その18
何時ものように笑ってくれているのに微笑が怖い。いや、そもそも笑っているのは可笑しな反応ではないだろうか。そう感じながらリテアはクリスの薄い緑の目を真っ直ぐに捉えていた。
ウルリックが帰宅して幾日かが過ぎる。きちんと話さなくてはいけないと思いながらも、外勤のクリスとは文官であるリテアの接点は少なく、特にクリスの方から訪ねてくれなくては顔を合わせる機会は皆無に等しい。そうなるとリテア自身が動いてクリスが仕事をしている場所に出向くか、独身の騎士が生活する宿舎に赴かねばならず、迷ったものの後者を選んでリテアはクリスを訪ねた。しかし部外者は中には入れてもらえない決まりになっており、取り次いでもらっても不在であることの方が多く、再び顔を合わせるまでにかなりの手間と時間を要することになったのだ。会いたくないのだろうと申し訳なさと後ろめたさの両方を覚えたが、ようやく会えたクリスはご機嫌に笑顔でリテアを迎えてくれたのだが。
「俺と別れたいの?」
ごめんなさいと頭を下げて謝るリテアに、何を馬鹿なとでもいうかにクリスが声を上げて笑う。
「ごめんなさい、やっぱり軽く考えるなんて出来ませんでした。」
「でも上手く行ってたよな?」
「そうですけど……でもそれはクリスさんが色々我慢してくれていたからで。」
だからこのまま恋人という関係を続ける事は出来ないとはっきり言えば、クリスは笑顔とは裏腹に瞳には探る様な色を覗かせる。
「あのコリンとかいう男に何か言われた?」
コリンともあの日より顔を合わせていない。研修で城に上がっているのだと本人も言っていたが、裁判官になる過程において城での研修があるというのはリテア自身が調べて知るに至る。裁判官になるには沢山の事を勉強しなければならないので、邪魔をしてはいけないという理由を建前にまだ顔を合わせてはいなかった。
「そうじゃなくて、自分でそう考えたんです。わたし、その……ウルリック様が好きなんです。」
言葉にするのは迷ったが誠実にぶつかるべきだと思い告白した。けれどリテアの告白をクリスは軽く笑って跳ね除けてしまう。
「そんなの最初から解っていたさ。自覚してなかったのはリテアだけで、あのコリンとかいう奴もそう感じたから友人なんて地位に甘んじているんだろ。今更な答えだ。そんな理由じゃ別れられないな。」
「でもっ、この気持ちは消えません。」
「消えるよ、そんな物。呆気なくね。」
時間が経てば本当に呆気なく消えてしまう瞬間があるんだと、クリスは諭すように告げる。
「リテアの感情は擦り込みなんだよ。親を亡くして優しい保護者に囚われて、安全な場所にいる幸せを男女間の愛情に置き換えてしまっているだけなんだ。リテアがウルリック=バンズに恋しているのは君とこうして言葉を交わすようになる前から気付いていたさ。でもな、ウルリック=バンズは素晴らしい保護者かも知れないが、けして君を女としては幸せにしてくれはしない。」
同じ屋根の下で共に暮らせる時間もそう長くはないだろうとクリスは続ける。
「ウルリック=バンズの女嫌いは筋金入りだ。それだけ心を寄せて縋っている状態で、いざ拒絶さた時に君は大丈夫なのか。さぞや保護者殿も心配だろう。だからこそリテア、君は飛び立つべきなんだ。俺は君が好きだからその着地点にいたい。」
その日が来る前になるべく早くウルリックの側から抜け出すべきなのだと、クリスは尤もらしい意見を並べゆっくりと距離を縮めリテアへ歩み寄る。
「この前の事は謝るよ、ウルリック=バンズに向ける嫉妬で君との約束を破った。望まない事は二度としないと誓う。君の心を手に入れられるかどうかは俺の努力次第だ。リテアにウルリック=バンズ以外の想い人が現れるまで一緒にいよう。それが俺以外の男だったら正直悔しいが、その時が来たら潔く身を引くと誓うよ。だから別れるなんて言うな。俺は君が好きだ。君の心がウルリック=バンズに向いているのなんて初めから承知している。」
だからそれ以外の理由があるのなら納得して別れてやると、クリスは近い位置からリテアを見下ろした。
「ウルリック殿は己を正しく理解しているんだろう、君を手放す時を悟っているに違いないんだ。その時に俺が側にいることでウルリック殿を安心させてやれるかもしれない。」
リテアの心がウルリックに向いているのは初めから解っている事だ。あのきらきらした瞳の輝きと笑顔は、何の疑いもなく目指す先にある保護者へと向いていた。幼い少女だから恋をしない訳じゃない。ただそれを正しく受け取れるほど心が成長していなかったのだ。ウルリックにそのような感情を向けてはいけないという、子供ながらの鋭い感覚で悟っていたというのもあるだろう。それは今も変わらずリテアの心に留まり続けており、クリスはそれを利用してリテアに近づいた。
「君は相応しい男を見つけて幸せな結婚をして家庭を築く。ウルリック=バンズも君の幸せを願っているに決まっているんだ。恩を感じているならそれに答えろよ。俺の気持ちを利用しているなんて思う必要は微塵もない。俺はリテアと一緒にいられるだけで幸せなんだから。」
これはウルリックの為でもあると言われ、リテアは戸惑い瞳を揺らした。
「やっぱり許せない?」
約束を破って強引にキスした事を言われ、リテアは反射的に首を振ってしまう。
クリスは初めから優しかった。強引なようでいて少しずつ進めていこうと誠実に接してくれたのは、リテアでも気付いていなかった心を悟ってくれていたからだ。それでもいいと言ってくれ、心を寄せてくれる人に『嫌い』なんて言葉を告げることはできないし思ってもいない。届けられない想いの辛さを知った今は拒絶される辛さも解るだけに、許せないから別れるという流れはなかったのだ。
「クリスさんを許せないんじゃないんです。こんな気持ちで付き合を続けることが出来なくなってしまったんです。」
「俺は構わないのに?」
「ごめんなさい。」
「う~ん。それじゃあさ。」
クリスは頭を下げるリテアの額を指で押して上を向かせた。
「許すから、その代わり今のままの関係を続けてよ。」
「クリスさん!」
それじゃあ何も変わらないではないか。
声を上げるリテアにクリスは口の端だけで笑い、リテアの背にぞくりとした感覚が走った。
「リテアは真面目に考え過ぎなんだ。想う相手がウルリック=バンズ以外の男でない限り、俺は君を手放さない。」
初めて露わにされた独占欲にリテアは戸惑い返す言葉を失う。いや、これまでにも見せられていたのかも知れない、それにリテアが気付けなかっただけではないだろうか。怖気づいたリテアにクリスがすかさず失敗を補う。
「俺は君が好きなだけだ。リテア、君がウルリック=バンズを掴み取らないなら、俺と一緒にいてくれても構わないと思えるよう努力するよ。一人が寂しいのは君だけじゃなく俺だってそうだ。だから拒絶だけはしないでくれ。」
この時代、この世界で女が一人で生き抜くのは些か障害や問題が多くある。男性優位の世界で頼る者もないとなると更にだ。クリスはそれも踏まえリテアに愛を乞い諭す。何もかもを手放して一人寂しい世界に放り出されるのだと暗に込めるクリスに、リテアは父を、そして母を失った時の絶望感を思い出していた。
こんな時だからこそアブリルに相談したい。そう思ったが、結局ばたばたして東のグラセードに向かうアブリルとは会えず仕舞いだ。南の果てとは異なるが容易く会いに行ける距離でもない。結局一人では何もできない状況にリテアは無力さを痛感していた。クリスの言う通り、後ろめたさや申し訳なさに後悔し意気込んで心の内を告げても、さらに奥を探り出され言い包められる。何よりも恐れているのはウルリックと離れる事だが、同時に一人になる恐怖を主張されると考えを貫くことが出来なくなってしまうのだ。
曖昧な感じでクリスと別れた後、俯き考え事をしながら歩いていたせいで前に注意を向けていなかったリテアは人にぶつかってしまう。
「おっと失礼。」
ぶつかった相手はびくともせず、弾き飛ばされそうになったリテアの腕を咄嗟に掴んで支えてくれる。
「いえっ、こちらこそ申し訳ありません。」
ぶつかってしまった相手の身分を知って頭を下げる。若い騎士が着ているのは近衛騎士の制服だ。しかもその相手には見覚えがあり、視界の端に映り込んだ姿が誰であるかを悟や否や、リテアは更に腰を落として頭を下げた。
何時の間にか立ち入るべきでない場所に足を向けてしまっていたようだ。下級文官であるリテアには立ち入り禁止の制約も多い。それでも咎められるような場所には守衛がいるはずなので、厳罰に処されるのだけは免れるだろうが、ここでぶつかってしまった相手が近衛であり、彼らが守るべき主がこの場に存在する事実にリテアは慄き身を震わせる。
「あれ、君は確かウルリック殿の?」
近衛も気付いたようで問いかけてくる。不審な輩なら排除するのだろうが、ウルリックの養い子となるとそうはいかない。例え貴族出身で固められた近衛であっても、ウルリックに関わる人間が相手なら礼を欠いてはならないと彼らも理解していた。近衛の問いかけに反応したその人がリテアに興味を示したのか、近衛が場所を譲ったせいでリテアの視界へ完全に入り込んでしまう。
「ウルリック=バンズの養い子か。覚えておるぞ、恐縮する必要はない。面を上げよ。」
足を止められたことを怒ってはいないようだ。自信に満ちた太い声に呼ばれ、リテアは恐る恐る顔を上げる。皇太子は前回同様、威厳ある視線をリテアへと向けていたが、彼の後ろには幾人かの女性がおり、その中に見覚えのある顔を見つけたリテアは逃げるように視線を反らした。
「何を恐れるか、とって喰おうという訳ではない。いくら私であってもウルリック=バンズの怒りを買うつもりはないぞ?」
何がおかしいのか、皇太子の言葉に周囲は小さな笑いと『いやですわ、殿下』といった、含みのある女性たちの声が立ち上る。
「これより第一隊の訓練を見学に行く所だ。見目良い騎士も多く在籍している、其方も一緒にどうだ?」
「いえ、あの……」
高貴な人間は時折騎士たちの訓練を鑑賞するという暇潰しに興じるのだとか。皇太子はご婦人方の機嫌を取る為に第一隊の訓練場へ向かっている所なのだろう。例え誘われたからといってリテアなどが同席を許される相手ではない。だからとて断りの文句を言える訳でもなく、縋るように側の騎士に視線を向けると他の場所より助け舟が出された。
「殿下、お戯れもほどほどに。下賤の者にとって殿下のお言葉は至極の喜びとなりますが、行き過ぎるのはいかがなものかと。娘も困っておりますわ。」
年月が過ぎても忘れはしない、大きな胸を揺らしながらヴィヴィツ侯爵令嬢が皇太子の隣に立ち意見を述べる。下々の人間など放っておけと汚いものを見る視線をリテアに向けていたが、そんなのは慣れているので悔しくも恥ずかしくもない。逆にそう言ってくれたヴィヴィツ侯爵令嬢に感謝の気持すら抱いてしまう。今はエーリアル伯爵と結婚し伯爵夫人となっていたが、皇太子と共にいるという事は彼女が望んだとおり皇太子の愛人になれたのだろうか。他の女性たちに比べると特に己を主張しているように見えた。
「エーリアル伯爵夫人、そう言いながら娘の若さと美貌に嫉妬しているのではあるまいな。」
「嫌ですわ殿下、わたくしがこのような下賤な娘に劣るとおっしゃるの?」
心外ですわと大きな胸が皇太子の腕に押し付けられ、流石にこれはとリテアも眉を寄せた。女の色香ならぬ誘惑する気満々な雰囲気に、同性のリテアですら気持ちが悪くなる。押し付けられる豊かな胸に魅力を感じる所か、窒息させられるのではという恐れを感じた。対するヴィヴィツ侯爵令嬢、もとい、エーリアル伯爵夫人はリテアの貧相な胸に視線を向け、勝ったとでもいうかに鼻を鳴らす。そうか、皇太子という人はこういう女性が好みなのかと思っていると、その皇太子と視線が合ったせいで不敬にも慌てて反らしてしまった。
「まぁいいだろう。娘、機会があれば相手をしてくれ。ウルリック=バンズが寄せ付ける唯一の女だ、面白い話が聞けそうではないか。」
皇太子は近衛の一人にリテアを送り届けるよう言いつけると、ご婦人方を引き連れ去っていく。ほっと息を吐いたリテアは、皇太子命令で残された近衛に申し訳なさを感じながら第二隊の事務所まで送られる。近衛は嫌がる態度もなく、終始穏やかに取り止めのない話をして時間を繋いでくれた。




