残ったもの
中伏にある崖に車を停め、必要な荷物を取り出す。愛車を捨てるのは良心の呵責が渦を巻くことになるが、奴らに足取りを掴ませる訳にはいかない。
ライアンはエンジンをかけ、ゆっくりとバックした後に車を降りる。灰色のそれは後ずさりするように退がっていき、ついに崖から落ちて木の茂みの中へと姿を消した。
けたたましい音が、車の断末魔に聞こえてライアンの胸をチクリと刺した。
この程度でへたれていてはいけない。
4人の命を背負っているのだ、と彼は自分を無理矢理奮起させる。
「行こう」
一旦山に踏み込むと、じめじめとした湿気が腕と首筋に纏わりつく。空は昼間とうって変わって曇天に覆われていた。
「こんなに歩くの遠足以来だね」
額に汗を浮かせたサーニャが隣で歩くエマに言った。
1年ほど前、学校のクラスで近くの丘まで遠足に行ったが、途中で大雨に見舞われて止む無く中止となった。
「不吉の前兆ってこと...?」
「あの時よりはマシよ、あんたずぶ濡れになって転んでたわよね」
「...今日転ぶのはブロンドのお嬢さんだろうね」
エマはそう言うと、リュックを背負い直して口の端をあげた。
(あれ...?エマ?どうしたの?)
先頭を歩いているライアンは後ろから聞こえるエマの言動が、家の時と違って驚きを隠せなかった。
コンパスを取り出して北を目指す。
針のぶれが自分の心を表しているようにも見えた。
「アニー、大丈夫か?」
「えぇ、寧ろさっきより楽になったかも...」
サラに肩をかされた彼女は強がりの笑顔を見せる。
「疲れたらいつでも言ってくれよ、他のみんなも」
...
......
.........
「ライアン、少し休みましょう」
声をあげたのはサラだった。見ると、アニーが今にも倒れそうにしている。
顔色は悪く、足取りも重そうだ。
「アニー!我慢するなって言っただろ...!」
「でも...足手まといに...」
「そんなことない。みんなで助かるぞ」
ライアンはアニーに肩を貸して近くの木に背を預けさせた。呼吸も荒い。サーニャはバッグの中から水筒を取り出してアニーに水を飲ませた。
「んっ...ありがとうサーニャ...」
歩き始めて数時間、もう大丈夫だろうという気もあるが、まだ奴らが追ってきているという不安が残る。
ライアンの脳裏にデイビッドの叫び声が鮮明に蘇った。
「...もう暗くなってきたな...」
ライアンは少し辺りを見廻して、開けた場所を探した。
「お泊りするの?」
気づけば自分の腰の横にエマの小さな頭がある。ライアンは思わず彼女の頭をわしゃわしゃと撫でた。
「あぁ。明後日くらいには新しい街に着くかもな」
木の近くにテントを張ると水捌けも良い。この天気だと好都合だ。
ライアンは子供2人とテント設営を始めた。
「ペグってどうやって打つの〜?」
「こうやって斜めに打ち込むんだ。ほらやってみな」
「おぉ!上手?ねぇパパ私上手?」
「エマ、今叩いているのはパパの指だね。やめてくれ」
トラブルは幾つかあったが何とかテントが完成した。テントの下には草をひいて感触を良くしている。
「ふぅ...暗くなるまでに完成して良かったな」
小さめのテントを2つ。青のテントにはサラとアニーが、少し離れた所の緑のテントにはライアンと子供2人が寝ることになった。
「私がついてるから大丈夫よアニー」
「ごめんね、迷惑かけて」
彼女の涙で潤んだ瞳には焚火がゆらゆらと映っている。毛布を被って震える彼女を見てサラは心配した。
「アニー。温めた紅茶だ」
焚火に木をくべていたライアンが彼女に手渡した。
「ありがとう。2人は?」
「ぐっすり寝てるよ。もうすぐ雨が降る。火を消して寝よう」
「えぇ...ねぇライアン。デイビッドは...やっぱり...」
アニーの口調が一段と暗くなった。
「すまない...あいつは俺を庇って...」
「...」
ずっと一緒だった夫の突然の死。それはアニーにとって何よりもの苦痛であった。
この先、何を頼りに生きていけばいいのか。生き残ったとしても、その後どうすればいいのか。
カップの縁に残った紅茶の残りを見ても答えは出ない。
「もう寝ましょアニー」
「...えぇ」
サラはライアンとアイコンタクトをとってテントに入った。
黒と青の混ざった藍の空の下、ライアンは焚火の虚しい火を蹴った。
...
......
.........
午前3時頃だろうか。数発の発砲音が暗闇にこだました。
ライアンはハッと目を覚ましてテントの入り口から外を覗く。
エマとサーニャも寝惚け眼でライアンを見た。
「どうしたの」
「シッ...」
空に立つ灯りがひとつ、ふたつ、みっつ。
懐中電灯だろうか。
そして男の話し声と女の叫び声。
(まさか...ここまで来たのか...!?車が見つかった?いや、それにしても早すぎる...)
考えられる理由としては、他の生存者が自分たち同様山を越えて街に抜けようとしたのだろう。そして見つかった。
「エマ、サーニャ。急いで逃げるぞ。荷物をもとめろ」
2人は、ライアンの強い口調に戸惑いながらも急いで荷物を抱えた。
(まだ間に合う、サラ達のテントに向かって...)
ライアン達は音を立てぬよう外に出た。その時、青白い灯りがこちらに向かってきたのだ。
すぐさま2人を引っ張って近くにあった身の隠れる程の大岩の影に隠れる。
どうか誰も見つからないように...
その望みも虚しく、テントの中でサラが懐中電灯をつける。
「馬鹿...!何してるんだ...!」
マギノ前線の男が4人ほど、その光を見つけ、テントに向かってきた。
もう駄目だ。男の手にはアサルトライフル。テントを包囲された。
ライアンはエマとサーニャにこう呟く。
「今から後ろを見ずに、できるだけここを離れるんだ。絶対に後ろを見てはいけないよ」
「ママは?アニーは?」
「...ここでお別れだ」
泣くだろうか。反対するだろうか。
エマは一瞬眉を顰めたが、泣かなかった。
「泣かない。泣いたら走れなくなるから」
「良い子だ」
男がテントに入った瞬間、ライアン達は一気に走った。身を切るような後悔を抱えながら。
木の枝が頬や腕を切る。それでも子供2人の手を掴み、ひたすら逃げる。
後ろからはサラの声が聞こえた。アニーはもう叫べないほど衰弱していたのだろうか。声は聞こえない。
「やめてよ!離して!痛い痛い!痛い!」
「うるせぇなこいつ。片方は大人しいから犯した後で殺してやる。お前はここで終わりだ」
「アニーは弱ってるのよ!やめなさっ...
全て言い終わる前だった。乾いた発砲音が耳を劈く。
...
......
.........
泣いていた。ライアンは泣きながら走った。暗闇と涙で前が見えなかった。
気づけば朝になっていた。朝焼けが森を朱に染める。
涼しい風が3人の身体を冷やす。
もう何も思い出したくない。