表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
19/45

その19



 女が煙管の先で煙草を燻らせる。一回り以上年上のエーリアル伯爵に嫁いでより覚えた嗜みを、女は久し振りに心から美味しいと感じ、赤みを帯びた唇に弧を描いた。


 「どうしたアグネーゼ、ずいぶん楽しそうじゃないか。皇太子を落とす算段でもついたか?」


 でっぷりと反り出した夫の腹が妻の芸術品の様に美しく括れた細い腰に触れる。生暖かさに不快に感じるそれすら、今の伯爵夫人には機嫌を害するものとは成りえなかった。自慢でもある豊かな胸を背後から腕を回した夫の湿った掌が弄ぶのを、仕方がないと許せる広い心がもてたのは何時振りであろう。


 ヴィヴィツ侯爵家の令嬢として生を受けたアグネーゼはそこそこの美人で、早熟であった故に豊満な肉体は独身男性だけではなく既婚男性にも広くもてはやされた。アグネーゼは己の魅力を正しく理解し、自分に最も相応しい居場所は未来の皇帝となる男の隣と、野心も大きく抱いていたのだが。

 生まれた先がヴィヴィツ侯爵家という高位貴族ではあっても、正式な妃として迎え入れられるには公爵家や他国の姫には劣る。父のヴィヴィツ侯爵もそれほどの野心を抱いてはおらず、娘を売り込まない父親にアグネーゼは常々大きな不満を抱いていたのだ。


 そんなある日、世話好きなラベル伯爵夫人より世界一の魔法使いと噂され称えられるウルリック=バンズとの結婚話が持ちこまれ、アグネーゼはまたとない機会と一も二もなく話に飛びついた。ラベル伯爵夫人は皇族の血を引き帝家とも繋がりが深い。そればかりか見合い相手のウルリック=バンズは、当時はまだ世継ぎと認められていなかった皇太子が戦場に立った際に最も近い場所で力を振るったと聞く。これは皇太子に近づき寵愛を受ける好機と向かった先で、アグネーゼは過去にも未来にもけして受けたことのない侮辱を受けたのだ。


 思い出しても腹立たしい限り。ウルリック=バンズに肌を曝し色目を使ったという噂を立てられ、それが原因で純潔を疑われたアグネーゼに良縁が運ばれることはなかった。けれどそれも今となっては大した問題ではない。己の野心の為に後妻を探していたエーリアル伯爵に目をつけられたお蔭で、初めから望んでいた皇太子の側に上がることが叶ったのだから。天はアグネーゼに味方している。後は自身が持つ魅力で皇太子の寝所に招かれる努力を惜しまず続けてさえいればやがて報われるに違いなかった。何しろ自分にはこれだけの体があるのだからと、背中に唇を寄せる夫の手をぴしゃりと払い除けた。


 「いつどうなるか解らないのです、跡はつけないでくださいといっているでしょう?」 

 「人の物だと思うからこそ燃えるというのもあるのだがな。」

 「その策はまた、後に取っておきますわ。」


 振り向いたアグネーゼは煙草の煙を夫に向かってふっと吹き出す。


 「先日お城で皇太子殿下のお相手をしておりました折に、わたくし面白い物を見つけましたの。」

 「面白い物とは?」


 咳き込みながら怒るでもなくエーリアル伯爵は先を促した。


 「ウルリック=バンズの養い子とかいう娘ですわ。何処かで見た事のある顔と思っておりましたらなんとまぁ、我が侯爵家を追い出された小娘ではありませんか。」


 下級文官と解る印を身につけた凹凸おうとつの少ない棒のように貧相な小娘は、あろうことか皇太子の気を引き足を止めさせたのだ。成人したばかりの年頃の痩せこけた、女の魅力に乏しい娘。けれどその容姿ははっとさせられる繊細さと美しさが混じり合い男の保護欲をそそるものであった。身分一つによっては皇太子が手を出す程の、忌々しさに御前憚らず足蹴りにしてしまいたい衝動に駆られ押さえるのに必死だったが。思い出したのだ、その娘が母親と共に屋敷を追い出された労働階級のしがない少女であったのを。


 「ウルリック=バンズの幼女趣味は事実だったようですわね。あの年頃になっても許容範囲なのは貧相な体が好みだからなのかしら。」

 「その娘、もしや皇太子の興味を引いているのではなかろうな?」


 何の為にヴィヴィツ侯爵に頭を下げアグネーゼを後妻に迎えたと思っているのだと、大きな腹を揺らす夫にアグネーゼは無邪気さを装った笑いを漏らす。


 「わたくしが腕を絡めるとまんざらでもないご様子。お妃にご遠慮していらっしゃるのでしょうけれど、寝所に招かれるのも時間の問題かと。それよりもわたくし、ウルリック=バンズとあの娘が嫌いで仕方ありませんのよ。」

 「これに嘔吐されたのを未だに根に持っているのか?」


 まりの様に大きく白い胸を遠慮なく鷲掴みにした夫に、妻は満足そうに目を細め胸を突きだした。


 「少しばかり、退屈しのぎをしようかと思いまして。抱いてみたいのならその様に運びますが?」


 何よりも自分の魅力に気付かず拒絶したウルリックが許せない。長く忘れていた感情が湧き起ると同時に、夫が死んだ途端に父侯爵と関係を持ち、それを母に知られ追い出された母子に訪れた幸運を摘み取り奈落に落としてやりたい衝動に駆られたのだ。

 最下層のものは下層で大人しくしていればよいものを。高みに持ち上げられた所を突き落とされる、その時の表情が見てみたいとアグネーゼは微笑むが、エーリアル伯爵の方はほんの少し考えた後で否定的な答えを漏らした。


 「まったく興味がないとは言わぬが、あの魔法使いには係わるな。それにお前を嫌うような男が貪る娘など大したものではなかろう。私は熟した実の方が好みだ。」

 「ええ、そうでしょうとも。あんな小娘―――」


 襤褸雑巾ぼろぞうきんにしてウルリック=バンズにお返しして差し上げるわと心で囁き、夫の唇を胸に受けながらアグネーゼは乱れた寝台に倒れ込んだ。



 

 *****


 コリンとの再会は彼が城での研修を終える前日の昼休みだった。研修を終え試験を受けて合格すれば裁判官への道を歩むことになるが、この研修も試験の一環であり、世話になった上司によると落ちる心配はないとの事で、友人の将来が確実な物となりリテアはほっと胸を撫で下ろした。


 「パフィス語が苦手なのは変わらないんだけどね。リテアみたく得意科目には永遠にならないみたいだよ。」

 「そんなことを言うけど、今じゃコリンの方がずっと堪能じゃない。」


 リテアの語学力は学校で学んで以降は特に進展していない。それに比べコリンの場合は裁判官になるだけあって専門用語に長けている。そもそも今の二人を比べるのが間違っているのだと微笑むリテアに、コリンも優しく微笑んだ。


 「君が元気そうでよかったよ。」

  

 アブリルが都を離れたのをコリンも知っていた。セルダンがどうしているのかも把握しているが、あえて話題にしないしリテアも知りたいとは望まない。


 「所でその……この前見たあれ。本当に付き合ってるの?」


 聞かれると思っていて覚悟はしていたが、いざその時になると恥ずかしさとか後ろめたさとか、様々な感情が混じり合いうつむき加減になってしまう。それでも誤解を与えないようしっかりと頷いた。


 「リテアはウルリック殿を好きなんだって思っていたよ。」

 「もちろん大好きよ、最初からずっと。」


 幼い頃の敬愛が男女間の感情に変わる瞬間は覚えていない。けれど最初からウルリックの事は好きだったと、顔色の悪い魔法使いを見上げていた頃の記憶を思い起こす。

 それならどうしてと問うコリンに、知っているでしょうとリテアは苦く微笑んだ。


 「受け入れてはもらえないっていうのは初めから解っている事だもの。これからは特に。」

 

 ウルリックの女嫌いは治せない。大人になったリテアにいつ拒絶反応を起こすか解らない状態で、心の内を告白すれば瞬く間にそれがきっかけとなり表に出てしまうだろう。出来るならこのまま、拒絶されないままの関係で巣立っていきたいと願う。


 「だからってあいつを好きなのかと言えば違うんじゃないのかな?」

 「クリスさんは巻き込まれてくれているんだと思う。いけない事だと解って別れようと考えたけど、全部わかっていて受け入れてくれるの。」

 「それはリテアが拒絶しきれなかっただけなんじゃないの?」

 「そうとうも言えるけど―――」


 はっきり言えばその通りだ。リテアの心が何処に向いていようと、ウルリックに告白できず未来も望めない関係。そんなリテアを引き受けたいと強く願われ、嫌とは言えなくなってしまっている。けれどクリスは受け入れてくれていてもリテアの心はウルリックに支配されたままだ。何時この感情が呆気なくなくなってしまうのか。その日が来るのが怖くて、けれどクリスはそれを願っている。その先でリテアを待ち続けてくれているのだ。そうまでしてくれる相手なら、ウルリックへの感情がなくなった時にはクリスの元へ向かわなければいけないのだとリテアは決めていた。


 「僕では駄目だった?」

 「コリン?」


 驚いて瞳を瞬かせるリテアにコリンは小さく笑って視線を外す。今の態度が全てを語っていた。


 「僕はリテアとの居場所が欲しくて早々に戦線離脱したんだ。それなのにあいつに言われたからって、腹を立ててこんな風に言うなんて卑怯だったね、ごめん。」


 すべてはクリスの言う通り、リテアと一緒にいるために自分で告白したのではないか。友達になりたいのだと。それを受け入れてくれたから二人は今の関係に落ち着いていられる。手放せと言われても出来ない立場だ。


 「僕は意気地いくじなしなのかもしれないけど、やっぱり君と友達で有り続けたい。」


 コリンの心がどうあるのか。そこまで鈍い訳でもないリテアはどうしようかと迷うも、優しいコリンの答えに感謝して気付かぬふりを通す。この関係を壊したくないのはコリンだけではない、リテアも同じ気持ちなのだ。


 「アブリルがグラセードに行って、コリンまでいなくなったら寂しすぎるわ。」

 「ありがとうリテア。」

 「わたしこそ―――都合よすぎるよね。」

 

 コリンはリテアに、『君はクリスから気持ちを利用されているのだよ』との忠告はしなかった。きっとリテアも解っているだろうと思い、ならば何も言うまいとコリンは口を噤んだまま笑顔で返す。その様を死角になる少し離れた場所でクリスがじっと見つめていた。


 嫉妬と牽制の意味を込めリテアの首筋に赤い印を残してより、ウルリックからの接触もしくは報復めいたものがあるやも知れないと構えていたが梨の礫だ。保護者であり女嫌いであるウルリックは、養い子であるリテアを囲い込んではいるが、見えない牢に閉じ込めて一生を過ごさせる気はないようで。そうなるとクリスの敵となる存在は不意に現れたコリンとかいう男となる。


 多くの友を作らずにいるリテアが友人と認めた相手でありしかも男だ、警戒しない訳にはいかない。クリスとは異なり、恋人などではなく男女間の友情を長年に渡って成立させてきた相手は、一歩間違えば強敵と成りえた。


 ウルリックの元から放りだされる予定のリテアを囲い込む役目は自分でなければならない。けれど誠実であろう人柄が誰の目にも見て明らかなコリンという存在は、今のクリスにとって邪魔でしかなかった。


 恐らく今、ウルリックの元からリテアが離れなければならない状況になったとしたら、取りあえずの避難所として頼るのは自分ではなくコリンとなってしまうだろう。恋人という位置を無理矢理確保しているクリスではなく、友人であり、恋心を抱きながらも手を出す勇気すらない『いい人』と評される存在は、年頃の女性を安心させるだけの力を持っている。恐らく同じ屋根の下で一晩過ごしたとしても、自分からはけして手を出さずに時が過ぎるの待つだけの男だ。悪く言えば意気地がないが、頼る者のない弱い立場からすると安心できる場所と成りえてしまうとても迷惑な存在。そうなったら最後、頼る存在を見つけたリテアは、二度とクリスの元へは戻ってきてくれなくなってしまうに違いないのだ。


 だからこそ二人の会話に入り込み、いらぬ情報を吹き込まれたくはなかったのだが。リテアが連れ添う友人と、恋人であるはずの自分との距離感がまるで同じで、どんなにあがいても入り込めない領域であるのだと突き付けられた気持ちになり踏み込むのを躊躇してしまった。


 じっと見つめた後、気付かれぬままそっと離れる。人の心は呆気なく、簡単に変わると教えたのはクリス自身だ。けれど今、そんな日は来ないだろうと己の痛み震える心に手を添える。彼女の心からの笑顔を何時から認めなくなってしまっただろうかと考えながら。





評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ