2.《整備士(アルティサン)》
「ただいまー」
愛機とともに上機嫌で持ち家の倉庫に戻ったラミントンの出迎えには、なんともいえない表情を浮かべた赤髪の若い《整備士》が一人。
「ん? どうした、ビー」
「……俺、ちょっと確認しないといけないことが……いや、なんでもないです」
ビーと呼ばれた若い《整備士》――ビートゥルートは、そっぽを向いてぼそぼそ呟いたあと、ブレーキを引いたラミントンのいる操縦席までよじ登ってきた。計器のメーターを確認しているラミントンの後ろで、黙ってごそごそやっている。ラミントンは不思議に思って、ビートゥルートの丸まった背中越しにその手元をのぞきこんだ。それに気づいたビートゥルートがはっとなって振り返り、両手を広げて思いっきりのけぞる。
「いやっ、これ俺じゃないんで! ユーカリプタスの野郎が優雅に整備するとか言って色たば……あれ?」
とんでもなく慌てた動きは、ロックの外れた後部の補助席を振り返るなり、ぱったりと途絶えた。視線は、何の変哲もない革張りの背もたれに向けられている。しゃがみこんだビートゥルートは、そこにずいと鼻先を近づけた。
「おー……すっげー」
しきりに感心したような声をあげ、何の変哲もない革張りの座席を撫で回す生粋の機械オタク。せっせと動き回るその後ろで、ラミントンは形の良い眉をしかめた。
「なんだ? どういうことだ?」
「あんたは知らなくて良いことです」
ぴしゃりと返される。振り向きもしない忙しそうなビートゥルート。その両手はまだ、座席周辺のあちこちをいじっている。
ラミントンは周囲を見回してから。
「……なぁビー」
「なんです」
「俺、お前の雇い主だよな?」
「ええ」
「この機体、俺のだよね」
「もちろん」
「えっと、あと、俺のほうが、結構年上だよね」
「何を今更」
「……時々うっかり騙されそうになるけどさぁ、ビーくん、きみねぇ」
自らの所有する最新鋭の高速機の中で所在なさげに立っている絶世のイケメンのお小言を、ビートゥルートは、ぱたぱたと右手を振って遮った。
「心配しなくても、貴方が知るべきことは俺、ちゃんと言ってますよ」
「……そうだけどなぁ」
「整専校卒業したはいいけど家柄も身寄りもツテもなくって路頭に迷うこと確実だった俺を雇って、いっぱしの《整備士》扱いしてくれていること、こうして最新鋭の機体自由にいじらせてもらってること、その恩は忘れていないつもりですが?」
「あー、そうだろうけど」
「そうです。ただちょっと、えーと、親密さの現れですよ。一応敬語じゃないですか。それとも、ビジネスライクなほうがお好みですか? 生意気さの欠片もないビーのほうがよろしいですか?」
「いやそれはちょっと……つまんないな」
「でしょう?」
よしこの破綻しきった理論で今回も押し通せそうだ、と内心でほくそえむビートゥルートの考えなど知るはずもなく。
深く考えない善人のかたまり(※ビー談)、ラミントンはあっさりと頷いた。
「そうか。ならいいや」
同じく満足そうに頷いたビートゥルートが、手馴れた様子で補助席を縦に戻す。
ガチャン、と、ひときわ大きな金属音を鳴らすと同時に、赤髪の下でひっそりと呟いた。
「……ただちょっと、普通の《整備士》は忠誠心より仲間意識が強いってだけです」
「ん?」
「いやなんでも」
立ち上がったビートゥルートは前の席に行き、操縦者お好みの角度に計器を修正し直そうとして――手を止める。すべての計器の角度をざっと見渡すと、
「……胸糞悪ぃ」
ぼそりと呟いて、手を下ろした。その様子に、ラミントンは首を傾げる。
「ん? バラムンディの店は嫌いか? いい仕事をしていると思うんだが」
しばらく何かを考えるように黙っていたビートゥルートは、諦めたような顔で首を振り、
「……いや、ぜひこれからもあそこにしてください」
平坦に言った。
「なんだそりゃ」
怪訝な顔のラミントンを差し置いて、
「今日はあいつが担当かよ。どおりでしみが消えてるはずだ」
とさりげなく呟いたビートゥルートはひらりと操縦席から下りる。その弾みで、かちゃり、と小さな銀色がラミントンの足元に落ちた。
「ビー、何か落としたぞ。どこの部品……って……」
ラミントンは屈んで、その金属を手に取った。
「……指輪?」
倉庫の明かりにかざすと、綺麗な銀色が光る。
「なぁ、ビー、これ……」
振り返って声をかけるが、すでに親友の《整備士》は、別の機体のところに行ってしまっている。
ラミントンは口をつぐんで、もう一度、指輪に視線を戻した。
細い指輪だ。女性用だろうか。少なくとも、ラミントンやビーたち雇いの《整備士》のものではない。機体を預けたバラムンディは、装飾品を一切好まないと前に聞いたことがあるし、実際、一度だってそういうものを付けているのを見たことがない。バラムンディのところは《整備屋》だから、独身の彼のほかには動力しかいないはずだ。
「うーん……バラムンディの恋人の、か?」
でも、あの仕事人間のバラムンディが、恋人を、整備中の機体に乗せるだろうか? ラミントンは首をひねった。
しかし、小さい指輪だ。ラミントンの小指すら入らない。これまでに女性からねだられて、こういう指輪を贈ったことは何度かあるが、ここまで小さくはなかったような気がする。
手のひらに転がる銀色の指輪を、ラミントンはしばらくじっと見つめていた。
***
それから数日も経たないうちに、再び機体と一緒に現れたラミントンに、バラムンディは不安そうな顔をした。
「どこか不具合が?」
「まさか。ほら、もうすぐ大会があるだろう? この前、定期点検があったから大丈夫だろうとは思うんだけど、一応ね」
「そうでしたか。そういうことなら、しっかり点検させていただきますよ。大会を目指して、万全にしなくてはね」
「ありがとう」
いつものように、二人は機体を離れて、清算のため居室へと向かう。
バラムンディがにこにこしながら、隣を歩くラミントンに問いかける。
「しかし、お宅の《整備士》に任せても良かったのでは?」
「彼らが、バラムンディのところは質がいいから診てもらえっていうんだ。あぁそういえば、ビー……うちの一番若い《整備士》が見学したがってるんだが、今度連れてきてもいいかな?」
「ええ、もちろん。さぞかし優秀な《整備士》なんでしょう。私もぜひお会いしたいですよ」
「あはは。整備してないときは、ただの生意気なガキだけどね」
***
シャッターが下りるなり、目が慣れる時間も惜しんでココは機体にのぼった。右手で左手の小指を握って、慌てた様子で周囲を見回す。後部座席を留める金属製のベルトの隙間から、見覚えのある銀色が半分ほど出ているのが見えた。
あった。よかった。指輪だ。
ココはそっと手を伸ばして銀色をつまんだ。
――安堵のため息は、途中で止まった。
指輪と一緒に引き出されたのは、指輪に通されていた細い紐と、その先に付いていた、名刺サイズの白いメッセージカードだった。ココはぎょっとなって、指輪にぶら下がってまぬけに回る紙の端をつまむ。
きらきら光る不思議な塗料で綺麗な小花が描かれたカード。中央に、青いインクで荒い筆致の文字が並んでいる。
"いつも ご苦労さま"
ココは息を止めた。茶色い丸い両目が文字をじっと見つめる。
地上から、点検を始めた音が、小さく聞こえてくる。
「――」
ココはとんでもなく嬉しそうな顔を浮かべて、助手席のシートに突っ伏した。
翼に上がってきた別の子どもが、そのまま動かないココの後頭部を不思議そうに見てから、作業を始めた。
ココは手紙の主を知っている。バラムンディの店を利用する客は多くいるけれど、その中で一番、機体の新調を盛大に喜ぶ声の人だ。少しでも故障すると、死にそうな声を出して駆け込んでくる人だ。そして、とても楽しそうに機体を乗り回し、大切に機体に乗る人だ。
話をしたことはないれど。顔を見たことすら、ないけれど。
だけど、優しい人だと思う。いつもその音を聞いているから、そう思う。
ココは、指輪とカードを手の中に収めて、ぎゅっと身を縮めた。
今度の大会で、彼こそが一等賞になりますように――
誰にも知られていない世界の片隅で、ココは小さく強く、願った。