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残渣男  作者: ヘイ
9/15

小さく休憩

平和とは、円環の上を転がっているものではない。ひとつ続く道を猛スピードで走っているのだ。


その道からいつ落ちるかわからない。いつ軌道から外れるかも知り得ない。


ある日、突然平和が崩れるなんてよくあることだ。当人が気づかないだけで、平和の土台は白蟻に喰われた木のように脆くなっている。


ライアン一家も然り。兆候に気づかず、宗教紛争に巻き込まれてしまったのだ。


先日まで笑い合っていたのが遠い昔のようだった。湿った土の上に尻をつき、落ちた枯葉をぼんやりと眺めながらライアンは落ち着きを取り戻そうとしていた。


意外にも、エマは涙を見せない。なぜなら知っているからだ。


一番辛いのは妻を亡くしたライアンだと。


エマは木の幹に背中を預ける彼を後ろから見守っていた。


「...あんたは強いね」


「強くなんてないわ。まだ実感がないだけ...。きっとその時が来たら泣き崩れてしまうかも」


彼女の瞳はどこか遠くを見ているようだが、何も見ていない。


「その時には、私の胸を貸すよ」


「頭を預けるには少し足り無いわ」


「ふっ、こんな時まで...」


サーニャは失笑した。8歳の少女がこんな会話をしているのは些か不思議だが、彼女らは他人より何倍も自我が芽生えているようにも思える。


サーニャがカップに水を入れてライアンに渡すと、彼は震える手で水を無理矢理喉に押し込む。


「...ごめんな。パパがこんなんで...しっかりしないと」


「パパ...悲しい時には泣いていいんだよ...。でも、生きて帰ってからでもそれはできるよね」


「...あぁ。そうだ。そうだな。今は生き残ることを考えないと...!2人ともありがとう」


ライアンは立ち上がると、大きな手で2人の頭を撫でた。小降りだった雨はいつの間にか止んでいて、雲の間からは気持ちのいい陽射しが木々を照らす。


コンパスを再び手の上に乗せ、北を目指す。彼らはごく僅かな希望を頼りに、足を動かした。


じめついた汗が肌を伝う。睡眠不足のせいか、身体中に錘がぶら下がっているような感覚がした。


「服を脱ぎ捨てて走りたい気分」


「髪も全部切る?」


「できるんならね」


エマとサーニャは何とか疲れを雑談で紛らわそうとする。


(緊急時とはいえ...テントを置いてきたのは痛かった...夜をどう凌ごうか...)


しばらく歩くと谷川のしゅるしゅると滑るような音が聞こえてきた。


ライアンは2人を支えながら土の斜面を降り、河原へと向かう。


「川だ!」


エマが目を輝かせて言った。川は少し濁っていたが、しばらく森と土しか見ていなかった彼女らは新鮮な気持ちになれた。


「この場所からは川を渡れないな...上流に向かおう」


「うん」


「と...その前にランチ食べないとな...。昨日から何も食べてない」


リュックをおろして中身を見たエマは何かに気づいたようにハッとする。


「どうしたエマ?」


「食べ物...サラのリュック...」


ライアンの背筋に嫌な汗が伝った。カンパンや缶詰はほとんどサラのテントに置いてあったのだ。


残っているのはサーニャのリュックに入ったカンパンのみ。


「パパは大丈夫だ。ちょっとずつ食べな」


わかりやすい気遣いに、2人もカンパンを食べ辛くなる。3つほど口の中に放り込み、唾液と混じって溶けて無くなるまでよく噛む。口がパサついたので氷砂糖を食べて潤した。


「川の水は飲めないよね」


エマが一応聞いてみる。


「いつもなら飲めたかもしれないけど、雨が降ったからなぁ...」


ライアンは川の水を手で掬ってみせた。土や苔が混じっていて飲めそうにない。だが、いざとなればこれでも喉を通さなければならなくなるだろう。


少し休憩をとった後、3人は再び歩き出した。


__ふかふかの土とは違い、河原に散らばった歪な形の石の上は足に悪い。

時折躓(つまず)きながらも、前を歩くライアンに付いていく。


「ねぇ、サーニャ」


「なに?」


「何か聞こえない?唸り声みたいな...」


「あんたの腹よ」


「違うって...!」


ムキになるエマに押されて、サーニャは渋々立ち止まって耳を澄ませてみる。


「何も聞こえないわ」


「あれー、おかしいなぁ」


「お腹に話しかけてみな、また唸るから」


「...ばーか」


不貞腐れるエマを後目にサーニャは先に進んだ。エマは川の対岸から見える森の暗闇をじっと見つめた。


何かいる。


動物に与えられた第六感。本当に「何となく」だが、彼女の身体に悪寒が走った。


「ま、待ってよサーニャ!」


急に恐怖を覚えたエマはサーニャの制服の端を摘んだ。いつもと違うエマを見てサーニャも何か言いかけて戸惑いの色を顔に浮かべる。


山に逃げて20時間以上が経とうとしていた。


盛りの小学生でも、流石に足が辛くなってくる。3人は大きな岩の陰で陽射しを凌ぎ、足を休めた。


「気持ちいい〜」


ライアンが川の水を引いて小さな足湯を作る。ちょうど良く冷えた山水は踵にこもった熱を逃がすのに丁度良かった。


「頭洗ってもいい?」


足をパタつかせながらサーニャが言う。確かに彼女の髪は背中まであるし、この気温だと暑苦しいだろう。


「そうだな。日も照ってるしすぐに乾くだろ」


サーニャはうきうきした様子で川の流れに入って頭から水をかぶった。


「ガスバーナー、ナイフ、弾が3発の拳銃...カンパン、水、双眼鏡...」


リュックの中を漁っていたライアンが小さく溜息を漏らした。


「銃で鹿を撃って〜、ガスバーナーで燃やす?」


「ごめんな。パパ銃撃つの下手くそなんだ...」


「私が撃とうか?」


「ふふっ」


彼は失笑してエマの頭を撫でた。今まで気づかなかったが、この気丈な性格はサラに似ている。


家の中では気づかなかったエマの性格がここに来て浮き彫りになった。


まだまだ娘のことを知れていないと思うと同時に、8歳の少女がいかに大人かわかったライアンであった。


(家ではお馬さんだのクマさんだの言ってると思ったが...)


彼は苔の生えた岩に(もた)れかかって空を見上げた。


どこかで見た浅葱色の綺麗な空。

深く呼吸するたびに森の新鮮な空気が肺に流れる。


少し落ち着いたみたいだな、と彼は実感した。

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