3.天秤は、傾いた。
ガレージの壁にかけられた時計の針は、夜を指している。
作業をしている人間はもう多くはない。ココを含め、大半の子どもが担当作業を終えて、与えられている寝床に戻っている。
そんな時間。
ラミントンの機体の後方に回った男の子が、燃料タンクのふたをあけて中をのぞきこむ。なみなみとオイルが揺れているのを確認して蓋を閉じ、少なかった場合に補給するため用意していた足元のタンクとポンプを倉庫に片付けるべく、持ち上げる。
「待て」
かかった号令に、ポンプを持っていた男の子の手が止まった。
これまで一度だって作業に加わったことのないバラムンディが、倉庫に通じる扉の前で、燃料タンクを持って立っていた。さも名案が浮かんだとばかりに嬉々と言った。
「どんなに優秀な《整備士》でも、既に入ってるオイルがどうかなんてところまではチェックしないだろう?」
近づいてくる小太りの男を、少年は呆然と見上げた。
「どうなんだ? え?」
語気の荒い催促に、少年は怯えながら肯定の声を返す。バラムンディは満足そうに頷いた。
持っていた満タンのタンクを、どん、と少年の前に置く。少年はタンクに貼られた番号を見て、あっと声をあげた。
「中のオイルは回収だ。で、これを入れるんだ」
この機体に軽量オイルは危険。少年は青ざめて、ぶるぶる震えて首を振るも、
「さっさとしろ! 死にてぇか!」
青筋を浮かべたバラムンディに蹴り飛ばされて吹っ飛び、悲鳴をあげながら床を転がった。
ガレージが静まり返る。
反論できる者など、いるはずもなく。
そうでなくても、ここから放り出されたら間違いなく飢え死ぬことがわかっている病気持ちの少年は、泣く泣くオイルを入れ替えた。
***
ばらばらとプロペラが回る音が、ガレージに響き渡る。
ココはこっそり、ガレージと小部屋とを隔てている扉を細く開けた。
心臓が痛いほど鳴っている。来客中にこの扉を開けていたことがバレたら、バラムンディに殺される。だけど、ちょっとだけでも、あの優しい《飛行士》の姿を見てみたかった。
仲間たちはココの行動を咎めるような目で見たけれど、慎重で器用な子だと知っているからか、何も言わない。それとも、声を出したらバラムンディに気づかれる、というだけの理由だったかも知れない。
ココがそっとのぞき見た明るいガレージでは、高速機が飛び立つ準備を始めていた。
バラムンディの背中が見える。その隣に、見慣れない少年の姿がある。少年は使い古されたツナギを着ている。きっと彼は《整備士》だ。その肩に、少年自身のものではなさそうな、大きくて上等そうなコートをかけている。あれはきっと《飛行士》のものだ、とココは思った。真っ赤な髪が印象的なその少年は、機体を見上げて、身振り手振りを使って、なにやら声をかけているようだ。
どうやら、ちょっと遅かったらしい。きっと《飛行士》はもう乗車してしまっている。
落胆したココの目が、ガレージの隅に不自然に転がっている、空のタンクを捉えた。
「……?」
普通、整備のあと、すべてのタンクはガレージの隅に綺麗に積み上げられているか、あるいは倉庫にしまってある。《飛行士》の出入りがあるガレージは綺麗にしておくように、とバラムンディにきつく言われているからだ。
誰かがしまい忘れたのだろう。バラムンディが気づきませんように、と祈ろうとしたココは、気づかれる前に扉を閉めようとして――固まった。爆風でわずかに向きを変えたそのタンクの、番号が見えたから。
あれは、軽量だ。
ココは慌てて小部屋の中を振り返った。
驚いたような仲間たちの顔が、すぐそばにある。慌てたココの様子を見て、次々と不思議そうな顔に変わってゆく。
それらの間から――ココは見つけた。
今日の燃料担当だった子が、部屋の一番奥にうずくまって、がたがた震えているのを。
ガレージからひときわ大きな物音がした。機体は充分に暖まったようだ。もうじき飛び立つ。
「――」
ココの頭の中で、今まで第一に考えていた自分の平穏と、仲間の無事と、それから、今まさに飛び立とうとしている、顔も知らないあの《飛行士》の明るい声とが混ざり合い――
――天秤は、傾いた。
扉にひたいを付けて、一度だけきつく目を閉じたココは、左手の小指を胸の前で握り締めた。
目を開けて、息を吐く。後ろのみんなを振り返らず、扉のノブを掴んだ。
「コ、」
一人の声。聞こえなかったふりをする。
ココは勢いよく扉を開けて、まっすぐ駆け出した。
後ろから色んな声が聞こえる。だけど、もう絶対に振り向かないと決めた。
事態に気づいたらしいバラムンディの怒号が、どこからか聞こえる。けれど、ココは止まらない。視線はまっすぐに高速機の前輪だけを見ている。
走り出したときにはもう、何があっても立ち止まらない、と決めていた。
フライト時に設置する安全柵をくぐりぬけ、爆風の中へと飛び込み、今まさに回転を始めようとしている巨大な前輪めがけて全身を投げ出し、
止まれ――!!!
ココは、
すべてをかけて、それだけを願った。
めいっぱい伸ばした両手の先が車輪に触れる直前、すぐ後ろから、どさりという落下音が聞こえた。
「!」
突然、横から何か大きな柔らかいものが勢いよくぶつかってきて、ココはあさっての方向に転がる。
駆け寄ってくる何種類かの靴音が聞こえる。反射的につぶった目を、そっと開ける。
どうやら、突き飛ばされた弾みでガレージを飛び出したようだ。ココが久しぶりに見上げた昼間の空は、すごくまぶしくて、とても広かった。
「――――間に合ったか、な。怪我はない?」
至近距離からかけられた声は、よく聞きなれた、あの穏やかな声と同じ。
少し視線を動かすと、すぐ目の前に、綺麗に笑う、一人の青年の顔があった。
「よっと」
目の前の青年から、あの《飛行士》の声がして、ココの視界がぐるりと回る。
ココを抱えていた青年が起き上がって、それからココを立たせたのだ、と気づくまでに数秒かかった。
しゃがみこんだままの青年は、ココの両手をとって何度か表裏を返す。それを、青年の目が真剣そうに見つめている。
「よし、足も……大丈夫だな。で、」
ココの爪先あたりをじっと見ていた小麦色の目が、すっと視線を上げる。ココの顔を通り過ぎて、おでこのあたりを見る。
「うし。見えるところに怪我はないね。良かった」
また戻ってきた視線が、今度はココの目とばっちり合って、それからにっこり微笑まれた。
ココは、何度かまばたきを繰り返す。
乱暴な足音がして、青年の名を呼ぶ声が聞こえた。ココと青年は振り返る。
「た、立てないんですか?!」
ココの前にしゃがみこんだままだった青年に、赤髪の少年がものすごく青い顔で叫んだ。あまりの大声に、ココは反射的にびくっとなる。それを、《飛行士》の青年――ラミントンが笑った。
「違うよ、大丈夫。ちょっとチェックしてただけ」
気安い感じで少年に答えるなり、ラミントンはズボンの埃を払って立ち上がる。平然と両足で立つその様子を見た少年は、表情を少し緩めた。
追いついたバラムンディが、真っ赤な顔でラミントンに声をかける。ラミントンは涼しい顔で応じる。頭上で展開される会話を、ココはぼーっと聞いていた。
赤髪の少年が、周囲を見回していたかと思うと、あの空のタンクを見つけて駆け出していく。
あ、と、ココの口から、声にならない声が出る。
だけど、追いかけて先にタンクを奪って口止めするのには、ちょっともう、間に合わない。
少年はタンクのラベルをじっと見たあと、中のにおいをかぐようなしぐさをしてから、それを持ったままラミントンのところへと戻ってきた。
「あの、」
それから、ラミントンを呼んで、耳打ち。
世界有数の優秀な《飛行士》は、その内容を聞くなり絶句した。
「――――軽量を、この機に……?!」
バラムンディがぎく、と肩を強張らせた。
「いや、ははまさかそんな、出力落とすようなこと、するわけないでしょう?」
「『出力落とすようなこと』、だって?」
少年がバラムンディを睨みつけた。
「冗談じゃない。アンタ、整備屋資格、買ったクチだな? 軽量は円型タンクに入れると気泡ができて、この機体くらいの出力だと、引火するんだよ!!」
「そ、そんなことは知っているに決まっている。そもそも、貴様、何の証拠があって私が軽量を入れたなどと……言いがかりだ!」
少年は持っていた空のタンクをバラムンディめがけて放り投げた。カラン、と間抜けな音を立ててバラムンディの足元に転がるタンクに、全員の視線が集まる。
フンと鼻を鳴らして、
「なもん、嗅げば分かるんだよ」
少年は口角を吊り上げた。
「何を、そんな、むちゃくちゃな……! 屁理屈だっ、ご存知でしょうラミントン様、オイルはどれも無臭なのだから!!」
少年がおもむろに腕組みをして、、ものすごく軽蔑したような目でバラムンディを見た。
「……まぁいいや、そういうことでも。これ以上、あんたに教えてやる義理もない」
「あ、確か前に、俺には教えてくれたよな。えーっと、排気中の特定の有臭物質が、特定のオイルと結合しやすいんだっけ?」
「言うなよ!!」
少年の鋭いツッコミに、ココは思わず両目をつぶった。
バラムンディは流れてくる汗をぬぐいながら、ラミントンに向き直った。
「そんなことは聞いたことがありませんけどね。まぁ、真偽はともかくとして、とりあえずその紛れ込んでいる子どもは、こちらで預かりましょう」
「あぁ、そうだな。……ん?」
とっさに思わずラミントンの服にしがみつこうと手を伸ばしたココは、慌てて手を下ろした。俯いて、バラムンディのほうへとゆっくり近づく。
その様子を、腕組みしたままの赤髪の少年が、顔をしかめたままじっと見ている。
「よろしく頼むよ」
ラミントンは、バラムンディに愛想よく言った。
***
……だって、どのみち、《整備屋》で《飛行士》が死んだなんてことになれば、仕事がなくなって全員死んじゃうのは目に見えているし。
だから、これが最善。
あのひとが無事で、本当に良かった。
仲間のみんなが、誰も一緒に飛び出してこなくて、本当に良かった。
だから、これが最善。
そう言い聞かせて、ココはゆっくりと目を閉じた。
間違っても、涙なんか出ないように。