その21
アグネーゼはけして頭が悪い女ではなかった。侯爵家に生まれ相応しい教育を受けた彼女は計算高く、いかに己を演出し、どのようにすれば欲したものを自らの手に収めるかよく理解している。彼女が望んだのは皇太子の愛人という立場に上り詰め、女としての栄華を極める人生だった。
それならば愛人ではなく皇太子妃を目指せばよさそうな話だが、そこには帝国の政治や他の王国の思惑も含まれ、たとえ侯爵家のご令嬢として生を受けようともなかなか手の出せない場所であった。それに皇太子妃から皇帝の妃へとなれたとしても、政治や思惑で繋がった婚姻であるには変わらず、その妃が女たちの中で絶対的な立場でいられるかというならそうではない。過去には幾度も妃を押しのけ、皇帝の寵愛を受けた愛人が宮廷の華やかな部分の中心に存在しているのだ。ウルリック=バンズとの結婚話が持ち上がった時、アグネーゼの脳裏に真っ先に過ったのは自分と年齢の釣り合う皇太子の愛人という立場だった。
ウルリック=バンズというのは庶民出身の魔法使いだ、本来ならアグネーゼが気にもかけない存在である。
けれど彼は戦場に立った先にて慣例に法り出陣した皇太子を守り、全幅の信頼を置かれていたと耳にしていた。それだけではなく帝国で最も優れた能力を持った魔法使いであり、それはすなわち世界一という事になるのだ。
たとえその容姿が枯れススキとなじられ死人のようだと噂されようとも、皇太子の側に寄る機会を得られるならいくらでも受け入れられる。そうして浮足立ち出かけた見合いの席で起きた出来事は、アグネーゼの自尊心を大きく傷つけただけではなく、体を武器に擦り寄る淫売という不名誉な噂までをも流されるきっかけとなってしまった。
社交界では微笑み笑い女の友情を確認しながらも誰もが敵だ。そのせいでアグネーゼには相応しい縁談がぷっつりと来なくなってしまう。しかもウルリック=バンズは輝かしい経歴を持ってはいるが、猫背でうだつが上がらない挙動不審の、見た目も汚らしく今にも死んでしまいそうな噂以上に酷い姿をしていたのだ。輝かしい経歴は過去のもので、どんなに素晴らしい力を持っていようとも魔法使いの頂点となる魔法師長の地位を手に入れることが叶わなかったばかりか、何の役職もなく一人寂しく部屋に閉じこもるネズミのような生活を強いられているという。
何が皇太子の覚え目出度いだ、第一線どころか地位や名誉と最も遠い場所に追いやられていようとは。そんな事を当時のアグネーゼは浮足立ちまるで気付けずにいた。
不名誉な噂が流れたせいで結婚相手を探すのには苦労したが、それでもエーリアル伯爵に声をかけてもらえたのは怪我の功名と納得している。アグネーゼからするとうだつの上がらない下っ端魔法使いよりも、地位と権力に貪欲なエーリアル伯爵の後押しを受け皇太子の側に出仕し、振れることを許される場所にまで上り詰められたのだ。
他の男が結婚相手では嫡男を産み落とすまでは貞淑さを求められるのでこうも上手くはいかなかっただろう。エーリアル伯爵には前妻との間に子供が何人も生まれているので、アグネーゼが腹を痛め産み落とす必要はまるでない。この腹は皇太子の子を宿すのにだけ使えばいいと、夫自らが完璧な避妊に協力してくれるのだ。男女のまぐあいは皇太子を陥落させ繋ぎ止めるのに必要とアグネーゼも納得して受け入れ楽しんでいる。目論見通り充実した日々を送っていたのだが、そこに現れたのが実家の侯爵家で雇っていた元使用人の娘だった。
とても美しい娘、その娘に嫉妬心を抱き思い出した素性に、アグネーゼはその後のリテアがどうなって今ここにいるのかをくまなく調べ尽くさせた。特にフローズン=ガイアズに関わる事柄は難儀したが、それなりの金を使ってフローズン=ガイアズの性癖まで知る機会となったのだ。
「冗談でしたのに、まさか本当に体を売っていたなんて滑稽ね。」
床に崩れ落ち意識を失っているリテアの頭をドレスの裾から覗かせた足先で小突き、下を向いていた愛らしい顔を曝して不敵な笑みを浮かべた。
「大事なお前を弄ばれたらあの魔法使いはいったいどう思うかしら。それとも子供でないお前になどとっくに興味は失せている?」
どちらでもいい、皇太子が興味を示した綺麗な顔の娘が憎たらしく弄びたくなっただけだ。大人しく野垂れ死んでおけば良かったものを、小さな娘に訪れてしまった幸運に苛立たしさを覚える。アグネーゼ自慢の豊満な胸に嘔吐したウルリック=バンズが良い思いをしたのも許し難かった。幼女趣味のあの男が成長したリテアに今も深い興味を抱いているとは考えにくいが、同じ屋根の下に住んでいるのだ。もしかしたらと言うのも有り得る。他の男にも抱かれているだろうリテアにこの程度では何の懲らしめにもならないかも知れないが、ウルリックにとってはどうだろうか。玩具が他人に取られたと知った時、ウルリックはリテアを放り出して新たな玩具を探すだろうか。その玩具をアグネーゼが準備してやるのも先が楽しみになるかもしれないと、ウルリックの周囲を掻き乱してやるのが楽しみでたまらない。
煙草の煙を燻らせ煙管を下に向ける。雁首に詰めた煙草の葉が赤い光を放ちながらリテアの柔らかな頬に落下し柔肌を焼いた。じゅっという音と共に人肌が焼ける臭いが立ち上る。範囲は狭いが重症の部類に入る火傷を負いながらも微動だにしない様子から完全に意識がないのが確認でき、アグネーゼは楽しそうに顔をほころばせた。
「連れて行きなさい。」
その一言で今まで空気の様に控えていた側仕えの娘が奥に声をかけると、娘にとっては同僚となる屈強な男が顔を覗かせ、意識を失い床に横たわるリテアを軽々と抱え上げた。
「娘を置いたら直ぐに戻ってくるのよ。」
エーリアル伯爵家の者はこの件に係わりはないのだからと、微笑むアグネーゼに娘と男はしっかりと頷く。二人は仕事を失うのを恐れていた。けれどそれ以上にウルリック=バンズという魔法使いからの報復に脅え、まかり間違ってもリテアを置いてくる場所に長居するつもりはない。ただ不思議でならないのはアグネーゼがウルリックの持ち物に手を出そうとしている事だ。けして頭の悪い女ではなかったが、皇太子に手の届く場所まで辿り着き、己を過信してしまったのやもしれない。
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一年のうちでも最大となる祭り。クリスがパレードに参加するのは今年で二度目だ。隊長を筆頭に参加するのは決まって二十代の騎士、もしくは国民に人気のある騎士という慣例ができあがっている。若く雄々しい騎士は多くの人々の憧れとなり、実際にクリスも子供の頃の憧れから騎士を目指し夢を叶えた。皇帝ご一家の後に続き参加するというのも誉に感じている。いるのだが、今年は遠慮したかったなと、手を振り返してくれた名ばかりの恋人が視界から外れ溜息を落とした。
リテアと一緒に祭りを楽しめたらどんなに良かっただろう。けれど職業柄この日に休みを取るのは不可能だ。パレードを終えると第二隊の隊長であるレッグスですら街の治安に繰り出すのだから。リテアはもう帰ってしまっただろうか。祭りを楽しんでもらいたいという気持ちもあるが、道行く男に声をかけられ強引に付き合わされるのではないかという心配もある。最も警戒する相手であるコリンが裁判官になる本試験前で来ないというのを知り安心していたがこの様だ。見回りがてらリテアを探してみようかとレッグスの巨体に視線を向けると、若いご婦人に声をかけられ厳しい表情をしているのが目に入った。
頼りになり部下に慕われる隊長だが何しろ筋骨隆々ででかい。そんなレッグスが若いご婦人に厳しい表情を向けているとなると相手を脅えさせてしまうではないか。第二隊の隊長が悪い噂に塗れてはいけないと駆けつければ「ちょうどいい所に」と太い声で呼ばれた。
「失礼します。」
寄ればご婦人の服装と二人の付き人を連れているのを確認し、かなり身分のある相手と解り丁寧に頭を下げる。見覚えのないご婦人だと思いながらレッグスに問う様に視線を向た。
「お前は今すぐにこのお嬢さんを連れて城に戻れ。」
このお嬢さんと呼ばれた娘に目を向ければ、ご婦人の付き人の一人が丁寧に腰を折り頭を下げる。城に戻るのは構わないが急に何だろうと言葉を待つと、ご婦人の方が「よろしくお願い致します」とクリスを見上げた。
「彼女を城に送り届ければいいんですね?」
「ええ、夫に伝えたいことがありまして。けれど登城を許されていない身では面会に手続きが必要です。万一が有ってはいけないので、第二隊の方の手を借りたいのです。」
確かに城勤めでない人間が中に入るにはそれなりの手続きが必要になる。そこを省くには騎士に同行してもらうのは最も早い手段の一つになるだろう。けれど夫への伝言で第二隊の隊長に直接頼み込み、騎士を一人借り受けようとは。このご婦人はいったい誰だろうと訝しんでいると、部下が失礼を働く前にレッグスが紹介した。
「魔法師長レオナルド=クレフ殿の奥方だ。それで奥方、伝言をお預かりできるならこれ一人に走らせた方が早いですが?」
「そうですね、けれど―――疑う訳ではないので気分を害さないで頂きたいのですが。個人的な事でもありますし、テレーゼが直接レオナルド様に報告するのが最善と。」
迷いを含んだが、やはり娘に行かせると伝言は預かれなかった。それでも貴族女性にありがちな高飛車な態度を示さないご婦人に嫌な感覚はない。クリスは了解したと頷き、テレーゼと呼ばれた娘を城へと案内する。
娘を連れ難無く門を潜り魔法師長室を訪ねるがレオナルドは不在だった。側を通りかかった魔法使いに所在を訪ねるも首を傾げられウルリックの所ではと返される。その場所を聞けば新しい所だと曖昧な答えしかくれず、それでもウルリックが仕事中に部屋を吹き飛ばしたのは記憶に新しかったのですぐに場所は知れたのだが。ウルリックも不在で肝心のレオナルドもいない。
「個人的伝言でも、さすがに今夜の夕飯は肉ですよとかってではないですよね?」
表情が硬い娘の心を解すよう、間を持たせる意味もあり冗談で問えば、きっと強く睨みつけられ肩を竦めた。
「思い過ごしならいいんです。でも万一という事もあります。旦那様の……旦那様が見つからなければウルリック=バンズ様で構いませんのでどうかお願いします。」
娘はクリスを睨みつけた途端に表情を崩して今にも泣きそうになる。一人で抱えて不安になっている様子だ。
「魔法使いは厄介なんだよな。まぁ仕事でもあるしちゃんと探しますから。」
「ありがとうございます。」
請け負ったクリスだったが、ウルリック程でないにしても引き籠り気味で気位の高い魔法使いに物をたずねるのは厄介な手間を要した。そしてようやく聞きつけたのは「皇太子の所じゃない?」というまたもや曖昧な物。皇太子が相手となるとクリスでは簡単に側に寄れない。パレードを終え早々に城に戻り仕事に励んでいるのか、それとも魔法師長と雑談か。クリスは知り合いの近衛を捕まえご婦人付きの侍女がレオナルドを訪ねてやってきている旨の伝言を頼んで暫く待つ。するとレオナルドは皇太子と共にいたそうで、普段は許されない場所への立ち入りが許可されたのだが。目的の部屋に到着するより早く慌てた様子のレオナルドが毛足の長い絨毯が敷かれた廊下を走って来た。
「悪いが話は後だ。」
テレーゼに気付いたレオナルドだが、妻が使わせた娘を通り越し急ぎ足でその場を去っていく。いったい何が起きたと周囲を観察するクリスの隣で娘が声を上げた。
「リテア様にエーリアル家の使用人が接触をっ!」
娘からリテアという思いもよらない名が叫ばれクリスは驚き目を見開いた。立ち止まったレオナルドは「なんだと?」と呟くや大股で舞い戻ってくるではないか。ぎゅっと下唇を噛み締めた娘がレオナルドに駆け寄り、クリスは慌てて後を追う。リテアにつながる何かを一言も漏らしたくなかったのだ。
「名は存じませんがエーリアル伯爵夫人の側に仕える侍女です、リテア様の腕を掴まれ何処かへ急いでいたようで。直ぐに後を追ったのですが見失ってしまいました。何かあってはと奥様にお知らせしたら旦那様のお耳に入れておくべきだとおっしゃられて。」
「何時の話しだ?」
「もう―――二刻ほど前になります。」
「くそっ!」
レオナルドらしからぬ声が漏れ苛立ちが周囲に伝わる。眉間に深い皺を刻み苛立たし気に前髪をかき上げるとクリスの肩越しに視線を向けられ、つられて振り返れば皇太子が直ぐ側にまでやってきていた。慌てて腰を折って場所を開ける。テレーゼは状況から目の前の男が何者か察し床に両膝を付いて頭を下げた。
「あの娘に何かあり、それで消えたのか?」
「恐らく。今はまだエーリアル伯爵夫人が何かをしたとしか解りませんが。」
「エーリアル伯爵か……これはまた厄介になりそうだな。」
揉み消せるだろうかと、皇太子は腕を組んで眉を寄せると神妙に呟いた。




