黄土色の輪
__糞尿の異臭が充満する下水道。鉄格子の奥に巣食うホームレスは、意外な訪問者に思わず声をかけた。
「お前さん、こんな所で何してんだ?」
口髭と繋がりそうな顎髭は白髪が混じっており、顔や服も薄汚れている。
「野暮用で学校近くのマンホールから出たいんだが、どっちに行けばいい?」
ライアンの焦燥にかられている表情と砂を被った身体を見て、地上で只ならぬことが起きたと勘付いたホームレスは答えと共に質問を投げかけた。
「この先行って分岐点を左、次を右、次を左に行くんじゃ。地上で何があった?テロか?」
「あぁ、おっさんは隠れてろ。じゃあな」
彼はそう言うと、肩を押さえながら通路を走って言った。しばらくホームレスの老人は突っ立っていたが、やがてライアンが来た方向に歩みを進めた。
大規模な争いは貧富を逆転させる。この混乱に乗じて老人は火事場泥棒になるつもりだ。さっそく、崩壊しかけの「インベンション」の近くにあるマンホールから顔を出す。
砂埃が舞って目が霞む。兵士がいないか辺りを見渡してから蓋を取り、雑貨店や食料売り場に忍びこんだ。
そして彼はそこで悍ましいものを目の当たりにする。
血だらけになったタイルを踏みながらパン屋の厨房に足を踏み入れると、鼻をツンとつく鉄の臭いがした。
壁に凭れかかったその遺体は、顔の皮が剥がれ、もはや性別さえもわからないほど惨酷な仕打ちをうけたようだった。
「...」
ホームレスの老人は無心に努め、彼の近くに散乱したパンを袋に詰めて店舗をあとにした。
一方、教師たちの目を掻い潜って、エマ達は校舎裏に辿り着いた。
「危なかった...どこに隠れる?」
頬から緊張の汗を流したサーニャが言う。何らかのイベントの時とは違う、生きるか死ぬかの瀬戸際。彼女らは冒険心や好奇心などは一切持ち合わせていなかった。
「どこがいいだろう...あいつらが来ない所...」
サーニャは、顎を摘んで考えるエマの後ろに、浮き沈みするマンホールの蓋を見つけた。
「...エマ!」
押し殺したようなサーニャの声に、エマが振り返ると、マンホールの蓋は開けられて太い腕が現れた。
咄嗟に2人は近くにあった腐朽した物置に隠れる。
息を潜め見張っていると、マンホールからは見慣れた人物が現れた。
「パパ!」
思わずエマが声をあげる。
青色のTシャツが砂埃でくすみ、顔は土と汗で茶色くなっていた。
「エマ...!大丈夫か?怪我はないか?」
「うん...!」
親子の再会の抱擁を眺めているだけのサーニャは蚊帳の外にされている気分がして、若干の気まずさを感じた。
「君はエマの友達?...とにかくここは危険だ。急いで中に入ろう」
彼はサーニャの返事を聞く前にマンホールに入るよう促した。サーニャは頷くと、最初に梯子をおりていく。
日照りが眩しい外界から薄暗い地下へと向かう。今まで嗅いだことのないような異臭が鼻をつくが、2人は我慢して水路脇の通路に降り立った。
「どこに行くの?」
エマが声がやけに大きく反響する。ライアンは「しっ」と言って口の前で人差し指を立てる。
そして身を屈めると、ゆっくり目玉だけを上の方向に動かした。
地上での足音が僅かに聞こえる。これは恐らくマギノ前線のメンバーのものだろう。あと少し遅ければ、3人とも捕まっていたかもしれない。
悪臭の中、3人は可能な限り音を押し殺して歩いた。
100mが物凄く長く感じる。このままどこにも辿り着けないのではないか。エマはそんなことを思っていた。
「ねぇ、マギノ前線の男達に捕まったらどうなるの?死ぬの?」
唐突にサーニャがライアンに近寄って聞く。彼女がこの事態に関して一番気になっていた部分でもあった。
「...あぁ。だから逃げるんだ。この際、皆を助けるなんて悠長な事は言ってられない。先ずはこの町を出よう」
「デイビッドとアニーは?今日はパン屋にいるはずだけど...」
エマが続いて聞く。立て続けにくる質問に少々苛立ったライアンであったが、これに対する答えは慎重に選ばなければならない。
死んだ。なんて言えば余計な混乱を招いて情緒を不安定にさせてしまう。
これからの逃亡生活、こういった心の歪みは精神的によくない。
「アニーは風邪で家にいる。デイビッドは...今この町にいないんだ。急用があってな...。じきに会えると思う」
娘に吐いた初めての嘘であった。
ライアンの頬に嘘の汗が伝う。
エマはライアンに何とも言い難い眼差しを向けた。その視線を感じた彼は歩みを止めてエマの両肩を優しく掴んだ。
「なぁエマ...そんな目しないでくれ。きっと助かる。パパがいるんだ。お前の友達の...えと」
「サーニャよ」
「サーニャ!そう、サーニャも一緒に助ける。大丈夫だ。な?パパを信じてくれ」
「...わかった」
「よし、行こう」
彼女の疑心を振り払ったライアンは再び歩みを進める。その時、前方から不審な影が近づいてきた。
よく眼を凝らすと、先程いたホームレスだ。彼は大きな布に食料や貴重品を包んでいるようだった。
「外はどうだった?」
ライアンが聞くと、ホームレスは鈴黒い歯を見せて不気味に笑う。サーニャは露骨に彼を嫌がってライアンの背中の後ろに隠れた。
「いいものが手に入ったよ...へへ」
彼が手に持っていたもの、それはランプの淡い灯りによって辛うじて確認できた。
黄土色のリング。デイビッドのだ。
「...エマ。サーニャ」
「?」
「この道を真っ直ぐ行って、突き当たりを左、その次を右に行くと町の外のマンホールに着く。そこで待っていてくれないか?」
「...わかった」
エマは「パパはどうするの?」という問いを飲み込み、素直に指示に従った。
「行こサーニャ」
「えぇ...」
彼女らの足音が遠のいたのを確認して、ライアンが拒否されるであろう言葉を切り出す。
「そのリング。親友のなんだ。返してくれないか?」
「今、地上はこんな有様だ。法なんてものは我楽多と同じさ。どうだ?ワシを殺して奪えば良いだろう?」
彼は寝ぐらに食料の入った袋を投げると、中からスコップを取り出して臨戦態勢に入った。
「なぁ頼む。それだけでいいんだ。そのリングだけで」
「お前の親友とやらの遺物とワシの命、重いのはどちらだろうな...!!それにいい娘達じゃないか」
血相を変えた老人はスコップの柄を強く握り、ライアンに襲いかかった。