1.《飛行士(パイロット)》
警笛とともに、シャッターが上がる。
白昼の突きささるような日の光が、暗闇に覆われていたガレージに入ってくる。同時に、耳をつんざくような轟音と、爆風に舞い上がる砂塵。大型エンジンが地を震わせて吼えている。
前輪を回して、逆光に照らされた最新鋭の高速機がゆっくりと入ってくる。規定の位置ぴったりで停止した。ガレージ全体を震わせていた振動が収まる。厚いガラス製のキャノピーが上に開いて、操縦席から黒髪の青年が顔を出した。
「よろしく頼むよ、バラムンディ!」
迎えに出ていた男が一人、地上から了解の意味で手を振る。新調したてのジャケットと、ぴっしりプレスのかかったスラックス、それから武骨な長靴。頬ひげが印象的な小太りの彼が、ここの《整備屋》の経営者だ。
「タイミングがいいですね。ちょうど手が空いていたところです」
「本当か? ラッキーだな」
青年が嬉しそうに答えて、操縦席から下りてきた。
***
「うちの《整備士》の見立てでは、何の異常もなかったんだけどね。先月練習を始めた長距離の急降下にもだいぶ慣れてきたし――俺も、こいつも」
コン、と鈍い金属音が響く。《飛行士》が愛機の胴を叩いた音だ。
その音とその言葉を聞いていたココは、なんか良いな、と思う。
今、ココはみんなと一緒に、ぎゅうぎゅうになって暗く狭い小部屋に隠れている。整備用オイルのしみこんだツナギは丈夫だけど固くて、体育座りでじっとしているには少し苦しい。でも、束の間の休息だけど、ココはこの時間が大好きだ。特に、あの人が来ているときが。
あの人が来ると、いつも、ガレージが明るくなる気がする。いつも、ガレージにこもっているエンジンの排気と熱と整備用オイルのにおいが少し、薄れるような気がする。不思議だ。
「じゃ、三日後の昼過ぎに引き取りにくるから」
「ええ、お待ちしております」
足音がゆっくりと遠ざかっていく。
行ってしまう。
ガレージの明るさも、こもった空気も、きっといつものように元に戻ってしまっただろう。話し声はもう聞こえない。応対していたバラムンディも一緒に出て行ったようだ。
***
軋んだ音を立てて、ガレージ入口の重いシャッターが下りる。屋内に漆黒の闇が戻る。
一瞬の静けさの後に、ごそごそと動き出す無数の影がある。本来の《整備屋》なら、ここで出てくるのはたくさんの整備用動力のはずだ。しかし、闇に出てきたのは動力ではない。小柄な人間だ。売られて買われて、整備技術を教え込まれた、年端も行かない子どもたちだ。
繁盛していると評判の、名だたる大手の《整備屋》は、どこも似たようなものだ。
《飛行士》たちは知らない。世間も気づいていない。整備ビジネスの裏側が、いかに切迫しているか、そして、薄汚れているかを。
一人の子どもが、まだ熱い機体の前輪にタイヤ止めをはめる。
それを確認してから、数人が一斉にレンチを回す。胴回りのボディパネルが外れ、駆動部の一部がダンパーによってゆっくりと下りてくる。
もう一人が、寝板なしに、その隙間へと転がり込む。
持っていたレンチをベルトに差して両手を空けた一人が、ナセルの吸気口に両手をつっこむ。
刻々と時間は過ぎる。
壁際にうずたかく積まれた燃料タンクの上に、丸眼鏡の男の子が一人座ってガレージ全体を見回している。膝から下のない左脚を動かして身をよじり、右手が壁のインターフォンをとった。左手は、膝の上に広げたスケジュール表の一ヶ所をしきりになぞっている。
「しつれいします」
変声期前の甲高い声。インターフォンの通じる先は、重いシャッターの向こう、薄暗い廊下の突き当たりにあるバラムンディの居室だ。
雇い主のそっけない応答をうけて、男の子は整備されていく機体を見ながら口を開いた。
「ラミントンさまのME8044A機は良好。後部の座席に色煙草のしみがある以外は、問題ないようです」
しばらく、電話口からは電算機を弾く音だけが聞こえる。紙をめくる音のあとに、経営者の苦悶の声が聞こえた。
『くっそ、今月も赤字ぎりぎりだぞ。何か適当な理由でっちあげて請求できねぇのか!』
電話越しの剣幕に、少年は震えながら首を振った。
「お、お抱えの《整備士》だとおもいますが、一番奥のバルブまで点検した形跡がありました」
『っとに、どこもかしこも整専校卒なんか雇いやがって……。《飛行士》にバレたら元も子もない、下手なことはできないな……』
しぶしぶ断念する言葉を聞いて、丸眼鏡の少年はほっと胸をなでおろした。
***
《飛行士》。
世界で最も華やかで、最も難易度が高く、格式の高い職業だ。世界中の子どもたちの憧れの的で、有力な貴族の娘たちがこぞって花婿にしたがり、世の多くの青年たちが憧れ目指す職業。最新鋭の飛行機を乗り回して、自在に空を駆け回り、流通、伝達、戦争、交通手段――移動を伴うほぼすべての仕事をこなして、国を支える、花形の仕事。国際競技としても発展し、首都で定期的に開かれる大会では、その技術力の高さに、近年、多くの観光客がこの国を訪れるようになっている。
***
両手をバケツに入れると、青白い液体の冷たさが、小指と指輪との間や爪の間にまで染み入ってくる。背筋が伸びて、少し眠気が覚めた。
薬剤に布をひたして、よく絞ってから、座席の革を軽く叩くように撫でる。放置されていたしみが少し薄くなったのを見て、ココは安堵の息を吐いた。
三日前に定期点検に預けられたこの機体は、要所に油をさして、このしみ抜きをすれば完了で、必要な作業はすぐに終わるはずだった。けれど、依頼主が去って一時間ほど経ったころ、別の《飛行士》が尾翼の折れた機体とともに駆け込んできて、バラムンディに泣きついた。
「三日後にこの機体で、隣町のショーに出なきゃならないんだ」、と。
その《飛行士》は荒っぽい操縦をする人で、整備をするココたちにしてみればあまり良い印象を持ってないのだが、勢いよく飛び回る機体は他にはない迫力があるらしく、多くのショー会場に引っ張りだこ。国内の人気を博す若き《飛行士》の一人らしい。
らしい、というのは、ココが実際にショーを見に行ったわけではなくて、他の《飛行士》たちとバラムンディとの雑談で聞きかじった話だからだ。ココたちはいつもそうやって情報を得ている。
で、その、稼ぎ頭で羽振りの良いお得意様に、通常の数倍近い修理費を提示され、通常の1/4近い時間での修繕を依頼されたバラムンディは、一も二もなく、快く引き受けた。薄暗い闇の中で小さな指を折り曲げて作業量を数え、小部屋の中で愕然とする子どもたちの様子など、知るはずもなく。
慎重にしみ抜きを続けるココの耳に、かすかな音が届いた。閉めきったシャッターの向こう側で、昼を知らせる鐘が鳴っている。
連日徹夜で続いた整備も終了間近。
どうにか期限に間に合わせて尾翼の修理を終えた機体は、先ほど心配そうな顔でやってきた依頼者が満面の笑みで引き取っていった。飛び立つ機体を見送りながら、エンジンの爆音と閉まりゆくシャッターの音にかき消されて、
「どうせまた、今回のショーでも派手に壊してくれるんだろう?」
とバラムンディが嬉しそうに呟いていたのを聞きつけて、何人かの子どもが諦め顔でうなずいていた。
それで、目下の仕事は、あと数分でやってくるだろうあの几帳面な青年の機体の整備だけ。力尽きた何人かがそこらへんに転がっている奇妙な光景を、誰も笑う余裕すらない。まだ動いているのは、責任感だけで持ちこたえている座席担当のココと、体力のあるちょっと年上の男の子たちだけだ。
――来客を知らせるブザーが響き渡る。
反射的に入口を振り返ったココの目を、差し込んでくる日差しが焼いた。
「!」
とっさに薬剤まみれの手で顔を覆う。かすかに聞こえてきた話し声に、ココはくらんだ目のまま手早く付近の布を集めると、バケツを持って操縦席から下りる。気力をふりしぼって立ち上がったみんなと一緒に、闇に向かって駆け出した。
一瞬あとに、操縦席で鳴った小さな落下音は、たくさんの小さな足音にかき消された。