その32
リテアが普段仕事をする場所は皇太子の執務室の隣に設けられた一室だ。そこでは皇太子のすぐ側に仕える補佐官が長となり部下に仕事を振り分けている。
皇太子付きとはいえ最も下っ端で庶民出身の女という事もあり、リテアは扉の隣で執務に励む皇太子と言葉を交わす機会はなく、実際これまでに交わした会話は最初の挨拶だけだった。それに皇太子の執務室に入るのは補佐官か、彼に必要だと呼ばれた人間だけだ。それ故に皇太子の顔を垣間見ることすらない一日を過ごすのも珍しくはない。
初めは高貴な人の側というので緊張もあったが、皇太子の側に仕える高級文官は表立ってリテアに嫌味や文句を言ったり、庶民出身の女だからと差別をする輩もいなかった。彼らが心の内でどのように感じているのかはわからないが、どちらかというと好意的に接してくれているように感じる。そのお蔭で肩の力を抜いて仕事に打ち込めるようになり、初めは書類の配達という雑務が主な仕事だったが、近頃は上がって来た書類が皇太子の目に触れるのに値するかどうかという選別にも加わらせてもらえるようになり、仕事にやりがいというものを感じ始めるようになっていた。
それでも下っ端というのには変わりがなく、宰相府に出向くのは基本的にリテアの仕事だ。リテアはこの仕事が嫌いだが文句は言えない。書類配達が面倒だから嫌いなのではなく、持って行った先で待ち構えるオズワルドと挨拶を交わさなければならないのがとても辛かった。
オズワルド=シュトレーンには美しい双子の兄がいる。近衛騎士として勤める彼らは見目麗しく、女性たちからの人気もそれはそれは素晴らしく高かった。春のとある日、宰相府からの戻りで回廊を渡っている時に出会った二人は、リテアにも紳士的で穏やかに優しく好印象を与えてくれた。その二人が言うには、オズワルドは少しばかり屈折しているが悪い男ではないらしい。その『少しばかり』というのが双子の許容範囲でどの程度であるのか。兄弟というのもありかなり広い範囲なのは仕方がないとしても。
『化粧で誤魔化すくらいなら魔法師長になんとかしてもらおうとか考えろ。頭が良いくせに無能なのか、それとも傷を曝して相手を脅えさせているつもりなのかよ。』
『お前は魔法師長の愛人らしいじゃないか。女の傷を放置しているとは、やはり魔法使いってのはおかしな生き物なのだな。』
『ガイアズ商会の元会長とも通じているというじゃないか。綺麗な顔でどれだけの男を弄んでいるんだか。甘い汁を吸うと貪欲に求めるのは生まれのせいなのだろうな。その傷も男を弄んでの痴情の縺れか。だから魔法師長も放置しているんだろう。』
という類の言葉を会う度に幾度となく蔑むように浴びせられるのは、『少しばかり』に値してよい物だろうか。今日も容赦なく酷い言葉を並べるオズワルドをリテアはぼんやりと同じ高さの目線で見つめていた。
「なんだ、言いたい事があるなら言ったらどうだ?」
近頃はリテアを直接貶すというよりは、リテアの周囲にいるレオナルドを標的にしているように感じる。それも自分の事ならどんな文句を言われても右から左に流せていたが、レオナルドを悪く言われて顔を顰めたのが余程お気に召したらしい。一方的に捲し立てても反応が返って来なかった分、オズワルドはリテアの僅かな機微に反応できるようになってしまっていた。注意していても気付かれている風なので鋭い観察眼を持っているのかも知れない。
「キアヌ様が、弟は少しばかり屈折しているが悪い奴じゃないと仰られていました。」
「おっ、お前っ、兄上とお会いしたのか?!」
同じ目線だが、完全に見下す態度を取っていたオズワルドが一気に狼狽えだす。リテアは回廊でディファレイドとも会い少しだけ会話をしたのだと説明するも、狼狽するオズワルドの態度はあえて無視した。
「キアヌ様の仰られる通りなら、どうしてオズワルド様は魔法師長様の名を穢すようなことを口にされるのか。それが不思議で、いったいどういう考えがあるのかと思案していました。」
レオナルドは魔法使いの頂点に存在している。帝国では圧倒的に騎士の方が数が多いが、魔法という人知を超えた力はとても貴重で失う訳にはいかない存在なのだ。それだけの権力者の悪口を、たとえリテアを貶めるためとはいえ堂々と口にする様は少しも躊躇している節がない。誰かに聞かれて咎められるだけならまだしも、レオナルドの耳に入り自分の身に厄介事が降りかかるとは考えないのかが不思議でならなかった。特に貴族は外聞を気にする。魔法師長の悪口はシュトレーン家にとってもよくない事ではないのだろうか。
これまで幾多もの暴言や嫌味を言われた過去があるが、これ程あからさまに暴言を吐いたのはオズワルドだけだ。誰もが虎の威を借る狐と、ありもしない構図を作り出しリテアを非難していた。確かにリテアの後ろにはウルリックやレオナルドがいてそのお蔭でと罵られる。しかし罵る誰も彼もが二人を恐れて何処かで抑制している節があるが、それがオズワルドにはまるでなく容赦がない。よく解らないが、レオナルドに喧嘩を売っても特に問題にならない決定的な何かをオズワルドは持っているのかも知れない。レオナルドに不利になるものがあるのだとしたら、少しでも恩返しをと考えるリテアはそれが何なのか知りたかった。
「何度も言っていますけど、わたしとレオナルド様はそのような関係にありません。知り合ったのは全くの偶然で、あの方はとても出来た方ですので、貧しい人間が困っているのを放置できなかっただけです。」
冷静に反論すれば、オズワルドは拳を握りしめ小刻みに震わせている。これまでと違い嫌味を言うだけではなく、全身に力を込めて感情を押さえようとしているように見えた。
「人徳者だからこそ隠しているんだろう。魔法師長は愛妻家でも有名だからな。お前のような人間のいうことを私が信じるとでも思っているのか。」
フンと鼻を鳴らし目を細め優位に立とうとするオズワルドに、リテアは何時もの様に口を噤まずに反論する。
「失礼ですがオズワルド様。オズワルド様はわたしの何を知っているのです? これまでに頂いた言葉の全てに正解があったようには感じませんでしたが。」
「貴様っ!」
ついに言葉荒く怒りだしたオズワルドに、リテアは書類を押し付けると素早く距離を取った。
「失礼いたします。その書類、とても大切なものだそうなので皺をつけないようお気を付けください。」
「あ、待てっ!」
皇太子の署名と印がある大切な書類を握りつぶされてはたまらない。オズワルドはリテアが嫌いでとにかく文句を言いたいだけなのだ。リテアが消えれば正常に戻るだろうと、制止を無視してさっさと宰相府を後にした。
その日の夕方、リテアは久し振りに第二隊へ顔を出しクリスを呼び止める。同じ第二隊に席を置かなくなったせいで顔を合わせる機会はすっかり減ってしまったが、時折コリンと示し合わせて家へ足を運んでくれるようになっていた。
「待ち伏せとは嬉しいな。何、デートの誘い?」
残念ながら今から夜勤なんだと言いながら、どうせ街に出るので送って行ってくれるという言葉に甘えて帰路につく。肩を並べて歩くも二人の距離は恋人時代よりも遠くて友人の位置だ。初めは違和感を感じていたがすっかりこの距離にも慣れてしまったリテアは、促されて背の高いクリスを歩きながら見上げた。
「近衛騎士にシュトレーン子爵家の方がいるのだけど知っていますか? 綺麗な双子の兄弟で、近衛の中でも特に女性から人気があるんです。」
「あのキラキラした二人なら第二でも有名だ。まさかリテア、惚れたとかいうんじゃないだろうな?」
「そんな事あるわけないじゃないですか。」
まぁそうだよなぁと、クリスは複雑な心境で胸を撫で下ろす。恋人時代よりも物理的な距離は離れたが、声をかけ誘ってもらえるようになり精神的には深く繋がったような気分になっていた。初っ端から友人を選択したコリンは正解だったのだと思うと些か憎たらしくもある。リテアがやるだけやってウルリックと結果的に駄目ならば、今度こそ絶対に自分が囲い込むと決めてはいるのだが。まずはリテアの幸せの為に目の前の問題に向き合わなければならない。
「その二人が何?」
「宰相府にわたしと同期になる弟さんがいらして。ちょっと絡まれていて気になったものですから、シュトレーン家について何か知らないかと。」
一方的に言い掛かりをつけられるばかりだったが、それを放置していたリテアにも問題はある。だからそれを恨んではいないのだが、関係のないレオナルドを貶され続けるのも困ったものだ。そこで口を開き、キアヌとディファレイドの双子の事を口にすれば驚くほど狼狽えていた。二人の兄が怖いというには少し違いうような気もする。仕事で関わりがあるオズワルドとは文句の言い合いなどせずに、出来るだけ上手くやって行きたくて突破口がないかと探しに来たのだ。
「まぁ騎士だから貴族名鑑とかは覚えさせられるけど、俺は貴族でも何でもないからリテアと知ってることはさほど変わらないと思うよ。」
「例えば?」
「シュトレーン家は子爵ではあるが代々騎士の家系だ。現当主もかつては皇帝陛下の近衛だったし、その嫡男も陛下の側に仕えている筈だ。それから双子の弟の方は皇太子殿下だったな。ちなみに俺は二人の見分けがまったくつかない。シュトレーン子爵の弟は今も騎士団に在籍していてそれなりの地位についているし後は―――あれ? 同期ってことはその弟、騎士じゃないんだな。」
不意に気付いたクリスが腕を組んで首を傾げ、宰相府に席を置く文官だとリテアが答える。
「シュトレーン家は騎士道一筋だ。そういう貴族は政治に口出ししない方針で剣を帝家に捧げていて、恥を曝してはならないと幼少期より厳しい剣の指導を受けている筈だ。それなのに宰相府に席をおくなんて珍しいな。何か問題でもあるんじゃないのか。絡んでくるんだろ、変な奴か?」
「変というより普通に文句を言われるくらいです。ただわたしの事を言われるのは構わないのだけど、レオナルド様のありもしない事までしつこく口にされて。迷惑をかけたくなくて何とかできないかなと思って。でも今日はお兄さん方に会ったのを話したら急に動揺しだしたので、もしかしたらそこから何かが見えてこないかなってクリスさんに相談してみたんです。」
クリスは「へぇ」と僅かに目を見開いた後で不的に微笑んで見せた。
「成程ね。そいつ剣が持てないんじゃない?」
「剣が持てない?」
文官なのだから剣を持たないのは当たり前だ。意味が解らなくて聞き返せば、伝統に縛られる貴族ではよくあることだとクリスが続ける。
「シュトレーン家は騎士の家系だろ、双子の兄は家の期待通り近衛騎士として活躍している。けどその弟はどうだ、騎士ではなく文官だ。」
「彼も特例を受けて半年で卒業したとても優秀な方です。わたしよりも一つ年下だし。」
「その優秀な弟はリテアに首席を奪われて矜持を傷つけられたんじゃないかな。ありがちな話だ。剣が駄目なら学問で一番を取る。それが突然現れた庶民の女に追い抜かれたとなると、どんなに頭がよくてもとんだ恥さらしと陰口叩かれても仕方がない。」
ごく当たり前の、見栄に汚染された貴族社会の常識だ。当然貴族でもまともな存在は山といるが、心の広い家族に囲まれていたとしても一歩外に出れば、自分よりも弱い立場の輩を貶し潰して楽しむような屑は存在している。
「双子のお兄さん方は弟を貶すような人には見えませんでしたよ。」
二人ともリテアに好意的に話しかけてくれたのだ。近衛騎士としての習性もあるのかも知れないが、庶民出のリテアを無視するでもなく気安く声をかけてくれた。特に皇太子付きのディファレイドはリテアに触れようとしたキアヌの手をそれとなく止めてもくれて。まったくの他人であるリテアに対して心遣いの出来る人が弟に嫌味を言っているようにはとても見えない。
「家族がそうでも本人はどうかな。騎士の家系で剣がまるで駄目なら劣等感を抱かない訳がない。それでも自分の持っている長所を最大限に伸ばして認められようとして、最後の最後でリテアに追い越されたらさすがに挫折感を味わってもおかしくないだろう。俺たちからするとそんだけ恵まれてるんだからいいじゃないかと思えるような事でも、二番を取っただけで役立たずと感じる貴族も少なくない。だからって別にリテアが気にする必要はないからな。わざと負けてやれば更に誇りを傷つけることになる。」
だからもしオズワルドが成績の件でリテアを恨んでいるとしても全くの逆恨みだ。リテアは誰よりも努力した。オズワルドも努力したのだろうが、最終的にリテアが勝っただけだとクリスは語る。
「そういうもの……なんでしょうか。」
「今度絡まれたら言ってやれよ、シュトレーン家に生まれたのにどうして騎士にならなかったの? ってな。」
「それはちょっと……」
クリスもリテアにそんな嫌味が言えるとは思っていない。二人で顔を見合わせると、リテアがあまりにも難しそうな顔をしているのでクリスの指先がリテアの眉間をぐりぐりと押した。
「魔法師長には相談しないのか?」
レオナルドに絡む文句なら耳に入れてもいいんじゃないかと提案するもリテアはやんわりと首を振る。
「仲違いしたいわけじゃないんです。」
「君はいい子だよね。まぁ報復も有り得ないとは限らないし、面倒な奴ほど距離を取って接するのが一番だ。」
シュトレーン子爵家の人間は悪い噂を聞かないが、劣等感に苛まれる男がアルブレヒトの様にならないとも限らない。もしそうなればシュトレーン子爵が身分如何に関わらず女性を傷つけた息子を許しはしないだろう。けれど直接的な被害を被るのはリテアだ。クリスとしては距離を取ってくれる方が安心だった。




