冷めた珈琲
朗らかな空気、木製の床と壁が暖かみのある雰囲気を創り出している。部屋の隅にある祭壇にはボーフ教の預言者アフラの像が祀られている。
ボーフ教とは、神からの伝言を預かった預言者アフラによる一神教で、日々慎みながら神に祷ることで魂を救済されるというものである。
しかし、聖像崇拝を礼拝方法とするスニア派とアフラが没した地方への祈祷を本当の崇拝とするシンア派の宗教対立が社会問題になっている。
特に、シンア派は過激派組織が多く点在し、幾つもの複雑な派閥を形成している。彼らの一派にはスニア派を殲滅させることを目的にする前線も存在し、スニア派は危惧していた。
デイビッドの家含め、この地方にはスニア派しかおらず、比較的安定した宗教活動が行われている。
小さなアフラの像が蝋燭の火に照らされ、影がゆらゆらと揺れる。
「Happy birthday to you!!」
大人達の歌声が終わると同時に、エマはケーキに立てられた青色の蝋燭の火を消した。
「おめでとうエマ!」
「さぁエマ、これは僕からのプレゼントだ」
デイビッドは照れたのを隠すために髭を擦りながら、背中に隠したラッピングされている袋を手渡した。
「ありがとう!開けていい?」
「もちろん」
柔らかな毛並みにつぶらな瞳。ふかふかしたそれは少女の心を鷲掴みにした。
「可愛い!テディベア!」
「あぁ、エマなら喜ぶと思ってな」
「ありがとう!これから一緒に寝るよ!」
「ハハ!可愛がってくれよ」
デイビッドは大きな口を開けて笑うと、エマの頭を撫でた。
「私からはこれよ」
アニーが手渡したのは黄土色のリングだった。それはどこか深みのある色調をしており、彼女の人差し指にもはめられていた。
「指輪だ!アニーもつけてるの?」
「えぇ、デイビッドもライアンも、サラもつけてるわよ。みんな繋がっている...みんな家族なの」
「アニー...」
彼女は赤毛の前髪を撫でて、エマに顔を寄せた。
「気に入ってくれた?」
「うん。大事にする...!」
エマはそう言うとさっそくリングを小指にはめ、蛍光灯の光に輝かせてみた。自然と恍惚を帯びた笑顔が漏れる。
「さ、ケーキを切り終えたわよ。チョコとショートケーキ。どっちがいい?」
「私チョコ!」
サラとアニー、エマがケーキの話題で盛り上がっている傍ら、ライアンは瓶ビールを取り出して透明なグラスに注いだ。
「凄いな。このケーキ全部作ったのか」
「あぁ、伊達に売れないパン屋を営んでないぞ」
デイビッドは街にある小さなパン屋をアニーと一緒に営んでいた。いっそのこと住居と一緒にしたかったが、家を手放す訳にもいけないので、片道20分かけて職場まで向かっているらしい。
「売れないは余計よデイビッド」
アニーが口の端を吊り上げながら彼を睨んだ。彼はしまったと口を噤む。
バースデーパーティーは日を跨いで行われた。後片付けをして疲れて眠ったエマを、ライアンがおぶる。
外は溶け残った夜の薫りが漂い、白点が空に散りばめられている。
「それじゃ、ゆっくり休めよ」
デイビッドが腰に手を当てて言う。
「ありがとう、デイビッド、アニー」
ライアンが、背中で重たい瞼を閉じているエマを揺らすと、彼女は寝惚け眼のまま手を振った。
「おやすみエマ」
「うん、おやすみ」
小さな吐息のような声。玄関先の淡い裸電球の光が5人を包んだ。
エマ達が帰った後、デイビッドは珈琲を淹れてアニーと一息ついていた。
マグカップから漂う湯気が睫毛に絡みつく。
「ありがとうデイビッド」
「少し薄いかもな...」
彼は珈琲を淹れるのが下手だ。どんな種類の珈琲もアメリカンコーヒーになってしまう。
「もう慣れたわ...私もこの珈琲が好きになった」
「ハハ、有難い舌だ」
「私達にも子供がいたらね...」
失笑するデイビッドと対照に、アニーは暗いトーンで視線を落として呟いた。
「...」
それにつられて彼も眉をひそめる。
「いいかアニー。君のせいじゃない。エマは俺らにとっても宝物じゃないか...!」
「でも...やっぱり...子供が欲しい...!」
彼女は鼻声になりながら、服の袖で瞳から溢れる涙を拭う。見かねたデイビッドが彼女の肩を抱いて慰めた。
「その分エマを愛そう。俺たちは子供を持ってないからこそ、その大切さをよく知っているはずだ...」
「...えぇ、ごめんなさい」
下瞼を赤くして、デイビッドの腕を握る。彼女は、不妊症の自分を愛してくれたデイビッドに感謝すると同時に、自分の願いを叶えられない不甲斐なさに時々苛立っていた。
だが、デイビッドはそんな彼女を支え、励ましてくれる。それだけでアニーは救われている気分になった。
時計の針が時を刻む音が大きく聞こえる。夜が深まるまで、2人は抱擁しあい、虚しく机に残った珈琲はすっかり冷めてしまった。