その13
立ち入り禁止が解かれたウルリックの研究室は本当に何もかもが無くなっていた。
翌朝は何時もより早くに出勤したリテアだったが、下級文官のリテアでは到底立ち入れない場所にウルリックは入院させられている。レオナルドに出くわさないかと偶然を待つが叶わず、仕事の時間になり気落ちして職場に向かうもウルリックが気になって仕事が手につかない。書類を手にぼんやりしてしまい、隣に座る内勤の騎士に声をかけられ慌てて視線を落とすも文字が頭に入って来なかった。急ぎの仕事がなかっただけが救いだろう。昼休みに再びウルリックを訪ねるもやはり建物内へ入ることはできず、リテアの足は魔法使いたちが仕事に励む建物へと向かう。レオナルドも魔法師長室にいるかもしれないと思いながら途中ウルリックが研究に使っていた部屋に寄れば、立ち入り禁止は解かれ明るい陽の光が差し込んでいた。
部屋を吹き飛ばしたという言葉がよく理解できなくて、けれど目にしてようやく意味を理解する。
爆破されたという室内は綺麗に片付けが済んで本当に何一つなくなっていた。机に高く積み上げられた本や資料、研究途中の鉱石や道具。壁に張られた古めかしい古代文字のメモ書きや染みだらけの床も、古いカーテンは勿論、貼られていた床板や壁紙は綺麗になくなって石の壁と床がむき出しになっている。窓だけではなく窓枠までもが綺麗さっぱりと何もかもがなくなっていて、どこかの廃墟に迷い込んだような感覚すら覚える有様に、リテアは身震いして今にも泣きだしそうになってしまった。
埃と塵だらけの汚い場所だった。掃除の担当はリテアで、床を履く時にウルリックが座ったまま足だけを上げるのが日常で。『ありがとう』と薄く笑ってくれるのが嬉しくて。古めかしい匂いのする積み上げられた本に囲まれ勉強して、時折手を止めて微笑むウルリックを横目に捉えて心が温かくなった。母を失って孤独に落ちた時に引き上げてくれた人は、そのままリテアにとっての唯一の人になっていた。その人と共に過ごした長い時間が一瞬で、欠片すらなくなってしまった現実に言いようのない悲しさが込み上げてくる。
「リテア?」
名を呼ばれはっとして振り返ると、今にも倒れるんじゃなかという顔色の悪いウルリックが背後に立っていた。ひょろりと高い猫背の彼はリテアを覗き込むようにしており、目の下のクマが一段と際立って本当にそのまま倒れ込んできそうだ。
「ごめんね、泣かないで。」
骨ばった土気色の長い指が伸びて頬に流れた涙の粒をすくい取る。リテアは突然現れたウルリックの姿に驚いて目をまん丸に見開いていたが、自分が泣いていることに気付いて慌てて頬に流れていた涙を拭った。
「怖いよね、魔法。ごめん。」
「魔法……あ、えっと。違います。」
魔法で部屋を吹き飛ばした。それを恐れているのだろうと考えるウルリックにそうではないとリテアは首を振る。
「ウルリック様との思い出がなくなってしまったと思うと、なんだか寂しくなってしまって―――」
正直に答えると虚を突かれたように目を見開いたウルリックは、やがて顔をくしゃりと歪めて今にも泣きそうになる。
「ああ、なんてことだ。思い出は大切な物なのに私は―――本当にすまない。」
肩を落として更に背を丸めるウルリックの様子に、リテアは慌てて首を振るとウルリックの男性にしては細い腕をがしりと掴んだ。
「いいんです、ウルリック様が無事だったから。ごめんなさい、そんな意味で言ったんじゃないんです。」
「しかし―――」
「ウルリック様が大怪我でもして大変な事になっていたらわたし―――今度こそ一人ぼっちになってしまいます。だから本当に、思い出なんかよりもウルリック様が無事でいてくれてほっとして。何もかもがなくなったのは正直寂しいけど、思い出はここにだけある訳じゃないから。」
「リテア―――ごめんね。それとありがとう。」
ウルリックは捕まれた腕をそのままゆるりと持ち上げると、親指の腹でリテアの目尻に残った涙を綺麗に拭い取る。
「顔色はすごく悪いけど、元気そうで良かったです。」
「ああ、うん。しばらく謹慎なんだ。君と一緒に通勤できないと思うと悲しくてね。顔色も悪くなる。」
事実を隠されているとはまるで気付かず、嬉しい言葉をくれたウルリックにリテアはようやく笑みを漏らした。
「場所は違うけど引き籠れるんだからいいじゃないですか。」
「そうだねぇ。大人しく引き籠らせてくれると有難いんだけど。世の中には上手く行かない事の方が多いから。」
そう呟いた言葉通り、ウルリックは謹慎に入った数日後には皇太子に呼び出しを受けた。そこで皇太子直々による特別任務をもって謹慎に変えるという。その特別任務というのは帝国の南の端で起きた自然災害の復興だ。誰も考えつかない魔法具を生み出したりと魔法に関しての扱いが天才的であるウルリックに、魔法を使っての復興を手助けせよというのが皇太子からの言葉だった。
自然災害による復興などと、誇り高い魔法使いなら拒絶するのが前提の仕事だ。けれど仕出かした不祥事に目を瞑ってもらった恩があると同時に、ウルリックは魔法使いとしての無意味な誇りなんて持ち合わせていない。氷の魔法を使ってかき氷を作れと言われれば素直に従うだろうし、お湯を沸かしたかったからと呼び出されてお茶を入れる手伝いをやらされても特に不満を持たないのだ。そこに苦手な女性と犯罪の臭いがしなければ文句もなく受け入れる。戦争が落ち着き魔法使いたちを別の物に役立てられないかと考えていた所に降って湧いたウルリックの不祥事は、皇太子にとってはまたとない幸運な出来事でもあった。
「それは構わないのですが―――あちらまで馬車でも一月はかかります。」
その間に人力だけによる復興もかなり進むのではないかと消極的なウルリックを、何を馬鹿な事を言っているんだと皇太子は一括する。
「確かに遠いがお前なら転移で渡るのが可能だろう。大雨で土砂が押し寄せ川も氾濫しているという。あの地域は間もなく長雨の季節に入り、いつまた同じ災害にみまわれぬとも限らないのだ。肥沃な大地でもあるし麦の取れ高が落ちると問題も起きてくる。お前が転移で駆けつけた後に一日使い物にならないとしてもその後は動けるのだ。生活圏に入り込んだ土砂を除き、氾濫した川の堤防を築く。怪我人への対応も頼みたい。お前が女が苦手というのは向こうの責任者も重々承知だ。行ってくれるな?」
ウルリックが発明した魔法を使た通信機は帝国全土の主要地に備え付けられ、離れた場所で起きた有事もすぐに伝わるようになっていた。便利になったが、それだけ離れた場所に一瞬で移動できる魔法使いはウルリックを置いて他にいない。ウルリックだから出来ることなのだ、頼むと頭を下げられ断れるわけがないのだ。本来のウルリックなら女性に関する不安はある物の迷わず行くと言える事柄だが、今回は渋々となった。その原因は当然リテアだ。流石のウルリックもそれだけ離れた場所になると魔法による移動も頻繁には行えない。転移をした後は一日使い物にならないだろうから家から通う事が出来ないのだ。そうなるとリテアを一人残してになってしまう。研究室を吹き飛ばし思い出の場所を無くしたと泣いていた姿が蘇るが、皇太子の命令を無視できる筈もなく、ウルリックは一人南の地へと向かう事になった。
リテアを置いて南の地へと向かったウルリックだが魔法使いだからこその失敗を犯す。いつ何処にいてもリテアの状況を知ろうと思えば知る事の出来るウルリックと異なり、リテアにはウルリックが今どこで何をしているかなんて知りようがないのだ。リテアが心配で見張るように魔法を使いながらも、リテアがウルリックの近況を知りたいと思うなどとは到底考えつかなかった。そのせいで自ら開発した通信機をリテアに渡すという考えも思い浮かばないまま、復興が終わるまでという不確かな期間の赴任に馳せ参じてしまう。一人残されたリテアは寂しさに苛まれるが、ウルリックがいないからといってめそめそ泣くなど子供のすることと、しっかり者であるが故に何時までも子供でいたいと願いながらも心の内では大人として振る舞った。
それでも寂しいものは寂しい。レオナルドの家で世話になる選択肢もあったが、子供ではないリテアが家庭のあるレオナルドにそこまで世話になる訳にはいかなかった。それにあの家には小さな子供がいるのだ。アブリルに起きた出来事は何時までもリテアの心から離れないし、レオナルドの家で世話になってもウルリックがいなくて寂しいという思いは変わらない。リテアは一人でウルリックを待つのを選んだ。
「ちゃんと食べてるかなぁ。」
昼休み、人気のない場所に置かれた古ぼけたベンチに腰を下ろして青い空を見上げる。方角は南、ウルリックが仕事をしている遥か彼方にむかって心配事が漏れた。
研究に熱中すると寝食を忘れてしまう人だ。その可能性は大いにあるが、離れた場所からは心配する事くらいしかできない。一人になって既に七日、寂しさには慣れたがウルリックが気になってばかりだ。
そんなリテアの前に茶色い小さな包みが差し出された。赤色の可愛いリボンで縁が止められておりかすかに甘い香りがする。
「リテアこそちゃんと食べてるのか?」
「クリスさん。わたしにですか?」
差し出されたのは城下で女性に人気の菓子店で焼かれた菓子だ。「君に」と渡され反射で受け取ってしまった袋に鼻を寄せ、甘い香りを吸い込んでリテアは小さく微笑む。
「おいしそうな匂いです、いつもありがとうございます。」
「この程度で君の憂いが少しでも拭えるならいくらでも贈るよ。隣に座っても?」
「ええ、どうぞ。」
ウルリックが不在になったのを理由にリテアは歓迎会という名の食事会を断っていた。一緒に食事ができなくなったせいなのか、時折クリスは小さな贈り物をしてくれるようになっている。物が食べられる菓子などで受け取っても負担にならない品を選ぶ辺りが大人なのだろう。一度断ったが、いらないなら捨てろと言われてからはリテアも素直に感謝を述べて受け取るようにしていた。
「落ち込んでるのってウルリック=バンズが南に赴任してからだろ。リテアはウルリック殿が本当に好きなんだな。」
「そうですね、大好きです。」
離れたくない位に、思い出の場所がなくなって涙を零す程に大好きだ。母親を亡くしてもうすぐ七年、ずっと一緒にいてくれた優しい魔法使いを嫌いになれるわけがない。
「俺さ、子供の君が楽しそうに走ってウルリック=バンズの所へ行くのを何度か見たことがある。」
え? と顔を向けると薄い緑の目が優しくリテアを見つめていた。
「何年前だったけなぁ。俺も騎士になりたてでけっこう辛い事とかあってさ。小さい女の子が毎日笑顔で走ってるから、何が楽しいんだって冷たい目で見てた。」
「冷たい目って―――当時のクリスさんにいったい何があったんですか?」
いつも優しい目を向けてくれるので俄かには信じがたい。人には裏も表も色々な面があるだろうが、城に通うようになった頃のリテアが特別に幸福であったかといえばそうではないだろう。
「男社会にもいろいろあってね。まぁそんな中で楽しそうにしている女の子に、世の中の酸いも甘いも何も知らなくていいよなぁ。そのうち嫌な目にも合うんだぞって感じで心の中で悪態ついててさ。要するに八つ当たり。けどさ、その子供がウルリック=バンズの養い子だって知って、どうしてそうなったのかというのも噂で聞いて。ああなんだ、結構みんな平等じゃんって思うようになってからは、親を亡くしたのになんであんな笑顔なんだって気になるようになった。」
当時のウルリックは幼女趣味とか男色とか様々な噂が流れていた。当時でなく今もそうなのだが、そんな男に引き取られて可哀想にと思ったりもした。けれどその少女は常に笑顔なのだ。楽しそうに大きな鞄を抱えて走っている。余程酷い親に育てられたのだろうと想像して、やがて周囲がリテアという少女の様々な生い立ちを真しやかに囁くようになってからはどうでもよくなった。
「そんな君が第二に配属になってさ。ようやく笑顔の意味が解ったよ。君はウルリック=バンズと一緒にいるのが好きで、だからいつも笑顔だったんだって。そんで気付いた。俺はずいぶん前から君の笑顔に惚れてたんだって。」
告白されるのには慣れていた。けれどこうして過程を追って好きになったという純粋な想いを告白されたのは初めてだ。
「だからさ、俺と付き合わない?」
戸惑い断りを即答できなかったリテアにクリスの気持ちが覆い被さる。
「あの……」
「ちょっと待って。」
これではいけないと慌てて断ろうとしたリテアをクリスがすかさず制した。
「断るつもりだろうけどまずは試してみなよ。深く考えなくってさ、取りあえず俺と付き合って駄目なら振ればいい。まずは軽くな。そんな訳で今日から俺たち恋人ね。」
「えっ、あのっ、ちょっと待って下さい!」
「待ったら断るだろ、だから待たない。大丈夫、リテアの嫌なことは絶対にしないから。」
「でも付き合うなんてっ!」
リテアにとって男女交際の行きつく先はアブリルだ。妊娠したと悩んで泣いたアブリルの姿が思い出され眉を寄せたリテアに、クリスはいかにも無害そうな笑顔を向ける。
「付き合うと言ってもこういう事。」
そう言ったクリスは一人分の距離が開いていた座る位置を体温が感じる位置にまで縮めた。
「それからこうして。」
小さな菓子袋を持ったままのリテアの手を取ってぎゅっと握り締める。
「手を繋ぐとか。あとは同じもの見て楽しむとか、ただ黙って寛ぐとかその位。それ以上は嫌がられたらしないから。」
リテアの不安を聡く感じ取ったクリスは動きを加え考える時間を与えずに次々と繰り出していく。
「そういう訳だから、仕事終わったら家まで送るよ。彼氏の特権。俺を置いて一人でとっとと帰ったりするなよ。」
「わたし了承―――」
「じゃあ帰りにまたな!」
了承していないという言葉も遮り、クリスは一方的に約束すると足取り軽く去ってしまう。後に残されたリテアは驚きと戸惑いの中、甘い香り漂わせる袋を握りしめ唖然とていた。




