意味が理解できずに首を傾げれば、更に悲壮な表情をしたウルリックが幾度も謝って来た。どうして謝られるのか分からなかったが、抱き寄せられた先にあるぬくもりを感じて思わず縋りつく。『ごめん』と幾度も謝り続ける声がリテアに意味あるものとして聞こえてくると、ようやく母親が死んでしまいどうしていいのか分からずにいた自分を思い出した。
たった一人の家族。父を失ってから母はリテアの為だけに生きていた。ガイアズ商会から支給された生活資金も、何時どうなるか解らないからと引っ越し費用と学費の他にはほとんど手を付けず、朝から晩まで必死に働いてくれていた母。そのせいなのだろうか、風邪が何時までも癒えずに悪化して死んでしまったのは。
母を失い一人になってしまうくらいならうんと贅沢しておけばよかった。質素倹約と口癖のように言い含める母はすっかり痩せてしまっていたが、いつも笑顔でリテアを優しく包み込んでくれた。侯爵夫人を怒らせたせいで故郷へ戻ることも出来なくなってしまったが、父の墓は都にあるし、都会の方がリテアの将来にもいいからとここで頑張ると決めていたのに。死んでしまってはどうにもならないではないか。それにどうしてわたしを一人にして置いて行ったのと、リテアは母を失った悲しみでいっぱいになり声を上げて泣き崩れた。
泣くか虚ろになるしか出来ないリテアの代わりに、全てを整えてくれたのは魔法師長のレオナルドだった。その間ウルリックはリテアと手をつなぎ、抱きしめ、常に温もりを与え続けてくれる。けして離れないからと安心を与えてくれる存在にリテアは縋った。
ウルリックの魔法で腐敗は止められたものの、死者をいつまでも弔わないのはよくないと翌日には埋葬となった。葬儀に参列したのはリテア以外にはウルリックとレオナルドだけ。ヴィヴィツ侯爵家の元同僚たちに一報は入れられたが、主の怒りを恐れて誰一人として出席する者はなく寂しい葬式となった。当然故郷のヴィヴィツから親戚が駆けつけてくれるわけでもない。そもそもリテアは祖父母にすら一度も会ったことがなかったのだ。
埋葬が終わるとリテアの行く先を決める必要があった。生活資金の心配がないとはいえ、十の子供が一人で生活するなど有り得ない。本来ならヴィヴィツ侯爵領に住まう親戚の誰かに預けるのが筋だがそれを渋ったのはレオナルドだ。ガイアズ商会から得た口止め料と生活資金は一般庶民からするとかなりの高額だ。リテアの母親の様に将来を見据えリテアの為だけに使ってくれるような親戚なら問題ないが、恐らくそうはならないだろうというのがレオナルドの意見でウルリックも同意した。両親の故郷に人をやって調べてくれたレオナルドの言葉をリテアは疑わず、両親の墓もこちらにあるので見知らぬ侯爵領に行くのも嫌だったのだ。
「私と一緒に暮らそうか?」
眉間に皺を寄せ、ずっと辛そうにしていた顔色の悪い魔法使いがリテアの両肩に手を置く。落ち窪んだ目も、その下にある濃いクマもこけた頬も怖くない。優しい温もりをくれる骨ばったこの手が好きだった。
「でもウルリック様は女の人が嫌いで―――」
戸惑うリテアにウルリックは小さく微笑む。
「それでも君の事は好きだよ。それに君はまだ子供だ、大丈夫。大人の女性になったらなったでその時に考えるではいけない?」
お金が欲しくて体を買ってくれないかと声をかけたのが始まり。けれどその人は女性が苦手で、小さな女の子や老齢の女性は平気であっても、妙齢の女性を目にするだけで体に変調をきたすというのをリテアも十分に理解している。だが子供のリテアから見るとウルリックは多少の欠陥はあるものの、優しくて思いやりに溢れた魔法使いの青年で、それをリテアは好ましく感じていた。だからこそ迷惑になるような存在にはなりたくなかったのだが……
「ウルリックの言う通り、君には保護してくれる大人が必要だ。なんなら私の所にくるか?」
不安そうにするリテアにレオナルドも手を差し伸べてくれるが、彼はもうすぐ結婚するし、その相手は貴族出身の女性だ。レオナルドの選ぶ女性だからけして悪い人ではないだろうが、敬愛した侯爵夫人が母親にした仕打ちを忘れられなくて唇を噛みウルリックの手を取った。
「大人になるまで……お世話になります。」
大人になるまでと頭を下げたリテアにウルリックが戸惑うのを肌で感じた。自分を正確に理解しているウルリックだが、まだ子供であるリテアに期限を突き付けるような真似ができずにいるのだろう。いずれ出て行くのは決まっているが、今ここで応と返事をするのはいい大人として憚られるのだ。
「ウルリックの方が世話になるんじゃないのか。リテア、こいつを頼むよ?」
ウルリックに代わり冗談を交えたレオナルドが言葉をくれると、ウルリックも慌てて「こちらこそよろしく」と返事をくれる。リテアは優しい二人にいずれ必ず恩を返すのだと、幼いながらも心の内で硬く誓ったのだ。
*****
ゆっくりと、けれど確実に時の階段をのぼるリテアの変化に目を瞑る。それはウルリックだけではなくリテア本人もだ。
ウルリックが後見人を理由にリテアを引き取り共に住まうようになると、女嫌いで通っていた魔法使いは幼女趣味の噂を流されるようになった。自分が振られたのは大人の女性に興味がなかったからだと、財産に目が眩んで猛進し玉砕した女たちはこれみよがしに陰口を叩き始める。だが話の中心にあるウルリックも、幼女趣味の餌食となったとされるリテアも噂に惑わされ傷つくようなことはけしてなかった。ウルリックは部屋に引き籠っているので世間に晒される時間は極端に少なく、あまり噂を気にする方でもない。リテアは自分のせいでウルリックが悪く言われるのには心を痛めたが、偽りの噂を流す女たちの負け惜しみを正しく受け止めてくれる人間も多かったというのが救いとなった。
特にリテアを取り囲む人間たちは彼女の生い立ちを知っていたし、ウルリックが残す功績を敬い恐れ、頭のいい人間ほど彼を怒らせたらどうなるかよく理解していたので、噂を鵜呑みにする前にきちんと事実確認を怠らなかったのだ。それに引き籠りのウルリックを取り込みたい人間はリテアという存在を重宝するようにもなっていたし、可哀想な生い立ちの可愛らしい少女を虐めるような大人も少なかった。なにしろウルリック=バンズを後見人に持つリテアと仲良くなっていれば、いざという時に取り込みやすくなるからだ。ウルリック自身と話をしたくても象牙の塔に篭られていてはどうしようもないが、普通に社会と関わりを持っている少女が相手ならいつでも捕まえることができた。仲良くなっておけばいざという時に頼み事はしやすいし、恩を仇で返すような娘でないのは話をすればすぐに解る。ただやり過ぎると魔法師長の報復が待っているのでそこそこに。思惑があるにしろ、リテアは優しい大人たちに囲まれ、そして守られながらゆっくりと、けれど確実に成長していった。
研究だけが生きがいだったウルリックが規則正しい生活を送ってくれる。自宅で朝を迎え、朝食をすませるとリテアと一緒に家を出て仕事に向かった。職場では学校を終え駆けつけたリテアと共に昼食と夕食を済ませ、暗くなる前にリテアと肩を並べて退勤するのだ。友人でありウルリックの将来を心配していたレオナルドとしては申し分のない結果に、不幸を背負ったリテアへの後ろめたさを感じながらも満足していた。
ウルリックの為にリテアを利用した形になったレオナルドとしては、ウルリックの拒絶反応が出た際は自分がきっちり彼女に対しての責任を持つつもりでいる。変な誤解を与えないためにも妻となった愛する女性とリテアを引き合わせ、二人にもきちんと話は付けてあった。リテアは悲しそうにしていたがウルリックの体質を十分理解しているので仕方ないとレオナルドの言葉にうなずいてくれたが、リテアがいなくなると妻からは『女心が解っていない』と怒られてしまった。何が解っていないのか。将来苦しむのはリテアの方だと、保護者にすっかり懐いてしまった少女の健気さにレオナルドは胸を痛めながらも現実を見つめていたのだ。
そんな関係が続く中、最も恐れているうちの最初の事態が起きる。十四歳になったリテアは昨日までは元気だったのに、翌朝には体の調子が悪くなってしまい起き上がる事も出来なかった。異変を察したウルリックはリテアの部屋に入り、少女の眠る寝台に腰かける。
「大丈夫かい?」
リテアが病になると小さな子供にするように頭を撫でてくれるウルリックに、リテアは全幅の信頼を置いていた。病気の時に頭を撫でられるとどういう訳か気分が良くなるのだ。魔法かと尋ねると『少しだけ』と薄く微笑む彼の表情がとても大好きで。けれど今朝は大好きなウルリックに触れられるのがとても怖かったが、何をどうしていいかわからないリテアは寝台の中で身を硬くするばかり。やがて何かを察したウルリックは手を止めると、唖然とした表情になり徐に立ち上がる。
「ウルリック様―――」
ごめんなさいという言葉をつなげる前にウルリックは部屋を飛び出してしまった。ああ、これで永遠に彼を失うのだと感じたリテアは布団に潜り込んで嗚咽を漏らす。股の間が濡れて気持ち悪かったが、どうにか自分で処理しようという気力すらなくなっていた。ウルリックが飛び出してからしばらくすると、レオナルドの妻マイスが顔を覗かせる。
女性が苦手なウルリックの家にリテア以外の女が入るのは初めてだった。ウルリックやレオナルドは同行しておらず彼女一人だ。
「ウルリック様がうちの人に相談してね、わたしが来たのよ。」
優しく話しかけてくれる声に布団から顔を覗かせれば大丈夫だとマイスは頷く。
「ウルリック様はとても混乱していらっしゃるそうよ。彼もこの日が来るのは分かっていたから覚悟はしていたらしいけど、直面すると特に男は駄目ね。」
優しく微笑んでくれたマイスは、初潮の来たリテアにいくつかの道具を出して処置の仕方を教えてくれた。その日リテアは学校と仕事を休み、一人でウルリックの帰りを待つが深夜を過ぎても扉は開かれる事無く、別れの時が来る恐ろしさに身を震わせ、たった一人の恐怖に母の死んだ日を思い出していた。
一方ウルリックは具合の悪そうなリテアを魔法を使って診察し、彼女に何があったのかを察して頭が真っ白になった。
共に暮らし出した当初は十歳の子供で、将来的に大人になるのだと解っていてもまだ先の出来事と、成長期の少女に初潮が起きて大人になるなんてのはすっかり忘れてしまっていたのだ。何も思わず診察して唖然とし、頭が真っ白になったまま家を飛び出して走った先はレオナルドの元だ。ウルリックが城に置かれた魔法師長室を訪れるなどほとんどない。しかもとんでもなく狼狽した様子にレオナルドも一大事が起きたと悟った。
「何があったんだ?!」
駆け寄るとウルリックは苦しそうに体を折り曲げ床に蹲ってしまう。怪我でもしたのかと思い探ろうとすれば、額からは冷や汗を滴らせながら蒼白になった顔を上げた。
「リテアが女になってしまったよ。私はどうしたらいい?」
虚ろな灰色の視線は瞳孔が開き、レオナルドに合されているようでいてそうではない何処かを見つめていた。何かに怯え体を震わすウルリックの様子にレオナルドも眉を顰める。
リテアが大人になったというのは初潮を迎えてしまったという事だろう。それは直ぐに理解できた。けれどウルリックは大人になったリテアに恐怖し戸惑っているといった様子ではなく、確かに怯えてはいるが、その怯えの先には敵意さえ剥きだしにしてしまっている。戦場に立った時にすら見せたことのないウルリックの様子に、危険を感じたレオナルドは今にも暴発してしまいそうなウルリックの魔法を封じるのに必死になった。
「戻って来いウルリック。何を攻撃しようとしているのか知らないが、ここにはお前の敵は存在しないぞ?!」
魔法師長という職に就いていてもレオナルドよりウルリックの方が何倍も力は上だ。ここで感情のまま魔力を暴発させられては防ぎようがない。正気に戻そうとウルリックの肩を掴んで揺するも、ウルリックは両手で顔を覆って頭を振り声が届いていないようだった。
ウルリックの体から陽炎の様に黒煙が立ち上る。こんな場所で攻撃魔法を放たれてはウルリックは危険人物と認識され処分されるしかなくなってしまうではないか。レオナルドは顔を覆うウルリックの手を無理矢理引き剥がすと鼻先が触れる程顔を寄せて睨みつけ、唾を飛ばして大声で叫んだ。
「リテアを一人にするのか!」
気付いてさえいればウルリックも、そしてレオナルドも彼女の母親を救う事が出来たのだ。それを怠った経緯を二人は忘れていない。ここでウルリックが失態を犯し、危険で有害な魔法使いとして処分されるようなことになってもリテアの面倒はレオナルドが引き継ぐだろう。けれどそれでいい訳ではないのだ。大切な家族を全て亡くしてしまったリテアにとって、ウルリックはたった一人の縋れる相手となっている。期間限定だからこそ小さな心に愁いを帯びて、それでもウルリックに縋っているのだ。
「本当にいいのか、リテアを一人にして。私達の償いは何一つ終わってなどいないというのに!」
万民を救う事なんて出来る訳がない。けれど手の届く位置にいる少女くらい特別視してもいいではないか。たとえ一緒にいられなくなっても見守り続ける義務がウルリックにはある。
唾を飛ばすレオナルドにウルリックの焦点が合わされた。禍々しい気も放出されるのが治まり、緊張から解かれたレオナルドはがっくりと力を抜いて床に転がる。
「リテアにじゃないだろう。いったい何に怯えていたんだ?」
妙齢の女性に怯えるウルリックが起こす現象は、蕁麻疹や嘔吐といった類であって破壊ではない。恐らくリテアが初潮を迎えた驚きに何かを重ねてしまったのだろう。確かにそうだと、虚ろに揺れる灰色の瞳が過去を見つめる。
「母が―――」
ぽつりと口を突いて出たウルリックの言葉を、「母?」とレオナルドが繰り返した。
「母って、お前が餓鬼の頃に死んだとかいう母親か?」
女嫌いの起因が母親にあると聞いていたが詳しくは知らない。それがどうしたと、ウルリックの魔法を押さえるのに必死で力を使い疲れ果てたレオナルドが聞き返せば、何でもないとウルリックは首を振って大きく息を吐き出した。誰にも、大切な友人にすら打ち明けていない。当事者達だけが知る忌まわしい過去が紅色の肉片が混じる血の雨という残像を降らせながら消えていく。
「リテアが大人になったんだ。私はどうしたらいいんだろう?」
床に胡坐をかいて力なく項垂れるウルリックに、レオナルドは溜息を落とすと勢いをつけて起き上がった。
「取りあえず妻を行かせる。お前はお気に入りの象牙の塔にでもこもっていろ。」
こんな状態のウルリックは初めてだ。普段は部屋に籠りきりになるウルリックをどうにかして外に連れ出そうとするところだが、今は大人しく籠っていてもらった方が有難い。恐らくウルリックは家を飛び出してきたのだろう。リテアも心配だが、事が事なだけに女同士の方がいいだろうと、レオナルドはウルリックが開発した魔法具を使って家にいる妻と連絡を取った。