家族
母親に愛情という類の感情を向けられた記憶は一度もない。それでも世の中の母親というもののたいていが、自身が産み落とした子供に深い無償の愛を注ぐのだというのは知っている。ウルリックにとってそれに近い愛情を注いでくれたのが七歳年上の今は亡き姉だ。
貧しい世界で生まれた者は当然のように辛い生活が待っている。姉もその中の一人で、自分なしでは生きられないであろう小さな弟に精いっぱいの情を注ぎ、縋られることで自分の生きる場所を得ていた。おかげでウルリックは生き延びて、物心ついた時から虐待を強いる母親という存在をこの世から抹殺するのに成功する。けれどそれはウルリックにとってとても大切で、幸せを感じれる場所を失った結果によるものだった。
十五になるまでの姉は売られる心配もあったのにどうしてあの家を出なかったのか。極限まで貧しい生活をしていても、周囲の情に縋り姉が一人で生きていくのは可能だったはずだ。けれどそうしなかったのはウルリックがいたせいだろう。姉一人なら何とかなっただろうが、そこに小さな弟が加わるとどうなるのか。まだ一人前にも働けない、保護者がいなければ暗く冷たい裏通りでのたれ死ぬしかないような子供。姉が男に強姦され母親に殺されるに至った原因の一つが自分の存在であったと、殺した母を今もなお恨みながらもウルリックは己の存在という罪を理解していた。
ウルリックの目に小さな子供と老婆以外の女はあの母親として映る。けれどその中にあってリテアだけが違った。親を失い誰かに縋るしか生きる術を失ってしまった少女は、手を差し伸べた大人が善人であるのか悪人であるのかの区別すらついていなかっただろう。ただほんの小さな偶然が重なり、側にいたというだけで安全という刷り込みを受け、恐ろしいことに育ての親を一人の男として愛してしまった。
なんという節穴だろうと思うが、ウルリックにとってこれほどの幸運はどこにもなかった。ウルリックにとってリテアという少女は、彼女の母親を死なせてしまった贖罪の意味から引き取った存在に過ぎない。けれど共に過ごすうちに守るべきものからとても大事な存在へと変化して、今ではけして手放せないものへとなってしまった。きっとリテアがこの世界からいなくなれば狂ってしまうだろう。それが自分で分かるほどウルリックはリテアに依存している。失った姉の代わりであり、たった一人だけ懐に閉じ込めたいと願う存在であるのだ。
そのリテアを自分だけのものにするにはどうしたらいいのか。両親からの愛情を深く受けて育ったリテアなら大丈夫だと、ウルリックは彼女に自分の子供を産ませるのを考え付いた。けして離さないために、逃げ出さないために二人をつなぐものといえば、リテアが腹を痛め自らの体より生み出す我が子以外にはないのだと。
はじめは魔法による束縛を考えたのだ。ちょっとした怪我や病気もすべて魔法で治療して、リテアの体から自己免疫と再生の能力を奪ってしまう。魔法なしでは怪我も病気も癒せなくなればウルリックの元を離れられなくなると。けれどそれでは四六時中側にいなければならなくなる。ほんの一瞬目を離したすきに怪我をして、自己回復力を失った肉体がどうなるのか。自身がそうだからわかるだけにとても危険な賭けだった。しかもウルリックはリテアよりもかなり年上だ。自然の摂理通りなら間違いなくウルリックのほうが先に死ぬ。その後に他の魔法使いにリテアを任せるのは嫌だった。だからって自分が死ぬ時にリテアを殺すのもしたくない。そうなると残された選択はたった一つ、思いついたのは子供を孕ませ産ませること。
「すごい、今にもはちきれて生まれてきそうだね。」
妊娠した女の腹が膨らむのは常識だが、女性を極度に避けていたウルリックが妊婦をまともに見るのはリテアが初めてだった。まだ妊娠期の半分ほどしか経過していないのに、細い体のうちで一箇所だけ膨らみ出したお腹を見て、人の臓腑や血肉を浴びても眉一つ動かさない男がおののき目を見張る。
「ジル婆さんには小さいほうだって言われたばかりですよ?」
近くの村に唯一いる産婆の名を口にしたリテアに、ウルリックは疑いの目を向けると突き出した腹部にそっと触れる。
「これが産み月になったらどれだけ大きくなるんだろうね。しないと分かっていても破裂しそうで怖いよ。ああ、でも中は元気な男の子だ。」
「えっ?!」
腹を撫で、胎児の様子を確認したウルリックが目を細めたところでリテアが驚きの声を上げる。
「どうしたの?」
「いえ……男の子が生まれるんですか?」
本当は生まれるまで性別はわからない。けれどウルリックは魔法で胎児の様子を確認したのですぐにわかって口にしてしまったのだ。もしかしたらいけないことだっただろうかと、ウルリックは最近少しばかりクマが薄くなった顔を俯かせつつ妻の様子を窺う。
「そうなんだけど……」
「それじゃあ男の子物の衣を縫わなくちゃ。ねぇウルリック様、この子は本当に男の子? 生まれて女の子だったりしたら男の子の服では可哀想だわ。」
性別を確認してくるリテアの瞳がとても輝いていて、ウルリックはほっと胸をなでおろし「男の子」だよと告げる。リテアは妊娠を楽しみながら子供が生まれるのを心待ちにしている。リテアが生まれた子供を愛してくれる限り、捨てられない自信がウルリックにはあった。
リテアの出産が近くなると領主代理として一年の期限つきながら高級文官が派遣されることになっていた。いわゆる産休育休だ。リテアは領主として最東に赴任してきたが、住まいはウルリックが使っていた家をそのまま利用しており、領主館は仕事をするときに通勤するという形をとっている。それもあるので代理の領主はそのまま領主館に滞在することになっているのだが、派遣されたきた男を見てリテアは大変喜んだ。
「オズワルド様がいらっしゃるなんて聞いていませんでした。本当に、本当オズワルド様が?」
「場所が場所なだけに手をあげる者がいなくてね。経験と思い私が立候補した。」
実際には平民出身者の代理を務めたがる高級文官がいなかったというのが理由だ。皇太子の補佐も信頼できるぎりぎりの数でやっているので、リテアに好意的でも人材を捻出するのは無理な話であった。そこで若い文官から順番に掛け合われたが、リテアの人柄を知らない高慢ちきな貴族出身の高級文官どもは、左遷される場所というものあって誰も了承の言葉を口にしない。最後は無理矢理に行かせるしかないと判断されていたが、それならとオズワルドは自ら手をあげたのだ。リテアには借りもあるし、リテアが心酔するウルリック=バンズという魔法使いにも興味があった。辺境を知るのもこのような機会がなければ無理だ。
そんな訳でやってきてくれたオズワルドに、しかしながらウルリックは良い気持ちが持てない。リテアを虐めた輩だというのではなく、引継ぎと称して領主館でリテアと二人仲良く仕事をしているからだ。自分は荒地の開拓やどうやって水を引こうか、そのせいで弊害が出ないかなど色々考えて外をうろつき、時にすれ違う女性に怯えているのに、オズワルドはリテアと二人きりで机を挟み仲良く談笑しているのである。二人の様子は魔法で知ることができるだけに、覗き見る度に自分はなぜ文官でないのだろうと悔やんだ。
そんなある日、愛しい妻の覗き見に興じていたウルリックは、妻に起きた異変に真っ先に気付くと魔法で移動し駆けつける。腰を押さえたリテアがオズワルドにささえられ、楽な長椅子へと移動している所だった。
「まさか生まれる?!」
産み月はきている。いつ生まれてもおかしくないのに慌てるウルリックに顔を向けたリテアは、オズワルドに支えられた状態で長椅子にゆっくりと腰を下ろしながら首を振る。
「多分まだです。ほんの今まで腰が痛かったけど、今は少しも痛みませんから。」
「でも、ころんと落ちたらどうするんだ。ジルさんをつれてくるよ。」
「それなら私が。ウルリック殿は彼女の側にいてやってください。」
夫というものは妻を支えるものだ。リテアよりも一つ年下のオズワルドが分かっているのに、対するウルリックはすっかり慌ててリテアに沿うなんて事をすっかり出来なくなってしまっていた。
「ジルさんには印をつけているから大丈夫!」
言うなり現れた時と同様に姿を消したウルリックに、二人は瞳を瞬かせた後で互いに視線を合わせる。
「印とは?」
「多分、印をつけた相手の所になら魔法で移動できるんだと思います。」
「ああ、勝手に監視をしていたというやつか。」
ウルリックがリテアに黙って魔法による監視をしていた。それは移動魔法を操るウルリックにとってとても都合のよいもので。それを禁止されたウルリックが音を上げリテアを妻に迎えたのは、皇太子が悪気もなく暴露して回ったので城ではかなり有名な話だ。
「それを産婆にも、か。なかなか出来る方だな。」
オズワルドは感心しているようだが、勝手に印をつけられた産婆のほうはどう思うだろう。空間から現れた魔法使いに驚いて腰を抜かしでもしたら大変だ。
「きちんと許可をとるようにいわなきゃ―――」
見た目で受け入れられないだけでなく、行動までも嫌がられたらウルリックが可哀想だとリテアは心配になる。
「それでどうする?」
ウルリックはいつ何処にいてもリテアの居場所が分かる。オズワルドは領主館で産むのかと訊ねた。出産は家でするものなので領主館に道具は揃えていない。必要なら取りに行くがと問えば、リテアは家に帰ることを決めた。
「歩けるから大丈夫です。」
「陣痛は?」
「さっきみたいな痛みはないし、本当にあれが陣痛なのかわからないわ。でも不安だから一緒に来てもらえますか?」
「ああ、勿論だ。馬車で送るよ。それとも荷台のほうがいいのか?」
オズワルドも出産については知識としてしか知らない。貴族女性に至っては秘められることが多く、知っているのは庶民の女性が荷台に乗せられ運ばれている姿を偶然目撃した程度のものだ。
「荷台はちょっと……馬車を借ります。」
オズワルドはリテアの希望に沿い、クッションを大量に詰め込んだ馬車にリテアを乗せ住処へと送り届ける。その頃ウルリックは産婆に診察の依頼をし、歩みの遅い産婆を背負って領主館を目指していた。生きた人間を転移によって運んだ場合、空間を移動したせいで体に酷い乗り物酔いのような症状をもたらすからだ。気絶させてなら問題ないが、それでは産婆が使い物にならない。産婆を背負って領主館にたどり着いたウルリックはリテアとオズワルドが消えている状況に悲鳴を上げ、怒り心頭で一人魔法を使って移動すれば、たどり着いたのは我が家であったという事実に唖然となる。そんなウルリックを前にしてもオズワルドは冷静だった。
「それでは今度こそ私が産婆を迎えに行ってまいります。」
少しも慌てた様子なくウルリックの失敗を補う若い文官に、「申し訳ない」と背を丸めて頭を下げる姿は滑稽で。けれどこの場にはそれを揶揄う人間は一人もおらず、ただ時間だけがゆっくりと進んでいた。
*****
本格的な陣痛で苦しむリテアの姿に狼狽え、大騒ぎを始めたウルリックは産婆によって部屋から追い出された。苦しむリテアの声だけが届くが、扉の前で全身に蕁麻疹を患いへばりつく光景を、成り行きで居残る形になっていたオズワルドが冷静に見つめる。
高齢でいつ天からお迎えが来てもおかしくない産婆は平気でも、その補佐としてやってきた中年女性は駄目だったようだ。それでも愛する妻が苦しみぬく姿を目の当たりにし、女嫌いでありながら蕁麻疹と吐き気に侵されつつも励ますためにその場に居続けたのは称賛に値するだろう。オズワルドは叔父より戦場でのウルリックについて聞かされていたのだが、それが果たして事実であるのかどうか疑わしく感じるようになっていた。
戦場では敵なしの、慈悲の一つもない地獄から現れた悪魔のような魔法使い。その魔法使いは女が苦手だ。側にいるだけで蕁麻疹による痒みに侵され、吐き気が出現する。敵国が女を大量に戦場に送り込めばウルリックなど一瞬で使い物にならなくなるのではと、オズワルドの冷静な視線がウルリックを見下ろしていた。
対するウルリックは、出産が押し迫るリテアの状況に生きた心地がしないでいる。苦しんでいるリテアを見て代わってやれない我が身が情けなく、同時にこれほどの苦痛を伴う出産を押し付けたのをとても後悔していた。このいつまで続くかわからない苦しみと痛みの経験で、リテアが宿した子を厭うようになるのではないかと不安になった。
子供で繋ぎ止めようと妊娠させたのはウルリックだ。これでいい方向に向かうと喜んでいたのに、そのリテアは肉体にかつてない苦しみを味わっている。もしかしたら腹の子を消し去ってしまったほうがいいのかもしれない。リテアを苦しめる子供はウルリックの化身のようなものだ。出産で苦しみ、恨まれでもしたらいったいどうなるのか。愛される喜びを知っただけに嫌われたら何をするかわからない。それならいっそ、これ以上の苦しみを与えないために―――と考えていた所で。
「ウルリック殿、ウルリック殿。考えていることが全て口に出ています。」
オズワルドによって肩を強く揺らされ正気に戻された。
「女性はこの痛みがあるからこそ、どんな苦境に落ちようと子を守るのだと聞いたことがあります。」
貴族社会では勤めとして子を産む場合もあるので、現実にはそういう話ばかりではないが、暗い空気をまとい怪しい影をかもし出しているウルリックには嘘も方便だ。すべての女性に当てはまると言っておいたほうが安全なようなので気を利かせる。
「オズワルド殿―――ああ私はなんて下等なのだろう。君は彼女の仕事を引き受けるという理由で辺境まで足を運んでくれたというのに、二人で仲良くしている姿を盗み見て嫉妬して。私はなんて役立たずで無能な夫なのだ。どうかオズワルド殿、私共々リテアを頼む。」
どうかどうかと一回りも年上の大の大人に両手を強く握られ、涙を零しながら頭を下げられ懇願されたオズワルドは、よくわからないが取りあえず頷いておけば厄介なことにならないと判断し了承しておいた。
そうこうするうち、ウルリックだけが追い出された部屋より産声が上がる。やがて扉が開き、中年の女が顔を出すと情けなくもウルリックは背の低いオズワルドの後ろに隠れた。
「わたしは出ますから旦那様どうぞ。」
満面の笑みを浮かべた女性はウルリックの女嫌いを十分に理解し、不快にも感じず荷物を抱えて部屋を出ていく。女の姿が消えるとウルリックは、オズワルドの背中から抜け出し一目散でリテアが閉じこもる部屋に駆け込んでいった。
リテアの腕では柔らかなおくるみに包まれた赤子が、腫らした瞼を固く閉じて眠っていた。灰色の産毛がぴったりと頭部に張り付いている。
「瞳もウルリック様と同じ灰色でした。」
疲労困憊といった感じだが、とても幸せそうに微笑むリテアは本当に美しくて。
「この旦那は随分だね。何とか言ったらどうなんだい?」
領主の赤ん坊を取り上げるなんて栄誉が頂けるなら死んでもいいと、お産を依頼した時には興奮してそのままぽっくり逝くのではと案じられた産婆に容赦なく叱られて。ウルリックは寝台の横に膝をついて息を吐き出す。言葉にしようとして無理だった。
生まれ出る子が腹の中にいる時からウルリックはその姿を見ていたのに、実際に生まれてリテアの腕に抱かれているとまた違ったものとして感じる。
母親が子を胸に抱く姿はなんと神聖で、清らかで神々しいのだろう。心までも欲望で染まる己が触れるのは許されないような、そんな気持ちになり戸惑いを覚えた。
「触れると壊してしまいそうだ。」
生まれたての、皺だらけでほっそりとした赤子。リテアを愛し、手放したくなくて作り出された枷だというのに、子はどこまでも穢れなき光を発して母親は慈愛に満ちている。
何が枷なのだろう。汚れきった自分など入り込む余地はない。愕然とするウルリックにリテアがいつもの様に微笑みを向けてくれる。
「これから二人でこの子を守っていきましょうね。」
「二人で?」
「そうですよ。だって今日からウルリック様はお父さんになったんですから。」
その言葉にウルリックははっと息を呑んだ。
そうだ、そうなのだ。ウルリックは知らないが、子には必ず父親が存在して、母親を守り、共に子を慈しみ育てていく存在なのだ。男女が揃って子ができるという認識はあるものの、リテアをつなぎ止めるための手段として子を作ってしまったウルリックは、会話の上では父親になる認識があったものの、こうして我が子を形として目に止めるこの瞬間まで、実感としてはまるで捉えられず認識できていなかった。腹に宿す女とは異なり、十月遅れてようやく事実を事実として捉えるに至る。
「私が父親……」
誰がなんと言おうと、ほんの少し前までリテアの腹に納まっていた小さな命は、赤子という形で母親の腕に抱かれている。この、手を緩めれば瞬く間に儚くなってしまう小さな命は、ウルリックが守り抜かなければならないもので。リテアも同じく産み落とした我が子をウルリックと同じように守り抜く。それは時に命をかけることになってもだ。
「なんて事だリテア、ありがとう。私に子供が何であるか、本当の意味を教えてくれて。」
ウルリックは生まれたてのリテアの胸に抱かれる赤子に、恐る恐る指の腹でそっと触れる。月の宿る波のない湖面に指先を浸すような感覚に全身が震えた。
「ありがとう。命をかけて守るよ。君が与えてくれた奇跡に心から感謝している。」
囁くような声が漏れ、リテアが嬉しそうに片腕を伸ばしてウルリックの髪をなでた。




