その4
リテアの両親は都にあるヴィヴィツ侯爵家で働く厩番とメイドだった。二人の出身はヴィヴィツ侯爵領にある小さな村であったが、侯爵に仕える同僚として知り合い結婚し、のちに都にある侯爵家に配置変えとなって故郷を出て住み込みで働くことになる。リテアが生まれたのは二人が都に出てきた後で、リテアは両親の故郷に足を踏み入れた事は一度もなかった。
侯爵家に仕える両親のもとでリテア自身は特に不自由なく育つ。リテアも下働きとして仕事を持っていたが、七歳になると学校にも通わせてもらい、侯爵家に身を置く者として礼儀作法も教えてもらえた。侯爵夫人はできた女性で使用人を粗雑に扱わず、働く者たちは女主人を尊敬し、リテアも侯爵夫人を敬う心は大人たちに負けていなかった。
夫人はとても良く出来た方だったが、リテアが最も近くで仕えたご令嬢はそうではなかった。顔の作りはそこそこに美人で魅力的な体をもっていたので男性にはもてたが、屋敷の下働きを馬鹿にするしとても意地悪で、招いた友人と楽しく談笑する話の内容は人の悪口ばかり。そんなご令嬢に世界一の魔法使いと噂に高いウルリック=バンズとの婚約話が持ち上がり、リテアは早く二人が結婚してご令嬢がいなくなってくれないかなと子供ながらに願っていた。
「どうしてもと乞われては仕方ありませんものね。ラベル伯爵夫人のお屋敷でお会いしなくてはならないのだけど、夫人は帝家ともつながりが深いでしょう? わたくしがバンズ夫人となれば皇太子殿下とも顔を合わせる機会が多くなりますし、愛人にと望まれでもしたらどうしましょうかしら?」
訳の分からない文句を嬉しそうに友人達に話して聞かせているご令嬢を前に、部屋の隅に控えるリテアは、ウルリック=バンズと言う人が妻を未来の皇帝の愛人にするような人なのだろうかと疑問に感じて首を傾げた。
リテアは街を歩くウルリック=バンズを幾度か見かけたことがあったが、人目を避けるように背の高い体をマントで隠してフードを深くかぶっている。小さなリテアだから気付けたが、見た感じからすると派手な生活や出世を好むような眼をしていなかったように思えた。人は見かけによらないというからよくは解らなかったが、ご令嬢は結婚相手の事よりも王太子の愛人になる話を楽しそうにするばかり。彼女を囲むお友達も羨ましそうに声を上げて囃したてていた。
そんなご令嬢がウルリック=バンズとの顔合わせでラベル伯爵家へ出向いた日。予定時刻をかなり早めて帰宅したご令嬢は大変怒っていた。付き添った侯爵夫人の顔色も悪く、ご令嬢は怒りに任せ側にあった花瓶をたまたま目に留まったリテアに投げつける。花瓶はリテアの額に命中して割れ、リテアは水浸しになった。ご令嬢を叱咤する侯爵夫人の声に我に返ったご令嬢は、怒りに燃え醜く歪めた顔に引き攣った笑みを浮かべる。
「ウルリック=バンズは男色か幼女趣味らしいわ。あんな気持ち悪い男なんてわたくしはごめんですけど、お前なら気に入ってもらえるんじゃなくて?」
後になって知ったがご令嬢はウルリック=バンズに振られたそうだ。ご令嬢がすり寄った途端に顔を顰め、ご令嬢自慢の豊満なバストに嘔吐したのだという。しかもご令嬢を『気持ち悪い』と表現し失礼極まりない態度で。ご令嬢の怒りも最もだと思うが、そのせいで八つ当たりされる側からするとたまったものではない。花瓶をぶつけられたリテアの額はぱっくりと割れて血が流れていた。侯爵夫人の命令で医者を呼んでもらえたお蔭で傷跡は残らなかったが、夫人の行動が貴族社会で特別なのだというのはリテアもよく知っていたのでご令嬢を恨む気持ちは湧かなかった。
それから間もなくだ、リテアの父親が死んでしまったのは。突然の病で呆気なく世を去った父の死を悼む間もなく、今度は母がヴィヴィツ侯爵の寝室に引き込まれ一晩帰って来ない出来事が起きた。侯爵夫人がご令嬢を連れて領地に残す母親を見舞いに出てしまった隙に起きた事だった。
リテアの母親は人目を引くような美人ではないが整った容姿をしており、侯爵夫人の不在時にたまたま侯爵の目にとまってしまったのである。不運といえばそれまでだったが、戻った侯爵夫人は夫に抱かれた使用人を許しはしなかった。リテアの母親は主である侯爵を拒絶したが、追い出されても行く当てがないと仕方なく受け入れてしまったのだ。
侯爵夫人はこのようなことがない様に気を使い、使用人との関係を良好に築いていただけに裏切りと判断した。リテアの母親が侯爵を拒絶したせいで屋敷を追い出されていたとしても、夫と使用人の間に何もなかったならば夫人は使用人に次の仕事をきちんと紹介し、できる限りの情を示しただろう。だが夫人の不在時に使用人は侯爵と肉体関係を持ち、更に口止めの対価まで受け取っていたのである。夫人は女主として当然の処罰を使用人に下したのだ。
侯爵家を追われたリテアと母親は頼れる者もなく貧民街へと追いやられる。仕立ての仕事を得たが女手一つで生きていくにはとても足りず、リテアの母は体を売ることもあった。それを知ったリテアはショックで家を飛び出し、あてもなくふらついていた所でウルリック=バンズに目を止めたのである。フードで顔を隠し人目を避けるようにして歩く姿はとても世界一の魔法使いには見えない。女性に好まれる所か今にも倒れそうな顔色の悪い中年男性だ。実際には二十代前半だが、彼の年齢を知らないリテアにウルリックの疲れ切った姿は四十歳位に映ったのだ。彼に目を止めると同時にリテアはご令嬢の言葉を思い出した。
『お前なら気に入ってもらえるんじゃなくて?』
十歳の子供であってもリテアは幼女趣味というものがどういうものかちゃんと知っていた。幼女というには微妙な年齢の様な気もしたが、裏通りに入り貧民街へと足を向けるウルリックの背を追ってしまう。彼が薄汚れた壁に背を預けたのを遠くから見ていた。そのまま動かなくなったウルリックにかなり迷ったものの、リテアは勇気を振り絞って声をかけたのだ。
「わたしを買ってくれませんか?」
驚いた様に目を見開いたウルリックにリテアがもう一度同じ質問をしすれば、腰をかがめて視線を合わせられる。
「君は裸になって私のいいように扱われるという事だよ?」
ちゃんと意味が解っているのかと問われリテアは恐れずに頷く。母にできて自分にできない訳がない。父を亡くして嘆く間もなく屋敷を追い出され何とか生きて来たけれど、貧民街にまで身を落とし体まで売ってリテアを育ててくれる母親を少しでも助けたかったのだ。
けれど勇気を振り絞り声をかけたのに彼は幼女趣味ではないという。嘘か真か知らないが、ウルリックにリテアを買うつもりはないようだ。
「ごめんね、私では君を買ってあげられないよ。」
「そんな……そうですか。わかりました、ごめんなさい。」
母の力になれないと、肩を落として歩いていると優しげに声をかけてくれる人が現れた。こんな場所でリテアに声をかけてくる人間なんて碌な輩じゃないと知っていたが、顔を上げると身なりの良い紳士が優しげな目を向けている。でっぷりとまではいかないが張り出したお腹は貫禄があって堂々としていた。一目でお金持ちと分かる風貌に、こんな所にいて身ぐるみ剥がれてしまうんじゃないかと心配になってしまう。もしかしたら近くに用心棒でもいるのだろうかと見上げていると年を聞かれ十と答えた。
「三万ペスでどうかね?」
立派な口ひげを生やした紳士が発した言葉はとても紳士のものではない。けれど提示された金額にリテアは度肝を抜かれた。それだけあれば三カ月は余裕で生活ができる。
「お前次第で色を付けるがどうかね?」
「いろ?」
「働き次第で料金を上乗せするという意味だ。」
「もっとくれるの?」
そうだと頷いた男にリテアは不安になった。裸で横になっていればいいというのは知っているがどう働けばいいのか分からない。
「わたし―――初めてでよくわからないんです。ちゃんとできるように教えてくれますか?」
「おお、客を取るのは初めてか。ではお前は未通だな?」
首を傾げると男の前で裸になったことがないか、触れられたことがないのかと問われ頷けば男はとても喜んでくれた。
「なら五万だそう。だが未通が嘘なら罰として金は払わんがいいかね?」
「嘘じゃありません。本当にこんなことするの初めてです。」
「ならいい、来なさい。」
伸ばされた手を取れば男の掌はしっとりと汗ばんでいた。見上げるととてもご機嫌で酷いことはされそうにないとほっと胸を撫で下ろす。5万ペソももらえたら―――もしかしたら学校にも行けるかもしれないし、きっと母も喜んでくれると嬉しくなった。手を引かれ導かれた所で人が割り込んでくる。それがウルリックであると解り、ガイアズと呼ばれた男が咎められているのを知ってリテアはようやく現状を理解する。お金で体を売るというのはしていけない事なのだと知ったのだ。
「悪い様にはしないからついておいで。」
優しく言われても自分の仕出かしたことを理解して体が強張った。つれて行かれたのは街の治安を守る騎士団の詰所だ。騎士たちが処理してくれるからと姿を消したウルリックを見送ったリテアは恐ろしさが増して泣き出してしまった。すると女性の騎士が出てきて背を撫でてくれる。
「あなたみたいな子が体を売らなきゃいけないような世の中が悪いのよ。バンズ様のお口添えがあればきっといい方向に向かうわ。力になるから話してくれるわよね?」
促され相手が優しい女性だというのも手伝い、リテアはこれまでの出来事を泣きながら告白した。知らせを聞いて引き取りに来た母親は悲しい顔をしてリテアの頬を打ったが、その後で「ごめんね」と抱きしめられ何度も謝られ罪の意識が増す。リテアにこんな事をさせるために母が頑張っているのではないと改めて知ってリテアも声を上げて泣いた。ひとしきり泣いて迷惑をかけたと頭を下げる母に倣いリテアも頭を下げたが、そこへやって来た魔法使いの長でレオナルド=クレフという人がウルリック=バンズの代わりに話を纏めてくれるという。いったい何の事だろうと母娘で首を捻っていたが、翌日にはガイアズ商会から口止め料の意味合いで多額の援助が受けられるようになったと知らされ母娘二人して腰が抜けた。ガイアズ商会の会長が何をしたのかを秘密にしてくれるならという条件に母親は頷きリテアも従う。誘いに乗ったリテアにも非があるし、最初にウルリックを誘ったのでかなり後ろめたかったが、レオナルドは「金持ちから金を貰って何が悪い?」と笑顔で言い放ち、身寄りがなく貧しい母娘にガイアズの元会長が援助を申し出ているだけだ、素直に受け取ればいいとリテア達の心情を察してくれる。しかも学校で学んだあとはウルリック=バンズに勉強を見てもらえるというではないか。城での仕事も得られ将来につながる話に母親はとても喜んでくれ、リテアも同じ過ちは二度と犯さないと誓い、彼らの期待に応える為にも頑張ると決めたのだ。
ウルリック=バンズという人は目の下に万年グマを刻んだ、ひょろりと背の高い、見た目だけならうだつの上がらない病弱そうな中年男性だ。けれど実年齢は見た目より十以上も若く真面目で、一度仕事に熱中しだすと寝食を忘れ没頭する癖がある。そんな彼の健康を保つのがリテアに与えられた仕事だった。深くフードを被っていると骸骨が歩いているように見えるが、彼の目は暖かく嘘がない。そんなウルリックを慕うのに時間はかからなかった。食べるのを煩わしいと仕事に没頭するウルリックに自らの手で食事をさせるのも面倒に感じたりはしない。幼いながらにウルリックの役に立てる喜びをリテアは感じていたのだ。
そんなある日リテアの母が風邪をひく。冬の時期ならよくあることで、ガイアズ商会からの援助のお蔭で生活もできたので母親は仕事を休み、リテアは薬師から薬を仕入れて母親に飲ませた。だが一向に症状はよくならず、咳が強くなりリテアにも伝染してしまう。リテアは休みをもらい母親を医者に診てもらうと自らも薬を飲んだ。薬のお蔭でリテアの方はすぐに良くなったが、母親の病状は日増しに悪化する。学校を休んで看病するリテアがふとした拍子にうたた寝して目覚めると母親は息をしていなかった。
「お母さん?」
状況が飲みこめず母を揺すれば、冷たい感覚に血の気が引く。死んだ父に触れた時より一層、まるで氷の様な冷たさに全身が震えた。必死になって母を呼ぶが応えてくれず、喉が枯れ擦れた音が漏れる。反応しなくなった母に縋り付いていたが、やがて疲れ果てると自重で床に座り込んだ。
死んでしまったというのは感じたが、事実が飲みこめなくて唖然としていた。暖炉の火が消え外に近い温度にまで部屋の温度が下がっても、夜が明け外の喧騒が耳に届くようになってもその場に蹲って動けなかった。仕事の事も学校の事も何もかも忘れて、母を失った恐ろしさに唖然としていたが、ふと誰かに呼ばれて振り返れば、ひょろりと背が高くて顔色がとてつもなく悪い大人がリテアを見下ろしていた。