その14
押し切られる形で初めての交際が始まった。クリスは周囲にそれと分かる様な態度を取り、気付いた時には認める前に周りが二人の関係をそういうものだと認識してしまっていたのだ。リテアの日常で大きな変化といえば、クリスと一緒に帰宅する程度の物だったので噂のめぐる速さに驚くばかり。レッグスに『何時から付き合ってるんだ?』と確認され、首を傾げれば『先に周りを固められたな』と同情さ現実を知るに至る。
きちんと断りを入れられなかったリテアも悪いが、クリスはそんなに難しく考える必要はない、友達の延長だといって話を終えてしまう。学生時代は学業や家事を理由に断れたし、その中でも長い付き合いになる異性と言えばコリンくらいのもので、そのコリンも結局は告白して玉砕するのではなく友人でいるのを選んで付き合いを続けている。なんだか優柔不断な嫌な女の様な気がして交際中止を言い出そうとするのだが、その度に察したクリスに話題を変えられいいようにあしらわれるのだ。それにクリスは約束通り過剰な接触も嫌がることもしない。アブリルとセルダンの交際と比べると本当に付き合っているのだろうかという感じを抱かせるような子供じみた交際だ。悪い人でもないし安心感すら与えてもらっているせいで、ふと気が付けば現状を受け入れている自分に気付かされる。
「リテアって見えない壁を築いているから、そこに踏み込んでくる勇気のある男はそんなにいなかったしね。でもさすが騎士様ね。ウルリック様がいなくなった途端にぐいぐい押して、上手くやるもんだわ。」
久し振りにアブリルと会い、年頃の女の子らしい会話に花を咲かせるが、リテアの方は戸惑いも多く、どうしていいのか分からずに相談したのだ。
「いいんじゃないの、このまま付き合って行けば。お互いに大人なんだし、こう言っちゃなんだけどそのクリスって人、何かあってもリテアの前から逃げたりしないと思う。」
飲みかけの果実水を手にじっと見つめられ、リテアは居心地悪く項垂れる。
「ごめん。こんな相談やっぱり考えなしだった。」
「そんな事ないわよ。ずっと触れなかったけど、わたしもあの事は乗り越えなくっちゃいけない経験なのよ。次に付き合う人にはあの事を含めて包み込んでくれる人を見極めなくっちゃね。」
失った子供は帰って来ない。あの決断が正解だったのかなんてアブリルにも、ましてリテアにも解らなかったが、当時の二人は大人でも子供でもない中途半端な場所にいた。後先考えずにやって招いた結果ではないけれど、あのまま産んでいてアブリル自身が幸せになれたかどうかは分からないのだ。
「わたしね、家を出て東のグラセードにある叔母の家にお世話になる事になったの。」
「グラセードに?」
ここから徒歩で十日ほどの大きな街だ。顔を上げたリテアにアブリルは修行するのと笑顔で答えた。
「ここにいるとどうしてもセルダンや、産んでやれなかった赤ちゃんの事を思い出しちゃって。離れたから思い出さないって訳じゃないけど、生活を変えて広い世界をみるのもいいかもしれないって。叔母の家はうちよりも大きな薬屋で弟子も沢山いるのよ。いい経験になると思うから決めた。」
素敵な出会いもあるかもと微笑むアブリルにリテアも微笑み返す。きっと出会いよりも前に進みたいからと、自ら踏み出す気持ちになったのだろう。それでもアブリルにとってこの場所は思い出が詰まった生まれ故郷であるとともに、悲しい出来事の場にもなってしまったのだ。
前を向いて歩くアブリルの健闘を祈りながら別れる。出発は来月で、それまでにまた会う約束をした。アブリルと別れたリテアは、自分も前に向かって歩かなければいけないのだと言われた気持ちになる。大人になったリテアはいつかウルリックの元から巣立たねばならない。それも遠い未来ではなく、近い将来に。
リテアにとって血の繋がりがなくてもウルリック以上に近い存在はない。いつも一緒にいてくれ、見守ってくれる優しい魔法使い。ウルリックが母親の死に責任を感じてリテアを引き取ってくれたのは承知している。当時のリテアは十歳の子供で、一人で放り出すには憚られる年齢であったのも。ウルリックもレオナルドも子供で何もできないリテアに色々と尽くしてくれていた。その手の中からいい加減離れなければいけない時が迫っているのだ。何時までも甘えていてはいけない。自立した大人になろうとするアブリルに背中を押され、リテアは南の地へと行ったきりのウルリックがいる方へ視線を向けた。
「クリスさんと向き合おうかな……」
彼を好きか嫌いかで答えるなら好きなのだろう。けれどそれは男友達であるコリンに抱く感情と大差ない。こんな気持ちで付き合いを続けていいのかと悩むが、クリスは軽く行けという。初めから大きな気持ちを相手に抱いて交際を始める人なんて少ないのだろう。アブリルもセルダンの告白から始まったのだ。
けれど向き合うとなるとどうすれば良いのか分からない。恋愛経験が全くなくてその類の話しはアブリルからしか入って来なかったので余計だ。アブリルはリテアと一緒にいる時にセルダンとどういった付き合いをしているかなんて率先して話はしなかった。時折二人でどこかに出かけたとかいった具合で、子供が出来るような大人な交際をしていたなんてリテアには全く思い至らなかったのだ。
「大人の交際に、なるのよね?」
考えて頬が熱くなる。とてもじゃないが無理だとできもしない妄想を慌てて追い出した。最終的にはそうなれるように頑張らなければならないのだろうが、終着点を思い描くと進めなくなるので放置する。それでも考えをめぐらせていると、その度に顔を覗かせるのは不健康な顔立ちの保護者だった。ウルリックとクリスを比べると断然ウルリックの方が大好きで、一緒にいたいと望み安心できる居心地の良い場所で。これではいけないのだとリテアはがっかりと肩を落とす。
「ウルリック様よりも好きにならなくちゃ―――そんな人、本当にいるの?」
クリスではないかも知れないし、彼かも知れない。ウルリックよりも大切で、この人の子供を生みたいと思えるような相手にいつか出会えるのだろうか。それも勢いで成り行きに任せるような人の方が多いのだろうか。自分の両親はどうだったのだろう。とても仲が良くて愛し合っていたのだと思う。リテアは二人の結婚後に生まれたので、子供が出来て仕方なく結婚という訳でもない。互いが好きあって求め合って一緒になったに違いないのだ。
クリスとの交際が始まって一月近くがたつ。その間ウルリックは帰って来るどころか一度も便りを寄こさなくて。レオナルドから元気にしているというのは教えてもらえていたがそれだけだ。ウルリックが作った通信機を使えば連絡が取れるらしかったが、リテアの手元にそれはないのでどうしよもない。思い出しはじめると恋しさが募って止まらなくなってしまった。今すぐにでも会いたい、会って安心して踏み出していく勇気が欲しいと願うが叶うはずもなく。クリスの事も相談したかった。相談してウルリックの反応を見て、まだ側にいる時間があるのかどうかも知りたいと思う。ウルリックの前でリテアは何時まで子供でいさせてもらえるのだろう。『楽しんでおいで』と笑顔で送り出されるのだろうか。そうしたらきっとリテアは―――
「悲しい……かも。」
ぽつりと呟いてようやく歩き出す。自分で想像して大変落ち込んでしまった。
学校を卒業して仕事をするようになってから買い物は休みの日にしかできない。必要な日用品や保存のきく食料を買い家路につく。敷地を高い塀が囲む主を失った家は寂しくて、一人きりの孤独な生活音が耳に響く。しっかり戸締りして暗くなる前に食事も風呂も済ませてあとは寝るだけだ。明日から頑張ろう、一日をこなしていけばウルリックが帰ってくる日にひとつ近づくと、希望を胸に目を閉じる。眠りについたリテアが穏やかな寝息を立てる闇に影がうごめき、ひっそりと、静かに黒い塊が出現した。
小刻みに震える塊は苦しそうに長い息を吐き出しながら、リテアが目覚めてしまわぬよう密かに眠りの魔法を放つ。額に汗し蹲ったまま立ち上がれず、魔法の効力が現れているのを確認すると床を這うようにして寝台に寄った。
荒い息が零れるのは長い距離を魔法で移動したから。土気色に変わった肌は闇に染まり、大病でも患っているように見えるが大きな魔法を使った影響だ。リテアが横になる寝台に骨ばった指をかけ何とか身を起こすと縋るように頭を乗せる。土気色の肌には赤いぽつぽつとした出来物が出現していたが、息を整えつつ灰色の目で眠るリテアを眺めているうちに次第に治まりを見せる。
「情けない―――」
そう漏らしたウルリックは床に正座して寝台に顔を伏せた。
ウルリックはリテアがいつ何処にいようとも、念じればその姿を覗き見ることが可能だ。そうやって毎日見守り続けて来た。当然この一月も自然災害に見舞われた遠く離れた南の地で、大切な養い子が困ったことになっていないか、泣いていないか、笑っているだろうかと何時も以上に気にかけ見守り続けていたのだが。眺めているだけでは我慢が出来なくなってしまい、いい大人が無理を押して駆けつけてしまったのだ。あまりに情けなく、眠りの魔法をつかってリテアが目覚めぬようこっそりと。
「本当に情けない。」
漏れた呟きは己の弱さに対して。引いていく蕁麻疹がここに辿り着く前の状態を物語っているが、同じ女性であるのにリテアの姿を見ると安堵して、病が悪化する所か引いていくのには負けを認めるしかなかった。
「君は私の唯一なんだね。」
そうと解っても今更どうしようもないし、どうにかしようとすら思いもしなかった。
贖罪の気持ちから預かった少女はいつの間にか大切な存在になり、失うのを恐れて心が彷徨った。殺してしまった母親と同じ目に合わせてしまうという思いから起きた力の暴発も、恐らく失う恐怖で起きたに違いない。離れた場所からずっと見ていて気付いた。リテアが幸せになれる場所、それを見つけて歩み寄ろうとしていると解り、ようやく気付いたのだ。
祝福すべきなのにリテアが離れて行くのが怖かった。一生繋ぎ止めるだけの物も権利もウルリックにはない。自分の役目は我儘な束縛ではなく旅立たせることなのだ。この日が来るのは分かっていたし望んでもいた。なのにどうして悲しくなるのか。離れて見守る中で湧き起こる感情に戸惑い、そして気付いた。リテアは失った姉と同じ、ウルリックにとっての唯一の存在なのだと。きっとウルリックはリテアを守る為なら何でもするだろう。あの日持たなかった力を今のウルリックは持ち合わせている。リテアを傷つける存在は許さないし、幸せにしてくれる存在にはあらゆる手を貸してやれる。けれど離れて行かれてしまうのはとても寂しい。だからといって手の内で幸せにしてやれる物を何一つ持っていない身としては諦めるしかないのだ。
「どうしたら君を幸せに出来るのだろうね。」
女性が側に寄るだけで起きる拒絶反応が治まり骨ばった指を向ける。一瞬だけ戸惑い、優しく目を細め指の関節でそっとリテアの柔らかな頬を撫でた。
あの男は心からリテアを愛し、幸せにしてくれるだろうか。魔法を使えば離れた存在を認識するのは可能でも人の心まで覗き見ることはできない。それでも解っているのはウルリックと異なり、迷いなくリテアに触れ、人としての幸せを授けてくれるだろう未来だ。
粉々に砕け散り肉片となった母親の記憶が蘇る。それでもリテアの側にいるせいか心は穏やかで、憎しみや悲しみ、虚空といった感情に支配されることはない。母を殺め、戦場では多くの人間を手にかけて来た。そんな男がこの愛らしい、安らぎをくれる存在に触れていいはずがないと断罪される。信頼をもって飛び込んできてくれる少女に打ち明けたならどうなるだろう。惨殺したに等しい母親に対して何の後悔もないと、魔法の目覚めによる暴発が原因だとしても殺して良かったと、殺したいのだと子供心に抱いていた願望があの時に具現化したのだと話したとして。いったい何処の誰が笑って許し、正しかったと抱きしめてくれるだろうか。少しも後悔していないのだ。もし奇跡が起き、母親が再び生きて目の前に現れたなら、ウルリックは間違いなく感情のまま彼女を殺すと断言できる。あの日強姦されていた姉に、実の娘に、嫉妬むき出しの女として接した存在は親でも何でもない、憎むべき醜悪なものの塊だ。
「女なんて誰もかれもあれと同じ存在だったはずなのに―――君はどうしてこんなに清らかなんだろう。」
優しい温もりをくれた姉。守りたかったけれど失ってしまった存在。その姉の代わりであって、同時に違う存在でもある。姉が掴むはずだった未来を授けてやりたい。魔法に目覚めるのが一歩早ければ守る事が出来た大切な人の代わりに、今度こそ守り切りたいと願うのは勝手な押し付けなのだろうが、その想いがあるからこそウルリックはリテアに拒絶反応を示さずいられるのだろう。
『わたしを買ってくれませんか?』
あの日に向けられた、見た目と感情に不釣り合いな性的な誘い。あの時の言葉を不快に感じなかったからこそ今があるのだろう。女の肉体を武器にすり寄って来たヴィヴィツ侯爵令嬢に拒絶反応を示し、二つのでかすぎる脂肪の塊に嘔吐した記憶は薄れてきている。けれどそれがきっかけでリテアはウルリックに辿り着いた。
「私が君を買えるような男なら今はなかったね。」
知る事が出来ただけでも儲けものだ、姉の様な不幸な目にはけして合わせない。
リテアが眠る寝台に縋る様な体勢のままで一晩休んだウルリックは、東の空が白み始める頃には眠りの魔法を解くと同時に、物音ひとつ立てることなくリテアの前から消えた。




