娘の誕生日
スイッチのレバーに親指をかけ、吹抜けの窓から見える向かいのレストランを眺める。乾いた風が石造りの建物を撫でているのがわかった。ふと、フリルを揺らす赤い服の少女が母親と腕を組みながら店内に入っていくのが見えた。きっと彼女の心は雀躍していることだろう。
無精ひげを生やしたライアンはそう思いながら、机に立てかけられた猫の写真を虚ろな目で見つめた。黒と白の毛並みを持つアルはいつもライアンの相棒として家に居てくれた。そのことを思い出すと無いはずの右腕が疼く。それと同時につい最近まで起こっていた悪夢が頭を過ぎった。
「これで、全てが終わる」
彼はひとつ大きな深呼吸をすると、左手に持ったスイッチのレバーを軽く押し倒したのだった。
______一ヶ月前。
木漏れ日が心地いい並木道をSUVで走り抜ける。今日は娘エマの誕生日ということもあって、ライアンは興奮を胸に秘めながら学校まで迎えに車を走らせた。
8歳の彼女が通う小さな学校に着く頃には、ハンドルが手汗で光沢を放っていた。カーウィンドウを開けると春の陽気が車内に満ちていく。深い呼吸をして肺の中の空気を入れ替えた。玄関口に立っていたエマは深緑の車を見つけると笑顔を散らして駆け寄っていく。
「パパ、ただいま!」
「おかえり、エマ」
歯抜けの微笑を見せるエマに、ライアンは目を大きくして笑ってみせた。
彼女は頬によく紅葉を散らし、元気な笑顔を振りまいている。栗色のボブカットの彼女はライアンの生き甲斐でもあるのだ。
ハンドルをきって帰路へと着き、無言で来た道を、帰りは娘の笑い声と共に走る。
彼にとってこのルーティンが1日の幸せの一つでもあった。家に着くと、エマはバッグを肩に掛けて元気よく玄関の扉を開けて「ママただいま!」と言った。
ライアンも車の鍵を抜いて家に戻ろうとすると、隣の家から視線を感じた。
ここは閑静な山の麓。家は2軒しかなく、交通の便も良くないが、娘に自然と触れ合う機会を与えたいと思い転居を決めた。視線があるとすれば、獣か隣人だけである。
木製の家に取り付けられた水色の可愛らしい窓から、黒髪を垂らした小太りの男が顔を覗かせていた。
隣人のデイビッドだ。彼は温厚で面倒見が良く、偶に家族合同でバーベキューをする程の仲だ。整った顔と不釣合いな体型は奇妙な愛嬌を生み出し、付き合いもいい。デイビッドはよくライアンを連れてオススメの店を案内していた。
デイビッドは人差し指と親指で輪っかを作り、「OK」の合図をする。ライアンも眉を上げて親指を立てた。
家に入ると、エマが重たい瞼を必死に保っているアルの身体を擽っている。
「おいおいアルは眠いってさ」
「アルは遊びたいって言ってるよ」
「本当かー?」
エマがソファの上でアルの腕を掴み、人形のようにして遊んでいる。抵抗する気力もないのか、アルは彼女のなすがままになっていた。
「じゃあパパが何て言ってるかわかるか?」
ワクワクしている娘の前でライアンは腹話術を使って「アソビタイヨー」っと発声した。
「うーんとねー。パパはねー。トイレに行きたいんじゃない?」
「残念、お仕置きだ!」
ソファに埋もれるエマはライアンに脇腹を擽られてからからと辺り憚からずに笑う。
じゃれ合う2人の隙を見て、アルはソファから脱出し、机の下に身を隠して眠りについた。窓から射し込む光が、アルの綺麗な黒に光沢を作った。
そんな微笑ましい場面を見て、リビングにいたライアンの妻サラは、カメラを撮って笑う。
「あ〜、ママ写真撮った!」
「ほらほら、デイビッドの家に行くわよ。さっさと支度してちょうだい」
2人は急かされると、「はーい」と返事をして身なりを整える。
エマが2階にあがった隙を窺って、ライアンはサラに小さく「成功するかな?」と呟いた。
「きっとあの娘も喜ぶわよ」
「あぁ」
サラは軽く口付けをすると、ブロンドの髪に緑のブローチを付けた。
「あ、そのブローチ」
「あなたがくれたやつよ」
彼女は頬に皺を作ってはにかんだ笑顔を見せた。
今日はディナーという名目でエマの誕生日を執り行う予定だ。彼女は薄々勘付いているだろうが、デイビッドの家でディナーを一緒にするとしか思っていないだろう。
いや、子供とは鋭い第六感を持っているものだ。彼女は気づいていないフリをしていた。恐らく、どの子供でもそうするに違いない。
ここで「私の誕生日会!?」などと口走れば、両親共々興醒めになると認識している。
エマはタンスから白のワンピースを取って試着し、姿鏡を見て自分の姿に惚れ惚れしていた。
「エマ〜!置いて行くわよ〜!」
母が急かす声がする。彼女は内心
「私を置いていったら主役がいなくなっちゃうじゃない?」と思ったが、「は〜い」とだけすかした返事をして階段を駆け下りた。
デイビッドの家は、ライアンの家から見える位置にあり、土地の盛り上がった部分に建っている。
整備されていない道を少し歩くと、すぐに木製の玄関扉が見えた。
「デイビッドー!来たわよー!」
いつもエマが扉の前で元気な声をあげると、デイビッドが扉を開けて迎えてくれる。だが、今日は物音一つ聞こえなかった。
首を傾げるエマの隣でライアンが「おかしいなぁ」と呟く。
彼が少し古びたドアノブを回して扉を押すと、クラッカーの破裂する音と共にパーティーグッズを身につけたデイビッドとその妻アニーが現れた。
「誕生日おめでとう!エマ!」
頬を盛り上げて笑うデイビッド、拍手をして優しい眼差しで迎えるアニー。
分かっていた筈なのに、エマの胸は激しく波打ち感動した。思わず両手を口にあてて目を丸くしてしまう。
机には豪華な手料理、窓や壁には恐らく彼らが頑張って作ったのであろう装飾が施されている。
「...ありがとう」
それは心からの言葉だった。ライアンは大きな手で彼女の頭を撫で、額に軽くキスをする。
「みんなありがとう...!」
もう一度、今度はライアンやサラへの感謝の言葉を放った。
彼女のはにかんだ笑顔はサラに似ていると、ライアンは心の内で密かに思っていた。