その17
寝台の脇に置いた蝋燭に火を灯す。夜は更けとうに日付を跨いだ時刻。夜が明け日が暮れる前に帰宅するであろうウルリックを待ちわびる気持ちはあるが、眠れないのはそのせいではない。
何も解決させずに置いてきてしまった。クリスは痴話喧嘩といったが喧嘩なんてしていない、現れたコリンに対するただの言い訳だ。コリンはどんな風に感じたのだろう。とても驚いていたのは彼にクリスとの付き合いを話していなかったからだ。
クリスと付き合い始めてからコリンと顔を合わせたのは昨日の再会が初めてだ。友達なら話しておかなければならなかったのだろう。再会したあの時に話してしまえなかったのは、とても悪いことをして咎められている気持ちになってしまったからだ。唇を重ねるのも恋人同士なら当然なのに罪悪感が湧いた。リテアもクリスも大人で、自分に自分で責任がとれる年齢なのだから、それ以上の行為に進展していてもおかしくはない。けれどリテアはそう思われるのが嫌だった。勘違いさせたのなら訂正したいと思う程に。
恋人としてクリスと進んで行こうと決めていたのに、あんな風に抵抗できない状態で口付けされて恐怖を感じた。本当なら嬉しいという感情を持たなければならなかったのに、驚き過ぎてリテアは間違えてしまったのだ。
「やっぱり、違ったんだわ。」
なんとなくや軽い気持ちで始めていいような事ではなかったのだ。次にクリスと顔を合わせた時に笑顔を見せられる自信がない。こういう関係は終わらせるべきなのだろうと思いながら、リテアは蝋燭の頼りない炎をぼんやりとみつめる。
好きだと、切ない吐息と共に吐き出された告白は、リテアの胸を締め付ける。簡単に別れを切り出せない位に、後ろめたさからクリスの望むようにしなければいけないような気持にすらなっていた。アブリルとの違いにため息が漏れる。最後には壊れてしまったが、セルダンと交際中のアブリルはとても幸せそうだったのに。自分は幸せそうに見えているだろうかと溜息を落とした所で、物音を感じて寝台から身を起こす。すぐ側ではないけれど確かに聞こえた音。泥棒かもしくは荷物が落ちたのかと思う所だが今夜は違う。もしかしてとリテアはそっと寝台から身を滑らせ、裸足のまま扉を押し開いて暗い廊下に出ると、闇の中でも迷わずたどり着ける部屋の前に足を忍ばせた。
いつかの様にがっかりしない為の覚悟を纏い、部屋の主の名を囁くように吐き出した。
「ウルリック様。」
問いかけだけでノックはせずにゆっくりと押し開く。闇に染まりひんやりとした室内の壁際に置かれた寝台。そこに盛り上がりを認めたリテアは足音を忍ばせそっと近付き、それからけして目を離さずに冷たい床に膝を付く。
「ウルリック様……」
塊がもぞりと蠢き反応を示す。リテアに顔を向けてくれたのだろうが、二か月近く振りに目にする灰色の髪が何時も疲れている顔を隠してしまった。
「お帰りなさい、ウルリック様。」
別れた時よりも伸びてしまった髪を指で避けて顔を覗かせるが、瞼は閉じられ瞳を見せてはくれない。余程辛いのか、小さく唸るような声が漏れたが、それだけで後は全く反応を示さなくなってしまった。始めにレオナルドから知識を与えられていなければ死んでしまったと勘違いし慌てただろう。失神するように意識を失っているように思えるが、リテアは顔をくしゃりと歪ませ笑顔を覗かせた。
「ウルリック様、凄く会いたかったんですよ。」
暗闇の中でもっと近づきたくて更に顔を寄せると仄かに酒の匂いがした。身に纏っている黒いローブも埃っぽく、最後の夜に酒を嗜んでいた様子が窺える。きっと向こうで出会った人たちとだ。側にある蝋燭に火を灯して確認すると、覗く肌には蕁麻疹の痕がない。男性だけだったのだと解り、拒絶反応が起きる必要がなかった事に対してだけではなく、側に女性の影がないことに何故だかほっとしてしまった。飲んでゆっくり休んだ翌朝ではなく、その足で転移してくれたのだと解り更に心がウルリック一色に覆い尽される。
「ずっと、ずっとあなたの側にいる許しが得られるならよかったのに―――」
そうすれば心を押し殺して別の場所に逃げる必要もなかった。素直に大好きと、いつの間にか芽生えていた感情に従ってぶつけられたのに。
灯したばかりの蝋燭の火を吹き消し、リテアは愛おしそうにウルリックの髪を撫で付ける。
「キスをしました、大人のキスを。何度もして、これじゃないってやっと気づいたんです。自分なりに頑張ったつもりだったけど、恋してるや愛してるのキスにはなりませんでした。」
ウルリックに触れたまま、更に距離を詰めたリテアの唇が、渇いてかさついたウルリックの唇にそっと触れた。
「大好きです。ごめんなさい、二度としませんから。」
蝋燭の火を消したのは拒絶反応が出るのを認めたくなかったからだ。眠っているので大丈夫だろうと思うが、それでも出てしまった姿を認めたら二度とここにはいられなくなる。今しか機会はないと解っているから意識のないウルリックの唇を奪ったのに後悔はない。これから先はどんなに望んでも愛しい人と唇を重ねることは叶わないだろう。小さな思い出だから許して欲しいと秘密をしまいこみ、薄汚れたほ埃っぽいローブを握り締めリテアは目を閉じた。
名前を呼ばれた気がして目が覚める。ぼんやりと茶色の目を覗かせると、暗かった部屋はカーテンを通り抜けた朝日によって明るく照らし出されていた。
「おはようリテア、朝だよ。」
頭を撫でられ握りしめていたローブから手を離す。いつの間にか眠ってしまっていたようで、目を覚ましたウルリックによって起こされてしまったが、リテアを起こしたウルリックは瞼を持ち上げていない。
「おはようございます、ウルリック様。」
起き抜けのかすれた声で挨拶するとウルリックの口角が上がり、目を瞑ったままだが小さく頷かれる。
「急がないと遅刻してしまうよ。こんなだけど私は大丈夫だから。」
動けないけれど何も心配するような事はないと暗に告げるウルリックに、リテアは解っていると小さく笑った。
「ウルリック様が帰って来ると聞いてお休みを貰っているので大丈夫です。」
「ああ、そう。私の為に悪いね。」
「いいえ、ウルリック様の為じゃありません。」
リテアの返答に疲れているだろうウルリックの瞼が開かれ、物問い気な灰色の瞳が覗いた。
「自分の為です。だって久し振りに帰って来るんですもの。だからウルリック様と一緒にいたかったんです。」
リテアの言葉に幾度か瞬きしたウルリックは、ようやく意味が理解できたのかほっとしたように表情を緩める。
「嬉しいよ、ありがとう。」
「まだお辛いんでしょう、ゆっくり休んで下さいね。ああそうだ、頃合いを見てレオナルド様もいらっしゃるそうです。」
「わかったよ、ありがとう。それじゃあ遠慮なく休ませてもらうからね。」
瞼を落とすなり寝息をたてたウルリックに、リテアは穏やかな微笑みを向ける。そっと掛布で包み、締め切りになっていたカーテンの向こうにある窓を少し開けて風を取り込んだ。
自分の仕出かした間違いと、心の内に閉じ込めていた切ない恋に気付いてもどうしようもない。『君の事は好きだよ』と、子供の頃にくれた言葉と秘密の口付けを宝物として心に閉じ込める。女性が苦手なだけではなく拒絶反応まで起きるというのに、母親に死なれたリテアを引き取ってくれ、大人になった今も笑顔を向けてくれるだけで十分だった。あとは望まれる様に、大人として一人の人生を歩いていくのだとリテアは立ち上がる。
ウルリックの安眠を願い、複雑な心を抱えたまま用事を済ませに外に出た。何時頃になれば元に戻るのか分からなかったが、起きた時にはお腹が空いているだろうと好みの料理を作るために食材を仕入れる。家に戻っても起き出した気配はなく、そっと扉を開いて中を覗けば寝台は盛り上がったままで身動き一つしていないようだった。台所に立ち仕込みをして作り置きできる部類の物は火を通してしまう。学業に気を取られていた頃と違い、不特定多数の人間と良好な関係を築いて行かなければならない仕事はとても気を使う。そのせいで普段やり残していることが沢山あり、ウルリック不在のうちに片付けてしまおうと思っていたことも、寂しさが募って手につかなかった。それもウルリックが帰宅し、体を休めて眠ってくれているというだけでやる気が湧き起こる。何を置いても一番に帰ってきてくれたのが嬉しかった。
食事用の敷物を新調したくて買いおきしていた布を裁断していると扉が開いた。背の高い不健康そうな男がのそりと足を進める。リテアは鋏を置いてウルリックを見上げた。
「気分はどうですか?」
「う~ん、水が飲みたい。」
取って来いという意味で呟いたのではないだろうが、リテアは素早く立ち上がり冷たい水を汲んで戻って来た。するとウルリックは床に座り込んでぽおっと空を見つめている。
「ウルリック様、お水です。」
どうぞと渡すが、落とさないように手を添えて小さな子供にするように零さないよう手伝って飲ませた。
「ありがとう。ええっと、私はいつここに戻って来たんだろう?」
「昨夜遅くにですよ。ああ、でも日付は跨いでいたかしら?」
「昨夜は最後の晩餐に呼ばれて―――家に戻ろうとして無意識でこちらに戻って来たんだろうね。目が覚めてリテアがいたものだから驚いたよ。荷物は置いてきてしまったようだ。」
無意識で転移して来たのだと知り、リテアの心は舞い上がりそうになる。
「ウルリック様の帰る場所はここですから。でも荷物はどうします?」
また魔法による転移で取に向かうのだとしたら目が届かないだけに心配になる。けれど徒歩や馬車で簡単に取りに行ける距離でもない。
「どうしようか。書きかけの報告書を置いてきてしまったけど、労力を考えると書き直した方が楽な気がする。特に必要なものはないし、そうだな。そのうち届けてもらえるように話しておくよ。」
魔法による転移の消耗が戻り切っていないだけに、便利な手段だとしても頻繁に使いたい魔法ではないようだ。ほっとしたリテアが食事に誘うが、食べ物はまだ体が受け付けないからと首を振られる。
「それよりも水をもう一杯くれるかな?」
空のコップを差し出されリテアは頷いた。ウルリックを手伝い長椅子に腰を落ち着かさせてから再び冷たい水を汲んで差し出す。今度は一人で手に持ち半分ほど飲み干してからテーブルに置いた。
「ちょっとここに座ってくれるかな?」
端に避けたウルリックが自分の隣をぽんと叩くと、リテアは促されるまま腰を下ろした。するとウルリックが骨ばった指先をリテアに向け、そっと首筋に触れる。
「ウルリック様?」
何だろうと不思議そうに瞳を瞬かせるリテアにウルリックは小さく微笑む。
「何かに刺された痕があったから。」
治しておいたよと微笑みを崩さないウルリックからリテアはそっと視線を外した。昨日クリスに唇を寄せられた場所なだけに、何かを悟られた気分になり後ろめたさを感じた。
「もう大丈夫だよ、いつも通りに戻った。」
「あ、ありがとうございます。あの、わたし―――ちょっとお鍋を見てきますね。」
いたたまれなくて台所に逃げるリテアの背を、ウルリックは笑みを消して冷静な視線で見送る。
女性が苦手でそういった経験が皆無とはいえ、リテアの首筋につけられた痕が何であるのかウルリックは正しく理解していた。子供の頃に植え付けられた経験はけして消失してくれない。独占欲に塗れた母親が連れ込んだ男の体に刻み、自も刻まれ、縛られていると感じることでいつも満足していた痕跡だ。小さな家の中で繰り返される母と、時には名も知らない行きずりの男との情事。幼いウルリックには母親の奇声は恐ろしい雄叫びにしか聞こえず、姉の胸に顔を埋めて耐えていた。その姉も小さく震え、幼い弟に縋られることで己を保っていたのだろう。
男を求める女を母に重ね、醜悪で気持ちの悪い存在として認識してしまう。けれどリテアに抱く想いはそれと異なり、男に組み敷かれ自我を手放し虚空を見つめる姉の姿だ。願うのはリテアが姉のような扱いを受けなければいいということ。リテアの首筋の痕がいつどのようにして作られるものなのか、正確に理解しているだけに心配が重ねられる。あの真新しい痕跡はリテアが望んだものではなく、相手の男がウルリックに挑んで来たものだと一目で感じ取れた。




